10月9日(土)
アマゾン群馬の森を後にし、国道316号に戻ると「ブラジリアまで二千五十五キロ」という標識が現れた。ベレン方向へ少し戻り、サンタイザベル・サントアントニオ日伯協会の会館へ。講堂の壁には、しっかりと神棚が祀られている。
「こちらはとても暑いですが、寒いサンパウロからよくいらっしゃいました」と影山昭男アントニーノ会長(二世)は一同を出迎えた。エスコーラの生徒が、アマゾン独特民族舞踊のカリンボー、ゆっくりだがとても情熱的な踊りを披露してくれた。
二十五ヘクタールもある同協会の敷地内に、一九七一年に日本語学校が、九六年にはエスコーラ・ニッケイ(公認幼小中高校)が設立された。両校とも文協学校運営委員会が管理しており、代表は影山会長だ。
「学校運営が日本人会の大事な活動です。これを経営するにあたり、日本の伝統やしつけを入れる方針でやってきています」と説明する。
エスコーラは、「最初は自分たちの子どものための学校として発足させた」という。いい学校のあるベレンまで、三十六キロの道のりを毎日通わせることは容易ではないからだ。「周辺の学校と比べ、かなりいいレベルになっています」と影山会長は胸を張る。
同校は発足から十年足らずだが、年々学年を増やし、現在は児童・生徒三百人を数える。日系生徒は二五%だという。昨年、高校部の第一回卒業生二十人を輩出した。うち十六人が大学へ一発で進学したことからも、レベルの高さが伺われる。
中学生(八年生)までは日本語も正課に入れられており、七五%を占める非日系も一緒に学ぶ。全日制で、四十六人いる教師は基本的に非日系だが、校長は日系のネグラン・加藤・マリア・デ・ファチマさんが務める。
周辺の小中学校の月謝は六十レアル程度だが、同校は小学校八十、中学校百、高校百六十レアル。それでも生徒は集まってくる。
エスコーラよりも伝統のある日本語学校の生徒は五十六人。校長は福島県出身で、渡伯三十年になる大槻富貴子さんだ。「みなさんの到着が遅れて、授業が終わってしまい、見ていただけなくて残念です」。校長以下、一世教師二人、二世が二人とJICA青年ボランティアの計七人が教育を支える。
この移住地の歴史は古い。初入植は一九三一年だ。六〇年に文協を創立し、翌年に土地を購入した。何より先に、六六年に野球場を建設し、次に七一年に日本語学校、七二年に会館を建設した。先駆者たちの興味深い優先順位だ。
会員は約百家族で、野球、ソフトボール、相撲、ゲートボール、スカッシュボールでも好成績を残している。
敷地内には、屋根つきのゲートボール場の他、野球場も二面ある。青年、少年含めて四チームあり、約百人が毎週集まって汗を流す。今でも立派なものだが、「昔は、今以上には盛んだったんですよ」と同文協役員は説明する。毎年七月には北伯野球大会が開催される。
ホームベースの後には立派な観客席、センター後方の得点掲示板の向こうは、鬱蒼とした森が広がる。
「ホームラン打ったら原始林だね」と訪問団員がいうと、一同爆笑となった。どこか壮大な感じがする。 つづく
(深沢正雪記者)
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