10月29日(金)
この連載原稿は、「南米移住史を教科書に!」という趣旨で組まれた、日本の小中高校教師向け専門誌『歴史地理教育』九月号の特集「近現代史の中のブラジル移民・移住」の一部だ。ニッケイ新聞社の深沢正雪記者が担当した部分で、教科書掲載の意義と期待に関する、移民の声を拾って日本側に伝える意図で取材したもの。この特集を機に、コロニア側でも教科書掲載運動に対する認識を深め、日本側と手を取り合って百周年までに実現することが期待されている。
太平洋が陸地なら子どもを背負って帰りたい――。邦人社会では、そんな唄が詠まれたこともある。特に戦前移民には筆舌に尽くしがたい苦労もあった。
「よその民族に囲まれて生活する辛さ、楽しさ。異文化や隣人に対する理解や誤解。移民というあり方に深く関わるそのような点を、良くも悪くも事実を事実として書いてほしいものです」。ブラジル岐阜県人会会長、戦後移民の山田彦次さん(六七)はそう語った。
「奥地の原生林の開拓に家族で入った女性は特に、お産を始め生活の様々な点で大変だったそうです。子どもが死んでしまう。ちゃんとしたお墓もない、戸籍もない。しかたなく植民地に埋めて、別の場所へ移動する。何年かたってそこへもどってみると、埋めた場所になんの痕跡も残ってない。再生林や町になっている。移民の百年の歴史は、そういう積み重ねなんですね」としみじみ語った。
「日本は戦争に敗れた時、『俺たちの祖国はどうなっているのか』とみんな心配し、日本の復興の手助けをしようとララ物資=戦後ブラジルの日本戦災同胞救援会がLARA(国連救済復興委員会)を通して物資などを送り祖国を支援した=を送った。そんな話、日本の人はほとんど知らないんじゃないですか」。
山田さんは県人会長をしている関係もあって、日本との交流も多い。「郷里に帰って肌で感じるのは、日本人は我々に対して優越感をもって接してくること。酷いやつは慇懃無礼でさえある。おそらく、自分の祖先の墓を捨てて行ったという意識からではないか」と推測している。「デカセギ でいった人に、『金をやるからよその県で働いてくれ』と親族から言われる人もいた」と憤り、そのような日本在住者の意識を教育を通して改革することを期待する。
十歳で渡伯した戦前移民、清谷益次さん(八八)は「(教科書に掲載されたら)みんな、嬉しいんじゃないですか。移民を送り出したことが日本にとってどういう意味があったのかを、みんなで考え直す良い機会です」という。「少なくとも、忘れられたら困る」。
戦後移住し、サンパウロ大学を卒業した岡崎祐三さん(六一)は、日本の教科書に山田長政についての記述はあっても、南米移民について書かれてないことを残念に思っている。定期的に勉強会を開き、「何百年かたっても山田長政の時のように苗字しかのこっていない、ということにならない方法」を真剣に議論している。
「日本の国だけがいいのではない。日本は二百カ国あるうちの一つということ。ブラジルにはあらゆる人種が集まっていて、あなたたちの同胞はそこで頑張っているのですよというメッセージを入れてほしい」と語り、日系大臣や連邦議会議員、連邦政府官僚、企業家、大地主などの名前を列挙した。 つづく
(深沢正雪記者)