11月4日(木)
「このイグアスー移住地はね、日本と比べたらまだ文化が遅れていますよ。しかし、澤崎兄弟が日本から来て太鼓の指導をして、若者たちに希望を与えているでしょ。地震もありません。台風も来ませんよ。食べ物は豊富です。八百ヘクタールもの原始林も残っています。環境も良く、本当に住みよいところですよ」。こう語るのは公文包治さん。一九二一年、高知県加美郡物部村に生まれた。移住地を理想的な「田園都市」にしたい、と情熱をそそいでいる。
公文さんは頑張る。「それに、一世の田岡功さんが駐日大使になったでしょ。高倉道男さんが日本の国会に立候補したでしょ。世界の日本人移民社会で前例のないものをこの国は持っているのですよ。(私は)もう年ですから、どうなるか分かりませんが、移住地を理想郷にしよう、と今でも頑張っているのです」。
「田園都市構想とでも言うのでしょうかね。ここでは四十年かけて開拓は終わりました。これからは永住の地として、全世代が共生していける地域に発展していくよう努力したいのですよ」。
十九歳の時に満州を視察する機会に恵まれて、初めて見る広大な大地に魅了され、満州移住まで夢見た。太平洋戦争末期には軍人として北朝鮮に従軍したが、南朝鮮に移ったところで終戦となり、難を逃れる幸運に恵まれた。
郷里の物部村に戻ったら、二十五歳で助役に抜擢され、数年後には日本最年少の村長に選出されて評判となった。対立候補がなく村長を三期勤めた。一九六〇年に全国市町村会の南米視察に参加してブラジルとパラグァイを視察した。
満州への想いが頭をよぎっているさ中、今度は知事の推薦で北米・南米視察に参加する幸運に恵まれ、再びパラグァイに足を踏み入れ、イグアスー移住地を訪れた。当時は日本の農村の過疎化が進み始めていた時期とも重なり、公文村長の脳裏にひらめいたのは南米の大地に新しい『物部村』を創ることだった。早速、「海外移住審議会」を役場に設置して村民にイグアスー移住を募集したところ、二百五十余世帯が賛同した。ところが、実行する前に移住地の悲劇が次々と報じられてきたため、募集を断念した。
自ら村長を辞任し、家族五人と同郷の岡林一栄夫妻と一緒に、六七年九月一日に移住した。岡林夫妻の子息は、後にプロ野球ヤクルトの名投手として日本リーグ優勝に貢献したあの洋一君である。
移住地では苦労を重ねつつも、乞われて、イグアスー営農改善機械利用組合の初代会長になった。これが野菜から大豆栽培への劇的な転機となり現在に至っている。「新物部村構想」は消えたが、田園都市構想として再生した。
ある資料によると、自由を求めたドイツ人たちが、百二十年ほど前、パラグァイに「新ゲルマーニア」居住地をつくった。今は存在しないが、新ゲルマーニアの地名は残っている。その当時から、パラグァイは桃源郷を求める人々を魅了していたようだ。
日本からの距離は遠いが、今の移住地は治安も良く、公文さんには〃理想郷〃だ。一人でも多くの日本の年金生活者がイグアスーに来ることを期待している。「外国であっても、日本語と日本食で生活ができる」のが特徴だ。
年金者でも地域社会に貢献できる分野がいろいろあるので、住民が活力を向上させ、理想郷が一層前進するだろう、と言う。たとえば、日本の伝統食。移住地で「オーロラ」で作られている豆腐や油揚げや納豆などは訪問者から「世界一おいしい!」とまで評判だ。移住地をこよなく愛し、その愛しさを多くの日本人に知ってもらいたい、と夢を語る元気旺盛な八十三歳である。