11月19日(金)
運命の分かれ道は、タイヤのパンクだった――。山田勇次さんはレジストロに代わる地を探して、半年近く全伯を歩き回った。最終的に、バイーア州テイシェイラ・デ・フレイタスにほぼ決まっていた。「一週間だけ契約を待って」と言い残し、なぜか心に引っかかっていたジャナウーバ市を見に来た。当時、この町の農家の大半は綿作で、バナナは誰もいなかった。しかし、連邦と州による潅水プロジェクトが進められていると聞き、わずかな可能性を求めて訪ねた。
市内でプロジェクトのことを三人に聞いたが、誰も知らない。同計画の看板を探して郊外へ車を走らせたが見つからない。半ば諦めた頃、思い出に土だけでも持って帰ろうと、未舗装路に入ったらトヨタ車がパンクした。
潅水プロジェクトを知らないか――、藁にもすがる思いでパンク修理業者に尋ねた。
「あの川の向こうだよ」。答えはあっけなかった。「あの時、パンクしていなかったら、ここへ来ていなかったかもしれません」と振り返る。
訪れた農事試験場にあった潅水で育成された見事なバナナを見て、「あっ、これだ!」と直感、「ここでやろう」と即決した。
テイシェイラで長年農業をしてきたコチア青年連絡協議会相談役、永山八郎さん(70、福島県)はその話を聞き、「来なくて正解だった。山田さんがバナナで成功したと聞いて、僕らの仲間がトラック何台分も苗を買い込んで植えたが、結局うまくいかなかった。バナナはあそこではダメだったろう」と語った。
山田さんは「第六感に導かれたという感じです」と、移転した一九八四年当時を振り返る。運命の転機は、何気ない一瞬に訪れ、それを感じるか感じないかで、人生の大きな分岐点となるようだ。
今起きた出来事を転機と感じられるように感性を研ぎ澄ます。そのためには常に心を高めておくことや、潜在意識にまで浸透した思い入れが必要だという。農業技術への深い知識、市場動向調査に加え、山田さんは「だから、僕は気とか感性を大事にする」という。
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その晩、ホテル内のセミナールームでUSA塾生が体験発表する勉強会が開かれた。
ニューヨークで証券投資会社を経営する大島健志郎さん(51、東京)がトップバッター。新日本証券の元NY駐在員で、往時には三百億円を運用していた経歴を持つ。〇〇年に独立し、現在のUS-JAPAN FP社を起した。
「僕が昔勤めていた新日本証券の事務所は、9・11テロの時、飛行機が最初に突っ込んだ最初のビルの九十一階にありました。二〇〇一年まで僕が勤めていたら、今こうしてお話することはできなかったでしょう。だからこそ、生かされている、そう感じます」
現在、優秀な日本人女性の起業を助けるプロジェクトMatcha Anjel Fundを進めており、来年中に三百万ドルの投資資金を集めたいとの希望を語った。
二番目はNYでサーフ系ファッション、カジュアル衣料の製造販売をするクリムゾン社の川島一博執行役員(55、京都)。商社現地法人の役員を辞めて、現在の会社に移った。「来年から独自ブランドのアメリカ参入を開始する」との展望を語った。
その後、プール脇のバーに集まった塾生は虚心坦懐、心ゆくまで人生談義を交わした。 つづく
(深沢正雪記者)
※第一回に「山田さんは一九四七年に十三歳で家族と共に入植」とありますが、「一九四七年に北海道帯広で生まれ、十三歳で家族と共に移住」の間違いでした。訂正します。