12月8日(水)
初期移住者のために尽力した上塚周平(熊本)と、平野運平(静岡)の胸像を移民百周年を記念して母県に建立しようと、静岡県人会(鈴木静馬会長)と熊本県人会(福田康雄会長)が共同で計画している。
「移住とはどういうものであったかを知らない現在の日本の若者など、後世に移住のことを伝えていきたい」と福田会長は胸像建立への思いを語る。また、「移民の子孫であることを忘れた三世、四世が自分のルーツを思い出すきっかけにもなる」とも。
百周年記念事業として箱モノばかりが目立つが、胸像の建立には日本人の心、移民の魂など精神的なものを後世に残そうとする目的がある。
サンパウロ総領事館に赴き、胸像建立要望書を提出する予定だ。「移民は国策でもあった。だから、移住・移民とは何か、国全体で考えてほしい」(福田会長)との考えから県に要望せずに、総領事館を通して日本政府に願い出ることにした。実現に向けて母県とも連絡を取っていく。
計画を発案したのは三指会(ボーイスカウト)の石井久順(ひさのぶ)会長だ。石井会長は両県と直接的な拘わりはないが、「私利を無くし移民のために尽くした二人の物の考え方、生き様、これを日本の人にも忘れてほしくない」と思い、両会長に気持ちを伝えたところ、賛意を得た。
「移民の父」とも呼ばれる上塚周平(熊本出身)は移民監督として笠戸丸に乗船して来伯、サンパウロ市を拠点に、奴隷同様の労働に耐え切れずに逃げ出した移住者の面倒を見、また自作農育成のための植民地の造成を行い、日本政府に救済資金の融資を訴えた。
胸像建立要望書の中で、鈴木会長は七ページにわたて移民に捧げた平野運平(静岡)の生涯を紹介している。笠戸丸の到着する一カ月前に通訳として来伯、グァタパラ耕地に入った。その後、移民が自作農として安定した生活を送れるように、と平野植民地開設を指導するが、植民地の大成を見ることなく三十四という若さで亡くなった。
「自らを犠牲にして移住者と共に生活し(中略)犠牲と困難を乗り越え、今日のコロニアの土台を作り上げた先駆開拓者を忘れてはならない」と自らの思いも最後に綴っている。
「移住史百年の始まりが二人にあり、胸像の建立は最も意義のあることの一つ」と熊本県人会の柳森優名誉会長も強調する。
多くの移住者は大志を抱き、六十日も掛けて海を渡った。グローバル化で世界が狭くなり、日本人も盛んに外国に出て行く今、「その移民魂を思い起こして欲しい」と石井会長は現在の日本人に対する思いを最後に語った。