12月15日(水)
老人ホームの生活は、いったいどんなものなのか?高齢化社会を迎えた日系コロニアでは、そんな疑問に関心を持つ人が少なくないだろう。バザーやフェスタに訪れることはあっても、内部の実情まで細かく知ることは出来ない。そのため、困窮したお年寄りが惨めで単調な暮らしを送っていると誤解されがちだ。高齢者介護の現場では数々のドラマが生まれ、毎日が戦場のようだという。援協傘下のサントス厚生ホーム(斉藤伸一ホーム長)が今年七月開所三十周年を迎え、記念誌(援協広報委員会編集発行、日毎叢書企画出版編集協力)が発行された。その中の「歴史余話小噺集」を転載する。全八回。
「こんなところを施設にしてよいのだろうか」。山下忠男援協事務局長(70、京都府出身)が一九七一年に、援協厚生ホーム(サントス厚生ホームの前身)の責任者を任されたときの印象だ。
イタリアから取り寄せた窓ガラスや高い天井。農場主シケイラ・カンポス家の別宅(リベルダーデ区ピラピチングイ街)は、ヨーロッパの古城を彷彿させた。歴史的な建築物として保存したほうが適当だと、正直思った。
内部に入ると、じめじめして暗い。そんな空間に、気が滅入りそうだったという。本人の懸念とは関係なく、ホームは部分的な改築をした上で開所に踏み切った。暗雲が行く手に立ち込めている──。山下事務局長(当時ホーム主任)は一人、将来を憂えた。
援協に入って二年。三十代後半で就学期の子供を抱え、逃げ出すわけにはいかなかった。「実は、事業に失敗して何とか立ち直らなければならないと奮起。援協に就職したんです。働くのは、子供が学校を卒業するまでのつもりでした」
嫌な予感はまさに、的中する。援協は「高齢者向け」を謳い文句にしたはずだったが、家出をしてきた日本人妻、精神障害者、独居老人など雑多な困窮者をどんどん送り込んできたのだ。福祉がようやく分かりかけてきた身にとって、かなりきつい仕事だった。
「こっちは、素人でしょう。女性(二世)の福祉士が配置されて、専門的なものをみていました。責任者の僕より、彼女のほうが給与が良かったんです」と山下事務局長。今でこそ笑い話で済ませられるが、当時は気が気で無かったはずだ。
酒を嗜む人のため、夕食に一杯だけピンガを出した。泥酔する男性がいて注意すると、逆に怒鳴られた。「俺がここにいるから、お前ら給料もらえているんだろうって言うんです。普段はおとなしい方だったんですが…」
情緒不安定の女性が睡眠薬を一瓶分飲みこんで自殺を図ったこともあり、「毎日が戦争のようだった」。一方でこの女性が好意で洗車してくれるなど、明るい思い出にも事欠かない。
援協厚生ホームは三年ほどでサントスに移転。山下事務局長は引き続き、ホーム主任を命じられた。ただ本部の仕事との兼任だったので、サントスには週に二~三回しか赴かなくなった。
ピラピチングイ時代の経験が余りにも刺激的だったのか、転職を考えていた山下事務局長は、援協に骨を埋める決心をした。それから、三十数年。サントス厚生ホーム主任、保健衛生部長、本部事務局次長、日伯友好病院事務局長などに就任し順風に帆に揚げた。九七年に、ついに職員千人以上を束ねる本部事務局長に上り詰めた。
今年(〇四年)いっぱいで、定年退職することになりそうだ。今の心境を尋ねると、「いや、感慨なんて特にありませんよ」と照れ笑いを見せる。その表情には、充足感が表れていた。(敬称略、つづく)