12月22日(水)
「今、憩の園から電話しています。ボランティアの募集が始まったから申し込んでみたら」。
清岡弘子(67、高知県出身)は、友人の薦めがきっかけでシニア・ボランティアへの応募を決意した。
かつて、南国市の職員だった。昭和三十年代に南米移住者の送り出し事業に携わり、宣伝パンフレットを配布するなどした。移民の辛苦を後々新聞やテレビで知り、罪悪感に似た思いが長年胸につかえていた。
配属先の希望は、もともと憩の園だった。高知県出身だから暑さに慣れていると判断され、直前になってサントス厚生ホームに変更された。しかし、サントスの暑さは故郷とは比べようもなかった。
赴任した九四年一月には、シニア・ボランティア用の寝室に冷房が入ってなく、寝苦しさに悩んだ。もちろん、クーラーを付けるという申し出があった。だが、自身だけが快適な空間を占有するのは、入所者に失礼だと思って暑さを〃共有〃。そんな態度にお年寄りも心を開いた。
清岡は、タンスを整理することから仕事に手をつけた。職員が個人の持物に触ることを高齢者が嫌がり、不衛生な状態になっていたからだ。案の定引出しを開けると、ゴキブリが出てきた。
もう流通していない紙切れ同然の紙幣を束にして保管している人もみられ、「日本に帰るつもりで、貯めたお金だ」と思うと涙が出たという。
寝たきりの女性がおり、便秘のときは肛門から指を入れて排泄物を出させた。日本ではごく、当たり前のことだった。しかし、ブラジル人職員たちは「そこまで、やる必要はない」と批判。日伯の介護哲学のちがいに戸惑った。
この女性は、清岡の手を握り締めながら臨終を迎えた。安らかな死顔が、今も脳裏から離れない。「便が出なくて、実際に苦しんでいるのだから、座視は出来ない」――。そんな熱意が職員にも伝わったのか、徐々に信頼関係も築かれていった。
九六年一月に任務を終えて帰国するが、入所者との関係は切れることなく続いた。ブラジルの生活が忘れられず、再度シニア・ボランティアに応募。〇二年七月~〇四年六月まで、憩の園で過ごした。
実は、この二年間に一度しか厚生ホームを訪れなかった。「両施設を比べる自分が怖かった」からだ。帰国直前に、同ホームが今年、開所三十周年を迎えることを告げると、「サントスの〃アツサ〃が懐かしい」とぽつりとこぼした。
憩の園で遣り残した仕事を終わらせるため、来年またブラジルに戻るつもりだ。今度は私的な活動になるため、サントスにも足を伸ばせるだろう。(敬称略、つづく)
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