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サントス厚生ホーム=〝ドラマ的〟実状(8)=―死に場所が極まり静かに茶を喫す―=援協創立会員=安藤さん詠んで死去

12月24日(金)

 サントス厚生ホーム開所三十周年の今年は、援協創立四十五周年の節目の年でもある。安瀬盛次(初代会長)はもちろん、在任十四年の中沢源一郎(元会長)、同じく十八年の竹中正(元会長)もこの世にはいない。関係者にとって、歴史の重みが感じられる年になったようだ。
 援協創立を知る唯一の生存者安藤善兵衛(98、宮崎県出身)が、サントス厚生ホームから組織の発展を温かく見守っている。
 記念誌の編集に当たって、入所者に寄稿文を頼んだ。平均年齢は八十歳を超え、ペンをとるお年寄りは少ない。実際原稿をそろえることが出来たのは、六十人のうちわずか三人だけだった。それも一人は聞き取りの上、代筆をした。
 施設最高年齢者で援協創立会員。さらに、元援協常任理事の肩書きがつく。安藤にもぜひ、書いてもらいたい──。既に車椅子の生活で耳も遠くなっているのを承知の上で、話を持ちかけてみた。
 「………」。
 『援協十五年の歩み』(一九七四)、『サントス厚生ホーム二〇年のあゆみ』(一九九四)、『援協四十年史』(一九九九)では健筆をふるった安藤。今回はやはり、本人の思いとは裏腹に言葉がなかなか生まれてこないようだ。
 「机に向かって書こうとしているのですが、ちょっと無理みたい」。同じく入居者である親戚の女性も肩を落とす。
 戦後移住が再開した二年後の一九五五年。安藤は宮崎県人会を代表して、移住者斡旋業務に携わることになり、月に二回サントスまで移住者を出迎えにいった。そこで安瀬(初代会長)や旧海協連サンパウロ支部長の大沢大作らと親交を結んだ。
 日系人向けの保健・衛生事業を実施する組織が必要だという二人の意見に賛同。援協の創立会員に加わった。日本政府の補助金で購入された「移民の家」。その運営主体として援協が組織されたが、不動産の名義を巡り役員会で侃侃諤諤(かんかんがくがく)な論議が起こった。
 「外務省は、現地の吾々が自発的に新来移住者の受入援護と直結する機関を設立し、日本政府の移住政策に協力する事を好まないのか」(『援協十五年の歩み』)
 補充監事だった安藤は、移民の家の所有者は援協にすべきだと主張。領事に詰め寄ったという。理事を差し置いての発言だったので、反発も大きかった。しかし、「引き下がる訳にゆかなかった」(同上)。それだけ、援協にかける思いが強かったのだ。
 結局「移民の家」の所有権は大沢(支部長)個人の名義になり、援協が受託運営することで話は落ち着いた。
 安藤には子供がなく、九一年八十五歳のとき、夫婦で厚生ホームに入居することを決意した。病妻を抱えて、「残り寡ない余生を如何に過ごすか」を考え抜いた末の結論だった。厚生ホームの二十年史(一九九四)には、心情を川柳に詠んでいる。
 〈死に場所が極まり静かに茶を喫す〉
 それから、十年の月日が流れた。健康増進のために歩くことを日課にしていたが、高齢で体力も衰え車椅子の生活になってしまった。どうやら長時間のインタビューや外出には耐えられそうもない。
 「あれから、四十五年ですか」。援協創立四十五周年式典(〇四年三月)に当たって取材をしたとき、感慨深く答えた姿が今も脳裏に焼き付いている。本紙編集中の八月三日に死去、98歳。(敬称略、おわり)

■サントス厚生ホーム=〝ドラマ的〝実状(1)=毎日が戦場のよう 単調でないお年寄りの暮し

■サントス厚生ホーム=〝ドラマ的〟実状(2)=功労者,重枝正美さん 初期の経営に尽力

■サントス厚生ホーム=〝ドラマ的〟実状(3)=施設内に日語教室開設 慕われた木村捨三先生

■サントス厚生ホーム=〝ドラマ的〟実状(4)=83歳男性の「恋は盲目」=夜間、塀乗り越えサンパウロ市に走る

■サントス厚生ホーム=〝ドラマ的〟実状(5)=オープンな雰囲気=施設内恋愛はごく普通

■サントス厚生ホーム=〝ドラマ的〟実状(6)=信頼関係築いたシニア=便秘の世話の徹底で

■サントス厚生ホーム=〝ドラマ的〟実状(7)=思い切り歌う楽しさ=唱歌部、実力上がる