『アマゾン移民・少年の追憶』は本紙6面に、04年5月から9月まで98回にわたって連載された。著者の小野正さんは8月に亡くなったが、その清々しい読後感が話題を呼び、「ぜひホームページにも」という要望が多く寄せられたので、著作権を持つ遺族の了承を得て、広く公開することになった。
1930年、当時十歳だった小野少年の目から見たアマゾン移住とは。〃緑の地獄〃とも言われる灼熱のアマゾン。そのトメアスー移住地を開拓する日常を通して、心温まる家族の絆を淡々と、かつリリカルに描いた作品です。ぜひ、ご一読をお勧めします。
感想があれば、ぜひ編集部までお寄せください。なお、感想文は新聞に転載することがあります。
ニッケイ新聞編集部
※無断転載は禁止です。
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赤嶺尚由さん(ソールナッセンテ人材銀行代表)による追悼文
●コラム「樹海」
小説『アマゾン移民・少年の追憶』
私たちの故郷は宮城県の岩沼町です。東北第一の都と言われる仙台市の近くで海へ三里、山へ三里と言われて昔から、とても恵まれた町でした。この岩沼町は素晴らしい発展をとげて今では岩沼市となりました。
私共の生まれた家は先祖伝来のもので町の中心地でした。真向かいが郵便局。左向かいが警察で学校も、すぐ近くでした。
父の名は利助、母はキクです。一番上の兄が伍助、二番目の兄が利雄、三番目の光男は幼いときに病死したそうです。私が四男の正で、弟の正雄、秀夫、哲夫が居ります。女は、たった一人だけで私のすぐ上の幸(コウ)姉さんです。これで九人家族ですが、この他に、まだ二人居りました。小林清一と武治の兄弟です。この二人は、とても恐いおじさんでした。いつも苦虫をかんでいるような顔で、僕達がそばに行くと睨みつけるのです。お母さんの話によれば、この兄弟は、僕達のお父さんの妹の子で、その妹の夫が極道者で家庭が崩壊してしまい、二人の幼子を里子に出すと言うのを聞いた僕らのお母さんが、あまりにも不憫だと言って自分が引き取って育てたのだそうです。「あのとき、長男の伍助が生まれたばかりでね、私は初産で三人の母親になってしまって、乳が足りなくなって、重湯を作って育てたのよ、世間の人からは馬鹿な女だ!阿呆な奴だって、さんざんそしられたけど、自分で育てた子供は可愛かったね、子供の頃は、本当に素直で可愛かった、それが大人になるに従って、ぐれだしたの、世間の人々の中傷も悪いのだけどね………そんなことよりも、どうして私の言うことを聞き入れてくれないのかと思ってね、情けなくて私に注意されるのが嫌いで、私と顔を合わせぬようになって………もう何も言わない方が良いと思ってね、注意するのを止めたのよ………それで真面目になってくれよ、と願っていたんだけれど………それが裏目に出てね………夜遊びに出る、酒は飲む、煙草は吸って、小遣い銭が大変だった。伍助や利雄は、小遣いをくれなんて言ったこともないのに、どうしてこんなことになってしまったのか………」と、嘆く母の姿が哀れでした。
僕が大嫌いな小林兄弟の他に、もう一人の嫌いな奴がいました。その人は金田と言うおじさんで、いつも家へ来るのですが勝手に座敷へ上がり込んで威張っているのです。
僕がわざと座敷へ入って行くと他所を向いて知らん顔をするのです。しばらくすると、「おい!お母さんを呼んでこい!」と言うのです、僕はお母さんを呼びに行ったように見せかけて逃げるのです。
金田のおじさんは僕達のような子供は嫌いなのかも知れません、いつも僕の顔を見ると鋭く睨みつけるのです。こんな人がどうしてお父さんの友人なのか、僕には解かりませんでした。
父の本業は桶作りです。たが屋さんと呼んでいたようです、一時は商売大繁昌で二十数人の職人を使っていたそうです、酒を作るために醸造所で使用する六尺桶から飯ひつに至るまで徹底した伝統を誇る桶作りでした。
父が自慢の一つに桶作りに使用する各種多様な道具があるのですが、そのすべてが刀鍛冶に作らせたものだ、と言っていました。
父はいつも自分で作り上げた桶を撫でながら「これが本当の桶だ!桶は桶でも、ほって桶では駄目だよ!」と笑うのでした。
私が今尚、残念に思うのは桶を作り出す一連の過程を教えて貰っておけばよかった、と悔やんでおります。桶作りの全盛期が衰えて父が一人で仕事をしていた頃に僕は桶を作り出す計算法に興味をもって見ていたのを覚えています。注文が入るのは水を入れる桶とか、漬物桶や、洗濯タライなどでした。
桶は木材を割って使用します、板ではなく木の素生を生かして強靱な桶を作るのです。注文の容量に基づいた桶を作る計算を咄嗟に割り出して木片を丸く並べてタガで締めつけて、最後に丸い底板をはめこむのですが、びしっ!と入って、正に一滴の水も洩れない見事な出来栄えは熟練の妙技であると思います。
父は桶作りの名人のようでしたが、父の趣味は指物の小細工で家具調度品などを作って専門の指物師を驚かせていました。
父が大勢の職人を使っていたことは前に記しましたが、その頃の母の働きぶりは大変だったようです。女手一つで子育てをしながら家事一切、さらに二十数人の職人たちの食事から寄宿の世話まで一人でやり遂げたと言うのですから驚きます。そのような多忙の中でも、母は常に整頓、清潔を守り家庭用具のすべてをいつもピカピカに光らせていたのを覚えています。
今、当時を思い出してみますと、母は素晴らしい女傑だったと言えるかもしれません。私が九歳の頃、母が語ってくれたエピソードを記させて頂ます。
「お父さんの桶作りが全盛期のときにね、集まってくる職人を誰彼を選びもせずに使っていたのよね、ある日、給金の支払いをしたら、その晩、夜遊びに出た連中がいて、翌朝は起きてこないのよね、職人たちは全員家の二階に宿らせていたの、母さんは暗い中から起きて朝食の膳を整え終わったのに誰も起きてこないの、仕方がないから起こしてやろうと思って二階へ上がっていって「早く起きなさいよ!何時だと思っているの!」って怒鳴ってやったの、そしたらね、一人の奴がね、「うるさいなぁ!姐さん、今朝は、ご機嫌斜めだねぇ、なんじだっていいじゃないか、時計なんかどうせ作り物なんだよ」って言ってね、母さんのことを馬鹿にしているのよね、そのとき考えたの、こんな風来坊のような奴をのさばらせておいては今後の示しがつかなくなると思ってね、その日の昼の食事を早目に作り上げてね、丁度お昼どきを見計らって洗濯を始めたの、昼食のことは知らん顔でね、そうしたら、大騒ぎになってね、わいわい騒いでいるの、「おい!姐さんどうかしたぜ!昼飯も作らんで洗濯だぜ!」「よくも働くもんだと思っていたが、とうとう狂ったかな」なんてね、わいわい騒ぎ立てているのが聞こえるのよね、でも母さんはそんなことはお構いなしに洗濯をしていたの、そのうちにね、午後の一時を過ぎていたかなあ、あの一番悪い奴が洗濯場まで来てね、母さんが洗濯しているのをじっと見ているのよ、そうしてしばらくしてから母さんは洗濯を止めて、その奴の顔をじっと睨みつけてやったの、そして、「何か用かい!」と言ってやったの、そしたらね、その奴がね「姐さん、今何時だと思ってんですか?」って言ったの、母さんはね、その一言を待っていたのよ。母さんはすぐに言ってやったのよ、「さあ………何時かねえ、どうせ時計なんか作り物だからねえ、時計なんかを当てにする方が馬鹿じゃないの」ってね。そしたら奴がね、両手で頭を抱えこんでね、「やられたぁ!」ってね、呻き声を出してね、そこに居座ってしばらく動かなかった、あとで顔を上げて「姐さん勘弁してくれ!」って言うのよ、そのとき母さんは今だ!と思ってね、「自分が言った事に自分が謝るような事はしない方がいいね、勘弁してくれって私に謝っても駄目だね、いいかい!本当に謝る気があるのなら親方の前にみんな雁首を揃えて「以後必ず時間を守りますから」と謝ることだね。
「親方には内緒でお前たちを起こしに行ったんだよ、人の気も知らないで、女だと思って馬鹿にしてさ、私には謝らなくてもいいよ。大の男が女に頭を下げるなんてみっともないからね、サッ!昼飯が食べたかったら、みんな揃って親方に謝ってきな、では昼のお膳の用意をしましょうって言ってやったの、そん時の母さんの気持ち、ぱあっ!と何て言うのかなあ日本晴れだったよ」と、話してくれるのです。そのときの母の戒めによって職人たちは、まるで人が変わったように真面目に働くようになったそうです。
父も母も全力を尽くして生き抜いた人生の中で痛快な、そして心暖まるエピソードをいつも話していました。そのエピソードの数々を記したくは存じますが、それは次の機会に譲ることにして、この辺でブラジルへの移住について記させて頂きます。
なぜブラジルへ移住することになったのかは、僕にはよく解かりませんが一つには家業の桶作りが衰えたからだと思えます。
ブラジル国へ移住する!二十五町歩の土地を買って、そんな話が僕の耳に入り始めたのが一九三〇年(昭和五年)の五月頃だったと思います。
僕が尋常小学校四年生に入って間もなくのことでした。ブラジルへ行けると言うので僕は内心よろこんでいました。
その頃のブラジルへの移民は目の検査が厳しく、トラホーム患者は渡航許可が出ませんでした。トラホームでなくても目が充血していると検査官によって渡航を拒否されて、夫婦或いは肉親の者が船上と岸壁とに立って泣き別れをすると言う極めて悲しい事が有ったのです。とにかく目が充血していては渡航が出来ないと言うことで僕たちは家族全員が仙台市の眼科医院に出向いて検査を受け、適切な治療を続ける旁で県庁に趣き渡航の手続きを進めていました。それまではブラジルへ行けるか、どうかと半信半疑であった父が県庁にて渡航手続きを始めた、その時になって、ようやくブラジルへ行く気になったようでした。
父母と兄たちが真剣になって話し合うようになりました。
先祖伝来の家屋敷を売るとか売らないとかで話がもつれていたようです。伍助兄が僕に結果を話してくれました。
「家は売らずに十年後に帰ってきたら又ここに入ると言っていたけどな、何と言ってもブラジルは遠い所だ、そしてブラジルで儲けて帰って来たら新しい家が買えると言うことになってな、この家を売って渡航の費用や向こうに着いてからの開拓資金に当てようと言うことにした。それでな、金田のおじさんが相場よりも高価で売ってやると言うので任せることになった」
兄の話を聞いて僕は、あの金田のおじさんの大嫌いな顔を思い出していました。
渡航手続きと目の治療などで何回となく仙台市へ行くのが続いて学校を休むようになりました。僕が三年生のときの田村胞治先生は、お話が上手で大好きな先生でした。四年生は入ったばかりで先生のお名前も覚えておりませんが、どうも好きになれないような先生でした。ですから学校を休むのを喜んでいました。
その中いよいよブラジル向けに出発の日が近づいてきたのです。なんとなく慌ただしくなってきたのです。
ある日の朝、僕達が朝食の卓に集まったとき、母さんが皆の顔を見つめながら話し出したのです。
「あのね、出発する日が近くなったから、今日は学校へ行くのを休みなさい。皆いろいろと用意することもあるでしょう。お友達にも別れのご挨拶をしておくのよ、忘れてはいけませんよ」と言われました。僕は嬉しくなりました。そしてお母さんは素晴らしい人だなぁと思いました。でも、学校はどんなことがあっても休んではいけないと言っていたお母さんが今日は学校へいかなくてもいいなんて、僕は嬉しいんだけど、なんだかおかしいと思いました。
ブラジルのアマゾン向け移民としての出発の日が迫りましたが、困った事が起こったのです。「家屋敷を売るのは俺に任せろ!」と言って父の委任状を持って行った金田のおじさんが居なくなったのです、行方不明なのです。親戚の人々が探索に協力して下さったのですが金田のおじさんは見つからないのです。とうとう出発の日となりましたが、金田のおじさんの行方はわかりませんでした。お父さんは「金田の野郎!始めから俺をだますつもりだったんだ!」と言って怒りましたが、親戚の人たちが「そんなことはない!もう少し待ってみよう!」といさめていました。
この騒ぎで午後の出発が夜になってしまいました。
金田のおじさんはとうとう姿を現わしませんでした。親戚や金田の友人などが集まって、後日決着をつけて知らせるからと言うことになり先祖伝来の家を居抜きのままで出ることになったのでした。
僕たちは小雨の中を岩沼駅に向かいました。大勢の見送りの人が入り交じって誰が誰やら解からずに歩きました。
駅の構内は見送って下さる学生たちで、いっぱいです。先生に引率されての幼年のクラスまで来て下さったのです。
身動きも出来ないような中で母は幼い哲夫と秀夫を抱え込むようにしてベンチに座っていました。
汽車が走り出したとき四、五人の人が追いかけてきましたが、すぐに見えなくなってしまいました。汽車の中は、かなり立て込んでいましたが、ようやく家族全員が一ヵ所に集まることが出来ました。兄さんが、「この汽車は東京の上野駅に向かって走っているんだよ」と言いました。僕はふと金田のおじさんが僕を睨んでいるあの恐い顔を思い出していました。慌ただしくあッ!と言う間の別れで夜汽車に乗り込み今、ここに家族全員が揃っている。でも誰の顔を見ても泣いているのです。これが故郷との別れなんだと思うと悲しくなってくるのです。
翌日、上野駅に着きました。ここで汽車を乗りかえて神戸に向かうのだそうです。
父は以前に仕事のことで東京へ来たことがあるので地理に詳しく頼もしく感じました。父の発案で東京見物をすることになり、三台のタクシーを雇って分乗し東京を見物しました。「ようく見ておけよ!二度と見ることは出来ないから」と言っていました。
その頃のブラジル向けの移民は神戸市の移民収容所に集合し、ここに約一週間滞在の後で神戸の港から移民船に乗って出帆したものです。
神戸に着いて移民収容所に向かいました。西洋風の立派な三階立ての白亜の殿堂です。
東北の小さな町で先祖伝来の古い家に住んでいた僕等には全く明るく清潔な夢のような建物でした。特に驚いたのは水洗トイレです。井戸水を汲み上げての生活であった僕等には全く想像もつかない現実でした。
僕たちの部屋は三階の一室で菅井さんと言う山形県からの方と同居でした。
菅井さんが部屋の窓から双眼鏡で神戸の港を見ていました。
「僕たちの乗るサントス丸は、見えないよ。まだ来ていないんだろう」と言いながら、双眼鏡を僕に借して下さいました。
「うわぁ!すごい!」と僕は思わず叫んでいました。神戸の港から沖の水平線まで広々と映るのです。大きな船が何隻も湾内に停泊しています。沖の方に軍艦が見えます。巡洋艦と航空母艦だと言っていました。近々に観艦式があるんだよと菅井さんが教えて下さいました。
この収容所での食事は、いつも驚くばかりのご馳走でした。
食堂も西洋式で長いテーブルがいくつも並んでおり椅子に掛けて食事を頂くのです。毎度変わったご馳走が並んでいるのです。
食事の時間を知らせるドラが鳴ると大騒ぎで食堂へ来るのでした。
この食堂でご馳走を頂いたときの思い出が一つ、今も忘れることが出来ません。
それは僕のお母さんが食事の度に末っ子の哲夫を膝にのせて頂くものですから一般の人より遅くなるのです。幸(コウ)姉さんが早く食べ終わると哲夫に食べさせてやるようにしていましたが、母は食事を頂く前と食べ終わったあとで必ず茶碗を重ね箸を揃えて感謝の合掌をするのです。そんなことをしている間に、みんなは食事を終わって、食堂を出て行き、私たちだけが残されるのです。僕はそれが恥ずかしくて幸(コウ)姉さんに言ったのでした。
「誰も合掌なんかしないよ、早く行こうよ」と、幸(コウ)姉さんは黙って頷きました。が、そのときです。母が「正!何を言ってるの!あのね、お母さんが合掌しているのは、このご馳走を私たちに与えて下さる方々に、ありがとうございますと感謝の気持ちを申し上げているのよ、誰もしていないのにって今言ってたね、誰もしないから、せめて私だけでもね、お礼を申し上げなきゃあ、すまないじゃないか、ね、そうでしょう」と、母は僕と幸(コウ)姉さんの顔をじっとみていました。そして又言いました。
「お母さんの気持ちわかったね、わかったら、これからは、あんたらも一緒にお礼の気持ちをもって合掌をするんだよ」と。
この神戸の移民収容所滞在は一週間ぐらいだったと思いますが、あっ!と言う間でした。
今日はいよいよ乗船の日です。大勢の人が大きな風呂敷包やトランクを担いで波止場へと向かいました。収容所の出口は人の波で大混雑となりました。父と兄さんたちは荷物の他に幼い弟たちの手を引いて行きました。僕も風呂敷包を持っていたので玄関の出口で身動きが出来なくなり、ようやく人の波に押し出されながら玄関横の芝生の上へ避難しました。ふと見ると少し離れた所に、大きな風呂敷包を前にして女の人がいます。「あっ!母さんだ」と、僕は思わず叫んでいました。母もきっと人の波に押し出されて芝生の上へと逃れたのでしょう。母は芝生の上に座って合掌をしているのです。僕が近づいて声を掛けても合掌を止めないのです、そこへ幸(コウ)姉さんが走ってきました。母が、ようやく合掌を止めて「哲夫と秀夫は、大丈夫かい?」と聞きました。早く行きましょう」と幸(コウ)姉さんが言いました。
「あんたら二人がここへ来てくれてよかったよ、今なあ、お世話になった収容所にさ、最後のお別れと感謝のお礼を申し上げていたのよ、さあ、あんたらも一緒に」と、母は感謝の合掌をせよと促すのです。幸(コウ)姉さんは困ってしまって「でも母さんみんなが待っているのよ」と言ったのです。でも母は諦めないのです。
「幸(コウ)や、そんな心配はいらん、私たちを残して船は出て行かん。さあ、みんなでお礼をのべよう」と言うのです。僕はどうしようかと迷って幸(コウ)姉さんの顔を覗いてみました。すると幸(コウ)姉さんが、にっこり笑って、肩をピクンと動かしたのです。それは仕方がないから母の言う通りにしようと言う合図なのです。三人が芝生の上に座って感謝の祈りを捧げました。驚いたことに祈りが終わると同時に母が立ち上がったのです。そして、さっさと風呂敷包を手早く背負って、さっさと歩いて行くのです。幸(コウ)姉さんと僕は慌てて追いかけました、母の後姿を見ていると「もう何も未練がありません」と言っているようでした。埠頭は乗船を待つ移民でいっぱいでした。みんなが家族連れですから大変な騒ぎです。お父さんが「これでみんな揃ったなあ」と言ってにっこり笑いました。兄さんが「乗船はまだまだらしいぞ」と言いました。丁度そこへ蕎麦屋さんが来ました。屋台店って言うのでしょうか。車が四つ付いているんです。
お父さんが「みんなで食べようか」と言いました。屋台の蕎麦屋さんは「へい!毎度!」なんて元気のよい声で、早々丼に盛り始めます。丼と言ってもアルミ製の少し窪みのあるお皿です。お母さんが「早く頂きなさい」と言って僕にも、そのアルミ丼を渡して貰ったが、受け取って「あっ!」と叫んでしまった。アルミの皿ですからとても熱いんです。困っている僕の手を誰かがつかんで手拭をのせ、その上に皿をのせたのです。それは「あっ!」と言う間の出来事でした。僕が上を振り向くと母の顔が優しく笑っていました。
人込みで身動きも出来ないような場所で立ち食いしたその蕎麦の旨かったこと。蕎麦を食べた後で僕は又、目の前にそびえているでっかいサントス丸を見上げて早く乗ってみたいなと思っていました。
僕はこんなに大きい船を見るのは初めてのことです。そして、今ここに集まっているひとたちを全部乗せて行くのかと思うと驚くばかりでした。
みんなが立ち話で「がやがや」と話し合っている声が交わり合って大騒音です。
荷物の上に腰掛けて、じっと何かを考えているお年よりもいます。何だか、とても淋しそうな表情でした。日本を離れるのが辛いのでしょう。
やがて乗船が始まりました。僕たちの船室はD室と言うことで、後回しになりました。予想外の大きなこのサントス丸に早く乗ってみたい気持ちが高まって、とても待ち遠しかったのを覚えています。ようやく僕たちの乗船が始まりました。みんな手荷物を持ってタラップを登って行きます。本当にでっかい船だなあと思いました。
D室と言うのは船の一室で大きな倉庫みたいな所で、そこに鉄製の二段式ベッドがびっしりと並んでいました。割り当てられたベッドの数が自分たちの住家になるのです。ベッドの上に手荷物を並べておいて、みんなで甲板へ出ました。
色とりどりのテープが船から岸壁へ、または岸壁から船へと投げ交わされています。
岸壁からは盛んに「がんばれよ!」とか「元気で行けよ!」とか、声を限りに叫んでいます。やがて「ガンガンガンガン」と出港を知らせるドラが鳴り渡りました。
岸壁を見つめていた僕は「あっ!」と驚きました、岸壁が次第に遠ざかって行くのです。それは船が静かに岸壁を離れだしていたのでした。船と岸壁の間が、だんだん広がって行くのです。テープが千切れて海へ落ちてゆきます。最後まで船と陸とを繋いでいるテープは誰のでしょう。その最後のテープを持っている人は幸運者なのだと騒いでいるのです。「あっ!」テープが五本だけ残っています。あっ!最後の一本!利雄兄さんです。兄さんが両手を上げて笑っています。兄さんは幸運者なのだと僕は嬉しくなりました。
やがてサントス丸は沖に向かって方向を定め別れの汽笛を鳴らしました。「ブオー!」と大きく太い力のこもった汽笛です。船足がだんだん早くなってきました。もう岸壁も見送りの人も見えなくなりました、「ブオー!」と又汽笛が鳴りました。
涙が止めどなく流れ落ちるのをどうすることも出来ませんでした。どうして涙が出るのか解かりませんでした。
見送りのはしけに大勢の人が乗って「バンザーイ」、「バンザーイ」と叫んでいるのが聞こえます。そのはしけもやがて見えなくなりました。
サントス丸は島と島の間を通り抜けて沖へ沖へと向かって行くのです。甲板に立って別れを惜しんでいた人たちが寝室へと降り始めました。僕たちもD室へ入りました。お父さんが、「これはまるで蚕棚だなあ」と言ったので、周囲の人たちが、どっと笑いました。その蚕棚のように並んでいるベッドは隣りとの境が布地のカーテンで仕切ってあるだけで所々に狭い通路があるだけです。
お父さんの話では、「ここは普段は荷物を積み込む船倉なんだよ、風通しが悪いなあ」と言って浮かない顔をしていましたが、お母さんは何も言わずに、さっさとベッドに横たわって、「あっ、極楽、極楽!」と言って笑っていました。考えてみると収容所を出てから何時間になるか立ち通しだったのですから、お母さんが話もせずに黙っていたのは疲れていたからなのだ、と解かりました。
ベッドが林立しているその真中に大きな空間があります。この空間は下の船倉へ荷物を積み下ろすときの蓋になっているのです。その大きな蓋の上に長いテーブルを並べて食事を頂くのです、そこが食堂になっているのです。
港へ着くとこの蓋を取り除いて下の船倉の荷を陸揚げしたりあるいは荷を積み込んだりするクレーンの音で騒々しいことと言ったらまったく想像もつきません。
サントス丸が神戸を出航してから最初に着いた港は香港でした。甲板から見ていると小さなカヌー(小船)に裸の子供たちが乗っていてサントス丸の周囲に集まってくるのです、そしてこちらの甲板にいる人々に何かを投げ与えてくれと叫んでいるのです、空瓶などでも喜んでいるのです。雑貨を海中へ投げ入れると裸の子供たちが我先にと飛び込んで拾ってくるのです、それを面白がってみんなが銀貨を投げ込むので子供たちが喜んで集まってくるのです。
大人の方々は上陸して香港の町を見物してきたと言っていましたが僕たちは子供ですので上陸出来ませんでした。
サイゴンと言う港に寄港したときのことです、荷のつみ降ろしをする黒人の労働者たちが船の中へ入ってくるのです。真っ黒でピカピカ光っている肌、唇が赤くて歯だけが真っ白なのです、僕たちは恐ろしくて遠くから見ていました、僕にとっては初めて外国の現状を見ることが出来たのです。
僕の父は船の中で風紀係りと言う役をやっていました。ある日のこと星野先生と言う再渡航者でアルゼンチンに住んでいる方と知り合いになったそうです、星野先生はクリスチャンですので、女性たちを集めて賛美歌の合唱団を結成したいと奔走をしておられました。その合唱団にいち早く参加したのが幸(コウ)姉さんだったそうです。そして幸(コウ)姉さんと星野先生が話を交わす中に星野先生と僕らの母さんが遠い親戚に当たるのが解かったのだそうです。サントス丸には「特三」というつまり特別三等室と言うのがあって、そこは蚕棚ではなく個室になっているのです、星野先生はその「特三」の再渡航者なのです。
ある日のこと、幸(コウ)姉さんがお母さんを喜ばせたくて星野先生をD室の蚕棚へお連れしてきたのです。突然のことにお母さんが恐縮して「幸(コウ)や、こんな所へ先生をお連れして」と姉さんを咎めてから「先生、本当に申し訳ありません、この子ったら誰彼の見境もなく無理なことを申し上げるのですから」と謝るのでした。
「いやいやそのようなご心配はいりません、幸(コウ)さんはむしろ私の方で利用させて頂いているようなものです、幸(コウ)さんは今私の右腕となって賛美歌のコーラスの結成を手伝って頂いているのです、幸(コウ)さんのお話からあなたが私の親戚であることが解りましてねえ、まったくの奇遇ですなあ、本当に嬉しいことです」と星野先生は上機嫌でした。
その日から三日程過ぎた頃、星野先生が幸(コウ)姉さんに父母と折り入って話したいことがあるから、この特三の自室までお連れしてくれと言って待っている、とのことで三人で行ったのです。僕は何の話なのか全然見当がつかなくて焦燥にかられながら幸(コウ)姉さんの帰りを待っていました。
「お呼び立てして申し訳ありませんが、この個室のほうが良いと思いましたので、実はちょっと思いついたことがありますので………他でもないのですが、あなた方がこれから行こうとしているアカラ植民地、あそこはアマゾン川の河口に近いところで、早く言えば一大盆地なのです。勝手なことを申し上げるようで恐縮なのですが、アマゾン川流域となりますと、マラリアとかアメーバ赤痢、とかく悪性の風土病の巣窟と言われております。そこで私なりに考えたのですが、そのような危険な所へ行くのは止められて、アルゼンチンへ行くように鞍替えされたほうが良いのではと思いましてね、その手続きは私が何とかしてみようと思っていますが、アルゼンチンは病気は無いし、仕事もあまり無理のない花卉栽培です、つまり花作りなのです、アルゼンチンでは花作りが、とても儲かるんですよ」と星野先生は積極的にアルゼンチン行きを勧められた、と幸(コウ)姉さんが僕に教えてくれたのです。「花作りか、それではお父さん大喜びで賛成しただろう」と僕が言ったのです、なぜならお父さんは花作りが大好きなのです、立派な盆栽もたくさんあったのですが、そのままあの家と共に置き去りにしたのを僕は知っていました、けれどもお母さんは星野先生のお勧めを即座にお断りしたそうです。
「先生が私たちのためにご心配下さるお気持ちは本当にありがとうございます、でも私としては、あの神戸の収容所で幾日も大変なお世話になってまいりました、あの時私はブラジルに着きましたら一生懸命働いてこのご恩に報います、と心に誓ったのです」と母が言ったのに対して星野先生は更に「あなたのお気持ちはよく解かります、しかしお世話になったのはあなただけではありません」。
「またブラジルへ行くのも、アルゼンチンへ行くのも日本の国にとっては、いずれも海外への移住なのですから同じことなのですよ」。
「でもねえ先生、一介の移民が船の中でブラジル行きは止めました、アルゼンチンへまいります、なんて、なんだか少し勝手過ぎるように思えるのです、先生が私共のことをご心配下さるご好意は本当にありがたく感謝申しております、でも私は愚か者でございまして、あの神戸の収容所でさんざんお世話になり今また、この船の中で毎日毎日、何もせずに、三度の食事を頂いて、私はもう有難くて、食事を頂くたびに、このご恩は決して忘れません。ブラジルに着いたら一生懸命に身を粉にしても働いて、きっとこのご恩に報いますと、誓い続けているのです。ですからねえ先生、ブラジルが良いか悪いか解かりませんが、懸命の努力を続けて日本の移民はよく働く、と言われるように勤めるのが私共の使命であり一つの宿命かと思っております。先生のご厚意に対しては背くことになりますが、何卒悪しからずご理解下さるようにお願い申します」。
この母の話を無言のままで聞いておられた先生が「ふう!」と、大きなため息をもらされて、「いやあ、あなたは本当に立派な心の持ち主だ!アルゼンチンへの鞍替えを奨めた私が恥ずかしくなりましたよ、あなたは今、ブラジルへ行くのは宿命だ!と言われた、そして目的地に着いたら身を粉にしても働いてご恩に報いると申されましたね、その確固たる信念には心からの敬意を表します。人は信念を貫くことが大切です。あなたの様に、全てのものに感謝し、自分の信念を貫かれる人は、どこへ行かれても成功まちがいなしですよ。私は今、あなたのような素晴らしい方と出会うことの出来たのを心から感謝しております。ブラジルに於て何卒移民の手本になるような成功をお祈り申し上げております」と星野先生は面を輝かして申されたと言うことです。
母が「お世話になりました」をくり返しながら星野先生の特三室を辞したときに、一枚の名刺を母に渡しながら星野先生が「これは私の住所を記してありますから、何かお役に立てることがありましたら、いつでもご連絡下さい、ブラジルとアルゼンチンは近いのですから、又、いづれお目に掛かれる時があると思いますよ」と申されたそうです。
星野先生の特三室を出て自分たちのD室へ向かうとき、母はその名刺を船縁から、そっと海へ投げ落としたのでした。それは一番後になって歩いていた幸(コウ)姉さんが見たのですが、母はきっと星野先生を頼りにするような未練を断ち切るため名刺を投げ捨てたのでしょうと幸(コウ)姉さんが言っていました。
母はいつも「人を頼りにするな、頼りになるのは自分だけだと思え」と言っていましたから………
サントス丸は恙なき航海を続け、幾つかの港に寄港した後でシンガポールへ入港しました。
船酔いで病人のように弱っていた人たちが船が港に着くと途端に元気になって起き出してくるのです。でも港では荷の積み降ろしでクレーンの音が騒々しくて困っていました。
サントス丸は、その後、インドのセイロン島のコロンボと言う港に寄港して荷の積み降ろしをしました。
コロンボの港を後にして間もなくのこと、赤道を通過するので恒例の仮装行列による、赤道祭を挙行の通知があり、乗船者一般が各自思い思いの仮装で行列に参加するようにとの招待があったのです。
その頃、お母さんは食欲がなくて、いつもくず湯を食べていました、ついでに僕たちも頂くのですが、そのくず湯を作るお湯を貰いに行くのが僕と弟の役目でした。またハンカチや手拭などの洗濯は幸(コウ)姉さんと僕の役目です。その日も幸(コウ)姉さんと僕が洗濯ものを持って洗濯場へ行ったのですが、洗濯場へ入ると同時に幸(コウ)姉さんが僕を遮ったのです。幸(コウ)姉さんが凝視している洗濯場の一角に、お父さんと伍助兄と利雄兄の三人が立ったままで何か話し合っているのです。そこには大きなアルミ製のタライがあるだけでした。三人が真剣になって話し合っているのはどうやらその大タライが焦点のようでした。
僕はお父さんたちが何をしていたのか、解かりませんでした。幸(コウ)姉さんの洗濯を手伝っている間に、お父さんたちは洗濯場を出ていきましたが、僕たちを見つけなかったようでした。洗濯場からD室へ帰るとき幸(コウ)姉さんが僕に「お父さんたち何を相談していたのかわかって?」と言いました。「さっぱりわかんないよ」と答えると「あのね、はっきりとは解からないけど赤道祭の仮装行列の準備かと思うよ」と幸(コウ)姉さんが言いました。
D室に帰ると母が「あんたたちに洗濯までさせて、すまんなぁ」と言うのです。幸(コウ)姉さんが「洗濯だなんて、私たちは只暇潰しにやっているのよ、遊んでいるようなものなのお母さん、何も気をつかわんでゆっくり休んでいていいのよ」
幸姉さんの慰めで母は嬉しそうに微笑んでいました。
その時はお母さんのお腹の中に赤ちゃんが入っていたことは誰も知りませんでした。解ったのはフラジルに着いてからのことで母が妊娠と船酔いの二重の苦しみで弱っていたことを後で知りまして、もう少し何か力になってやれば良かったと思ったのですが、後の後悔先に立たずで残念でなりませんでした。
サントス丸は平穏無事に航海を続け、今日は赤道を通過すると言う当日になりました。船の中は仮装行列の話で持ち切りです。僕は赤道と言う何か目標があるのかと思ったりして甲板に出て見ましたが、どちらを見ても海と空ばかりで何も見えませんでした。やがて赤道祭が始まりました。仮装行列が船内を一周するのです。行列の先頭は道化者のピエロです、色とりどりの派手な衣装がピカピカ光っています、続いてはマドロスさんです、縞のシャツを着て大きなマドロスパイプをくわえています、その次はシルクハットにステッキを持って、燕尾服を着た手品師かも知れません、その次は立派な船長さんです、真白い洋服に金のモールが光っていました。僕は夢中になって見とれていました、次は南洋の黒人さんです、体中を真っ黒に塗りつぶして大きな耳飾りをつけ、槍を持っています、続いてアメリカ人夫婦、ハイカラな洋服で、女性は高い踵の靴を履いています、次に出てきたのは一風変わったもので………二人のいなせな若者が担いでいるのは大きなタライに乗って悠然と前方を見つめ手には小型の幟を持っている老武士、その幟には「大久保彦左衛門タライの登城」と、墨痕鮮やかに記されている、タライに乗っているその老武士、「あっ!お父さんだ!」と僕は思わず叫んでいました。その時、見物人の中から盛んな拍手が起こりました。タライを吊っているナガエを担いでいるのは伍助兄と利雄兄でした、僕が「兄さん!」と呼んだ声が聞こえたのでしょう、利雄兄が持っていた杖を振り上げてにっこりと笑いました。仮装行列は後から後からと続いて来ます、太刀をタバサんだ武士や、ちんどん屋さんと各自が思い思いの見事な扮装に盛んな拍手が巻き起こります、仮装行列の大パレードが終わったその日の夕刻、みんなが甲板に集まりました。
仮装行列に参加した者の入賞者の発表があるとのことでした、その人だかりの中からいろんな声が聞こえてくるのです。「その赤道は仮装行列の最中に通過したのさ」「ここはなあ、インド洋の真只中なんだぜ」「一等か、一等は船長さんだろうよ」と、わいわい騒いでいるのです、僕は「インド洋の真只中」と誰かが言っていたので改めて右舷と左舷に寄って水平線の彼方を見渡したのですが、どちらを見ても海の水と空ばかりでした。
やがて仮装行列入賞者の発表が始まりました。一等から十等までの商品授与が終わりました、僕はがっかりしました、お父さんの大久保彦左衛門は駄目だったのか、と諦めてD室へ帰ろうと思った時でした、「引き続きまして、特別賞と努力賞の発表を行ないます」と言う声に、もしや!と僕は期待の胸を弾ませていました、「特別賞、大久保彦左衛門タライの登城、この仮装は洗面器を陣傘に、洗濯場の大タライを乗物とし、着用のカミシモは船室のカーテンを利用する等で、全てが船内の物を巧みに利用したるその妙案に対し特別賞に決定いたしました」発表をそこまで聞いたとき、僕はもうD室に向かって走っていました。この朗報を一刻も早く母に伝えたかったのです、ところがD室へ降りる階段の所で幸姉さんと、ばったり出会ったのです、「正!特別賞のこと聞いた?」「聞いたよ!早くお母さんに聞かせようと思って走って来たんだ」「やっぱりねぇ!」
僕と幸姉さんは母が休んでいる寝室に向かって急ぎました。「お母さん!大久保彦左衛門が特別賞を頂いたのよ!その理由はねぇ、船内の物を巧みに利用したって!」と幸姉さんが伝えたのです、「よかったねぇ、特別賞を頂けるなんて思っていませんでしたよ」お母さんの顔がこの時とても明るく輝いていました。
その日の夕食がすんだ後で、あまりの暑さに耐え兼ねて兄さんたちが弟を連れて甲板へ夕涼みに出ました。お母さんが一人ぼっちになるので僕は残りました。
大勢の人が甲板へ出たのでD室はひっそりと静かになりました。
その静かな所へ突然どやどやと大勢の人が入って来たのです。よく見ると幸姉さんが先頭で星野先生とコーラスの人たちでした。お母さんが驚いてとび起きました。
「いやぁ!今日の大久保彦左衛門は見事でしたなぁ!本物そっくりでしたよ」と星野先生が褒めて下さったのです。すると、お母さんが「うちの父ちゃんは、いつでも大久保彦左衛門なんですよ、人のためになる事でしたら命がけで働きますし、頑固なところもそっくりなんですよ」と言いました。コーラスの女性たちがくすくす笑っていました。
星野先生が尋ねました。「あの仮装はご主人がお考えになられたのですか?」「はい。あのタライの登城は簡単に出来るからと言うので始まったのですが、カミシモは私が、この寝台の仕切りになっているカーテンを利用して作ったのです」、「そうでしたか、いづれにせよ夫婦合作の完成と言う訳ですねぇ」と星野先生が言われました。
「実は、お母さんにお願いがあるのですが、今日の仮装行列の特別賞の受賞を祝って、私たちのコーラスを聞いて頂こうと思って、このように大勢でお邪魔したのですが、実は今日の仮装行列の合間に私共のコーラスを披露する事になっていたのですが都合で出来なかったのです。それで、どうも勝手な事ですが、今日の小野さんの特別賞受賞のお祝いと言う意味で、ここで私共のコーラスを聞いて頂こうと言う訳で参上した次第なのです。どうでしょうか?お許し頂けますか?」
この星野先生のお話をじいっと聞いていた母が「お許しだなんて先生、勿体のうございます。私たちのためにと、このような、むさくるしい所へお出で下さって、先生のご好意有り難く拝聴させて頂きます。
「ところでご主人は?」、「お父さんは風紀係とか言う役目で結構忙しいようです」、「そうですか、ではわたしのコーラスをお聞き願うことにしましょう」そう言って星野先生がタクトを持って直立不動の姿勢をとられました。
コーラス部の女性たちも起立の姿勢をとります。何とも言えない緊迫した一瞬………
タクトを持った星野先生の右手が高々と上がりました。と、次の瞬間、タクトはまるで生きもののように美しく、爽やかに弧をえがきながら躍動していくのです。そのタクトに引き寄せられるように美しいメロディーが流れるのです、その調べは高くあるいは低く、爽やかに、聞く人々の心の中に染み入るように感じられるのです。コーラスが最高潮になり高く強く空間を駆け巡ります、まるで夢を見ているような心地です。
やがてコーラスが終わりました、が星野先生も女性たちも起立のままで微動だにしません。星野先生がふかぶかと頭を下げられました、それに習って全員が一斉に頭をたれて礼をしたのです、その時でした、突然に大きなどよめきとともに拍手の嵐が起こったのです。皆がその方を振り向きますと、そこはD室の入り口にある階段なのです、その階段をスタンド替わりにして大勢の人たちがぎっしりと立ち並んでいたのです。
後で解ったのですが甲板で夕涼みの後D室へ帰ってきた人々が丁度コーラスが始まっていたので階段を利用して聞き入っていたのでした。その人たちが星野先生の周囲に集まって来ました、父も兄たちも帰って来ました。母が父に向かって「星野先生が大久保彦左衛門を褒めて下さいましたよ」と言いました。
皆さんが帰って行かれた後で母は父に向かって、「今日は本当に素晴らしい一日でしたねぇ」と言いました、すると父が、「俺はよかったけどナガエを担いだ伍助と利雄は大変だったろうなぁ」と、兄たちの労をねぎらうのでした。和やかなその雰囲気に引き込まれたかのように、幸姉さんが「大久保彦左衛門が夫婦合作だなんてすてきだよねぇ………父ちゃんと母ちゃんを見直しちゃったあ!」と言ったのです。母が「幸や!親をからかうもんじゃありませんよ!」と、優しく睨みました。幸姉さんが僕を見てにっこり笑いながら肩をピクンと動かしました。
その翌日、サンパウロ州行きの移民の持病の肝臓病が悪化して亡くなったのです。船内の全員に死亡通知と夜八時の水葬の通知がありました。その夜、サントス丸の船縁には祭壇が設けられ死体は滑り台のようになっている所から海中へ落とすようになっているのです、水葬が終わると「ボオー」と汽笛が鳴りました。
僕は暗い海面を見ていましたが激しく猛り狂う波ばかりで何も見えませんでした。淋しくて涙がとめどなく流れ落ちるのをどうにもなりませんでした。初めて見る水葬の悲しさ、海の中へ投げ捨てられる死体、そしてその遺族の方々のお気持ちを思うとまたまた涙があふれてくるのでした。このような淋しい水葬、今回は航海中に只一人だけであるから不幸中の幸いと思わねばなるまい、と言うことでした。
その後、サントス丸は恙なく航海を続けて、アフリカ南端のケープタウンに寄港しました。船荷の積み降ろしを終えてサントス丸は、大西洋へと出ました。
いよいよブラジル国のリオデジャネイロに向かっての航海です。その頃のリオデジャネイロ港は世界一の美港、そしてブラジル国の首都でした、世界一の美港が、もうすぐ目の当たりに見ることが出来ると言う喜びとは裏腹に悲しいことが起こりました。それはアマゾン行きの移民はリオデジャネイロ港で下船して、南米の南端より引き返してくる移民船に便乗してアマゾン河口のベレン港へ向かうことになっていると言われたのです。世界一の美港リオデジャネイロが別れの港になってしまったのです。
今日はリオデジャネイロに入港の日となりました、朝食には赤飯が出ました、私たちの前途を祝って下さるのです。母は朝食を頂く前と食事が終わってからも何回となく「お世話になりました」「有り難うございました」の合掌を繰り返すのです。僕はとても恥ずかしかったけど幸(コウ)姉さんも一緒なので合掌を続けました。
「サントス丸の中で頂く食事もこれが最後なのよ」と母が言いました。食事が終わった後で、すぐ下船の準備が始まりました。各自が手荷物をまとめて甲板へと集まりました、下船の時に目の検査があるのです。目が赤く充血している人は目薬をさしていました。船の中で親しくなった人、お友達になった人、そして私たちを乗せてきてくれたこの船ともお別れなのです。特に幸姉さんはかわいそうでした、コーラスの仲間たちや、星野先生との切ない別れなのです。
やがて目の検査が始まりました、検査にパスした者は、そのままタラップを降りて下船します、船上に残る人たちが盛んに手を振って別れを惜しんでいました、下船した私たちは休む間もなく三セキのハシケに分乗して収容所へ向かったのです、そのハシケに乗って収容所に向かうときにどうやら我にかえってあまりの慌ただしさに忘れていた世界一の美港がここなのか?と思ったのでした、ハシケは島と島の間を通り抜けて収容所へ向かって行くのです、やがてハシケはある島の桟橋に着きました、手荷物を持ってハシケを降り収容所へぞろぞろと歩いて行きます。収容所は古い建物で、どことなく淋しい感じがします、建物の中へ入って鉄製の寝台は錆だらけで、まるで獄舎のような感じがするのです。
だれかが「ここは花の島」と言っていました。お父さんが「これは完全に島流しだよ、籠の鳥って言うことだよ」と言って淋しく笑いました。
その日の夕方、この島へ来て初めての食事となりました、食事の時間はドラを鳴らして知らせるのです、皆がご馳走を期待して食堂へ集まりましたが、油ご飯に羊の骨が入っているスープでびっくりしました。ブラジルではご馳走なのでしょうが、まだ慣れていない僕たちには油濃くて、とても口に合いません、特にお母さんはかわいそうでした、何も食べないのです、体がますます弱っていくように思われました。ここでは食事だけではなく食器もアルミ製の使い古したもので、あまり衛生的ではありませんでした。でも誰一人として不平を言う者はありません。僕のお母さんは何も食べないけれど感謝の合掌は欠かしませんでした。
この花の島には一週間或いは十日ぐらい滞在したと思いますが、移民船が早く来てくれないかと、待ち焦がれたのを覚えております。このような思いを一日千秋と言うのでしょうか、そんな時に一人のけが人が出たのです、広田さんと言う方で退屈しのぎに貝を拾いに浅瀬の岩の間を歩いていて足を滑らせ、岩角で膝を切ってしまったのです、その傷はかなり深く骨が見えていると言うので大騒ぎになりました。この騒ぎを聞きつけて島の監視員らしいブラジル人がかけつけて来ました、広田さんの傷を見て驚いた監視員は何も言わずにかけだして行きました。島の一隅に事務所らしき小さな建物があり、そこから電話をかけたようでした、すると間もなく一セキのモーターボートが波をけたててやってきました、ボートから医者らしい人たちが三名降りて島の右端にある診療所らしい建物に入りました。広田さんは、そこで傷の手当を受けました、その時広田さんの治療に立ち会った人の話では、この島は以前獄舎か、或いは重病患者の隔離病棟だったのでは、とのことでした。
待ちに待っていた乗船の日が来ました。南米の南端から引き返して日本へ帰る移民船に便乗してブラジル北端のベレン市まで乗せて頂くのです。
朝早くから手荷物を整えて乗船の準備に大騒ぎです。皆は急に元気が出たようです。
サントス丸から下船した五十六家族のアマゾン行き移民が、いよいよ目的地へ向かうことになったのです。
午前十時頃になって出迎えのハシケがやってきました、花の島ともお別れです。
日本船に乗れる!待ち遠しかったこの喜び嬉しさいっぱいでお母さんも合掌すら忘れたことだろうと思ってハシケの中を見回したのです、母が人々の間に小さく座り込んで合掌をしていました。母はそんな時でも感謝の合掌は忘れないんだと解りました、僕は恥ずかしいのでちょっとだけ合掌しました。
花の島よさようなら!と。
僕たちを乗せて下さったのは『ブエノスアイレス丸』でした、誰かが「この船は処女航海の帰りなんだよ」と言っていました。本当にペンキの匂いも新しく気持ちがよいのです、あのサントス丸よりも大きく一万トン級の船だと言うことです。寝台もトイレもどこもかしこも新しくってピカピカです。
新しい移民船ブエノスアイレス丸に乗船して初めての夕食を頂き、またまた驚きました、大変なご馳走なのです。僕はすぐあの神戸の収容所でのご馳走を思い出しました。特に喜んだのはお母さんですから、花の島ではほとんどなにも食べなかったのですから……今、お茶碗と箸で美味な日本料理を頂いているのですから……嬉し涙を流していました。でも母はどんなときでも決して愚痴はこぼしたことがありません、食事を頂いた後で感謝の合掌をして、寝台へ帰った時に、お母さんが何と答えるかと思って「お母さんこの船に乗れてよかったですねえ」と言ってみたのです、すると母が「ああ、地獄で仏とはこのことだねえ、天国とか極楽と言うのか、本当に有難いことです」と言いました。
この新しい船の船長さんは神足徳三郎さんでした、後に聞いたのですが、とても人情の深い方で熱血の人、のちにサントス港に上陸の移民が目の検査に引っかかって上陸出来ず家族と別れて一人日本へ帰ることになったのを哀れに思い替玉を使って上陸させたと言うエピソードがありました。
このブエノスアイレス丸に乗ってから早くも十日が過ぎ去りました、母はすっかり元気を取り戻して明るい表情になりました。幸(コウ)姉さんが僕に「正!何だか嬉しそうね!」と言うのです、僕は何のことか解らずに困っていると「お母さんが元気になったので嬉しいんでしょう」と言うのです、僕はうんと頷いたのですが、幸姉さんの言うのは本当だと思いました。このブエノスアイレス丸はお母さんにとってはまったく助け船だったのです、けれども「良いことは長く続かない」と言われるように、この船と別れる日が来ました。
リオデジャネイロから乗船して十六日目にベレンへ入港することになりました、この船での最後の食事はお別れの朝食でした。私たちの前途を祝って下さる大変なご馳走でした。リオデジャネイロからこのベレンまで十六日間楽しく過ごさせて頂いたブエノスアイレス丸の無事航海を祈らずにはおられませんでした、「ここはもうアマゾン川なんだよ」と誰かが叫んでいました、よく見ると水が濁っていて波は小さな細波です、やっぱり海ではなく河なのかなあと思って前方を見たのだけれど水と空だけで陸地は見えませんでした、これが大アマゾン川なのだと感じ入りました。
神足船長より「成功を祈っていますよ」と有難い励ましのお言葉を頂いて下船しました。
私たちは波止場からベレン市の郊外にある移民収容所へと向かいました、この収容所は会社(南米拓殖株式会社)が大きな邸宅を買い取って改築したのだそうです。二階が寝室ですが大きな広間に二段式のベッドをびっしりと並べてカーテンで仕切ってあります、あの船の中の寝室と同じです、階下は広い会議室に応接間それに炊事場と食堂がありました。
ここでは会社の係員の方より植民地での生活の方式や労働についての説明等がありました。又地主として入耕する者はその土地を抽選によって決定することになり、私たちには第二植民地の第百五十六号地があたりました。
この収容所に入って三日目の夜、すなわち、明日はいよいよ現地へ向かう前夜に、入植者全員が会議室に集合して、福原八郎社長の激励の言葉を頂きました。
翌日の出発が遅れてとうとう夜になりました。乗船は程遠からぬクウロ地区の桟橋まで歩くことになり、五十六家族全員がほのかな街灯の灯を頼りに歩きました。手荷物を持って、小さい子供は背負って、大勢の人が暗がりの中を入り乱れての行進ですから大変です。ようやく桟橋にたどりついたのですが、その桟橋の踏み板が隙間だらけで足をとられる人が続出して大騒ぎでした。
父が「植民地へ向かって希望の船出の桟橋が『クーロ』(苦労)では幸先が良くないなあ」と言っていました。
定期便の船では五十六家族全員を乗せることが出来ないので会社が特別に借り切ったと言う大きな船に乗り込みました。
アマゾン川の河口からアカラ川へ入って、トメアスーまで遡るのです。
船の中で仮寝の一夜を明かして朝を迎えました、アカラ川の曲がったところでは船が大きいので岸の木の枝と接触してすさまじい音がするのです、そのために船は徐行を余儀なくされて、トメアスー着が遅れるとのことでした。川の両岸は熱帯雨林が繁茂して前途を閉ざし何も見えませんでした。操舵手の懸命の努力によって、午前十時に無事トメアスーの桟橋に到着しました。ようやく目的地のアカラ植民地へ着いたのです。この日は一九三〇年十二月二十四日でした、クリスマスの前日です。この日は忘れることの出来ないアカラ植民地の第五回移民五十六家族の入植記念日なのであります。
桟橋から会社の事務所まで砂埃の上がり坂を手荷物を担いで行きます、五十六家族の集団ですから大変な騒ぎです。坂を上がりきった所で事務所前の広場に集まって休息しました。
やがて会社の係の人たちが来て、各家長の名前を呼び上げ、当座しのぎの配給袋を渡し始めました。配給袋の中には米、塩、小麦粉、豚油、マッチ、塩魚等が入っていました。他に石油一カンとカンテラ二個を渡されました。配給袋を頂き家族全員が揃っている方は車に乗って耕地へと向かいます。この車はフォード二十八年型小型トラックに幌をかけたものでした。
僕と幸(コウ)姉さんは弟たちを見守りながら夢中になって配給袋の中を覗いたり、車に乗って耕地へと去って行く人たちを見送ったりしていました、そこへ兄さんが来て「お母さんがいないんだよ」と言って心配しているのです。
あまりの人だかりなので、ついうっかりして気がつきませんでした、「正!ここへ来る途中の坂道辺りを探してこい!俺たちは会社の事務所に用事があるからなあ、たのむぞ」と兄さんは僕を急がすのです、僕はそっと幸姉さんの顔を覗いてみました、幸姉さんがにっこり笑って肩をピクンと動かしたのです、「頑張って行ってこい!」と言う合図です、僕は人混みを押し分けて先刻上がってきた坂道へと向かいました。やっと視界が開けた前方にアカラ川がとうとうと流れています、「あっ!お母さんだ!」と僕は思わず叫んでいました、お母さんはアカラ川を見下ろす道の辺に座って合掌をしていたのです。僕は走り寄って「お母さん!」と呼びました、「あっ、正かい」と言ったけど、合掌はやめないのです、僕は困ってしまってその場に立ったままでいました。
そこへばたばたと幸(コウ)姉さんが走って来たのです、僕が黙って立っているのを見て、すぐ合図をしました。目をぱちぱちさせながら、肩をピクンと動かしたのです、「もう少し黙って待とう」と言っているのです。やがて母は合掌をしたままで話し出しました。「幸や、よく来てくれたね、子供たちは大丈夫かい?」幸姉さんがすぐ答えました、「大丈夫よ、兄さんたちが一緒になっているから、でも皆が気をもんで待っているから早く行きましょうよ、お母さん!」と急ぎ立てました、すると母は「幸や、何も慌てることはない、ここはもう植民地なのだ、二ヵ月以上もかかって、やっと目的のこの地へ着きましたと、今報告させて頂いたのよ、あのアカラ川の水がアマゾン川に注ぎそしてアマゾン川は大西洋へ、その海は日本まで続いているのだよ、あの川の流れと共に私の祈りも水に浮かんでどこまで行くことだろうねえ、さあ皆で合掌しましょう」と行って母が僕たちを振り向いた、僕も幸姉さんも合掌をしました。「さあ!いよいよ森(ヤマ)の中へ行きましょう!」と言うが早いか母は手荷物を背負って歩いて行きます。僕らも急いでその後に続きました。父がぶりぶりしていました。「お前たちがいないので俺たちの車が来たんだけど後回しにしてもらったよ、仕方がないもんだからしばらく待たにゃあならんぞ」と言いました。「いくらでも待ちますよお父さん、そんなに怒らんで……何も森(ヤマ)の中へ行くのをそんなに急ぐことはないでしょう」と母がからかっていました。
「配給袋の中身はなあ、塩魚とカンテラだ、石油のカンテラの灯での生活だぞ」と父はまだぶりぶりしていました。
「仕方が無いでしょうよ、先祖伝来の家屋敷を投げ捨てて来たんですもの……私は覚悟していますよ」と母が言いました。
「百五十六号地の小野さん!」と呼び出されました、しばらく待たされましたがやっと車が来たようです。やはり幌自動車です。手荷物と人とが一緒に乗り込みました。平坦な道を幌自動車は砂塵を上げて走って行きます。道の両側は再生林のような雑木林ですが、その向こうは鬱蒼たる原始林が果てしなく続いています。道が少し下り坂になってきたと思っていたら前方に大きな木製の橋が見えてきました。
幌自動車はその橋を通って登り坂の道を走り続けます。しばらく走ったところで道はまた平坦になり車はモーターの音を響かせながら快適に走ります。やがてT字路の所で右へ入りました。ここは前方が見通しのきく直線の道路です。車はその直線の道を、あっ、と言う間に走り抜けて右へ曲がった下り坂で小さな橋を渡りました。と急に前方がパッ!と明るくなったのです。そこはまるで雪景色のような灰だらけの焼け野原でした。原始林を切り倒して乾燥させ、火を入れて焼いたのだそうです、焼け残りの大木から煙が立っていました。
車は雪が積もったような灰だらけの道を、ゆっくりと注意しながら進んで行きます、車が急に左へ入りました。そこには一軒の板張りの家が建っています。その家にNO156と記した板切れが釘で打ち付けてありました。
「おう!ここが俺たちの家なんだよ」と父が言いました、皆は黙ったままで顔を見合わせていました。
幌自動車の白人運転手が荷物をひきずり降ろして何やら言ったと思ったら運転席に飛び乗るようにしてアクセルを吹かして出ていってしまいました。モーターの唸りと灰埃が、もくもくと舞い上がっていました。車が去っていった後で家の中へ入って見ました。鍵もなにも無いのです、屋根は木端葺きで板張りの家です。
「とにかく荷物を家の中へ入れようや」と兄さんが言いました。父が配給袋の中から堅いパンを取り出して皆に配りました。これは、何の味も無いんだよ」と異口同音に発して笑いました。車が遠ざかってモーターの音も聞こえなくなりました。何だか、この森(ヤマ)の中へ捨てられたような気がして淋しくなりました。
家の回りは焼け野原ですが、その向こうは鬱蒼たる原始林がそびえて淋しく感じられます。
「お隣が誰なのか、ちょっと行って見てくるから」と言って父と兄が出かけて行きました。
母が配給袋の中からお米を取り出して、「入植第一回目のご飯を炊きましょうね」と言って笑っていました。
僕は先程、家の廻りを見ていた時に、家の裏口から下方の森に向かって小道があるので、これはきっと川があるのではないかと思っていたのです。早く行って見たいのですが、一人では恐いし、幸(コウ)姉さんは母の手伝いをしているので誘うことができないのです。
弟の正雄と秀夫は焼け残りの大木に乗って喜んでいました。幼い哲夫は荷物を枕にして寝入っていました。
家の近くに井戸があって、瓶の代わりに潰れたバケツにロープがついているのです。家を建てる時に使用していたようです。水を運ぶのに使っていたと思われる石油の空カンもありました。バケツ一杯の水をロープで手繰り上げるのが大変でした。
僕と幸(コウ)姉さんが家の裏手の小道のことをひそひそ話していたら母がすぐ感じ取ったようでした。「あんたらどこへ行きたいの?」と尋ねられたのです、幸姉さんが「家の裏手に小道があるので、どこへ行く道なのかと思って」と答えたのです。すると母は即座に「では行って見てきなさい、でもあまり遠くまでは行かないでね、お父さんたちも帰ってくるだろうし、早く帰ってくるのよ」と言われました。
さあ、僕と幸姉さんは一目散に駆け出していました、小道はどんどん下り坂になるので面白い程走れるのです。
「うわあ!やっぱり川だあ!」と僕は叫んでいました。
目の前に森(ヤマ)の大木が僕らの上に覆い被さるように繁っています、その下に川が流れています、その川辺まで下りるように土手を削って階段が作ってあるのです。
「下りてみようか」と僕が言うと幸姉さんが肩をピクンと動かしました。賛成の合図です。階段を下りると川辺に丸太で足場が作ってありました、「うわあ!きれいな水!」と二人で同時に叫んでしまいました。
川は約十メートル程の幅で森(ヤマ)の下をとうとうと流れているのです、水は美しくきらきらと輝いて川辺まで透き通って真白い砂が見えています、水の流れに手をつけて見ました。「うわあ!冷たい!」と叫んで二人で顔を見合わせました。水の冷たさと森の陰とがあいまって、何だかまるで別の世界に入り込んだような錯覚を起こしてしまいました。清流に手を浸して、うっとりとしていた僕たちはしばらくして、はっ!と我にかえりました、そこにはアマゾンの大自然が脈々として躍動しているのを感じたのです。そびえ立つ森の下の川辺の静寂はやがて淋しさとなり、恐怖へと転化していくのでした。
僕は急に恐ろしくなり、立ち上がって「帰ろう!」と言いました。幸(コウ)姉さんも、きっと同じ気持ちだったのでしょう、無言のままで立ち上がって階段を上がり始めました。登り坂の小道を走り続けて家の近くまで、ハァハァと息を切らして立ち止まりました。幸姉さんが僕の顔を見てにっこり笑いました。そして肩をピクンと動かしたのです、そこはまだ森の上の夕日が照りつけていました。川辺のあの静寂さ等は想像も出来ない明るさなのです。
家の中に入った僕たちを父がすさまじい剣幕で怒りました。
「どこをうろついているんだ!お母さんをひとりぼっちにして!」僕と幸姉さんは何が何だか解らなくて無言のまま立っていました。
「私が行ってもいいよって言ったんですよ、何もそんなに叱らなくてもいいじゃないの」と母が庇ってくれたのです。
「おまえたちが弟の守りもせずに歩き回っているから哲夫が火傷をしてしまったのだ!」と父がまた怒るのです。
「私が油断していたのが悪かったの、お父さんだって私達を残して外へ出て歩いて来たでしょう。こんなことは、その時の災難で誰彼が悪いと言うもんじゃないのよ」と母が父を説得してくれたのです。
母の言うのには昼寝をしていた哲夫が母の知らぬ間に起き出して秀夫達が遊んでいるところへ行こうとして大木の焼け跡に足を踏み入れたところがその灰の中にはまだオキがあったので火傷をしてしまったと言うのです。
「俺たちが揃って出ていったのが悪かったんだ、お父さん!幸や正を叱らないで下さい」と兄が言いました。
「幸と正がね井戸水を汲んでおいてくれたので哲夫の火傷を冷やしてやれたんだよ、火傷は冷やせば治るんだから、がたがた騒ぐのは止めなさいよ」と母が言ったのです。僕はその時母が井戸水で冷やした、と言ったときに、はっ!と思い出したのがあの冷たい川の水です、そうだあの川の水を汲んで来て火傷を冷やしてやろうと思ったのです。僕が幸姉さんを誘おうと思って振り向くと幸姉さんの方から僕に対して合図をしているのです、肩をピクンと動かして目をぱちぱちして家の裏手を指しているのです。川の水を汲みに行こうと言っているのです、二人でこっそりと家の裏へ出ました。そこにあった石油の空缶を持って川へ向かって走りました。川辺まで下りると夕日が森の中へ沈みかけているので先刻とは違って薄暗くなっているのです、でも早く冷たい水を持って行きたくて夢中でした。石油の空缶に半分ほど水を入れて抱えて歩くのですから大変です、しかも家までは登り坂ですので息が切れてとても苦しくなるのです、幸(コウ)姉さんと僕が約十メートルくらい歩いては交代しつづけてやっと家へ着きました。
「お母さん、冷たい水を汲んで来ました」と幸姉さんが言いました。母が怪訝な顔をして「あんたらどこまで行ったの?」と問うので幸姉さんが川の水についての経緯を話したのです。「あんたらは、まあ本当によく気がついたもんだねえ」と言いながら母の缶の中へ手を入れていました。
「あら!本当に冷たい水!」と喜びの声を上げたのです、その冷たい水でタオルを冷やして哲夫の足を包込むようにしていました。哲夫がぴくりと動きましたがまたすやすやと眠り続けました。母が「この冷たい水で冷やしてやれば、すぐ良くなるよ、あんたらよく気がついてくれたね……その川までは遠いの?」って尋ねるのです、幸姉さんが詳しく説明してあげたのです。
「その川で洗濯をしたら気持ちがいいだろうね」と母が言いました。
真赤な大きい夕日が森(ヤマ)の中へ沈んで、入植第一夜が訪れました。
ご飯に塩魚一つの夕食でしたが腹が空いていたのでとても旨かったのを覚えています。土間に杭を打ち込んで板を釘付けにしたテーブル、そのテーブルの上にはカンテラがまるで煙突のように煙を吹き上げていました。その晩は手荷物を枕にしてごろ寝でした。幸いにして常夏のアマゾンですから寒くはありませんでした。
翌日の午後になって荷物の全てが届きました。あの幌自動車が持って来て下さったのです、お父さんは早速に大工道具を取り出して木を削っていました。何を作るのかと思って見ていたら出来上がったのは天秤棒でした。お父さんは空缶を二つ用意して針金で取っ手を付け天秤棒の両端に木の枝を利用した鍵を針金でつるしたのです。出来上がった天秤棒に空缶をつるして、父が「どおれ一つ試しに川の水を汲んで来るか」と言って小道を下りて行くのです。
僕はすぐその後に付いて行きました。川に着くと森の陰で薄暗く淋しい感じがしますがお父さんと一緒なので平気です。二つの石油缶に、たっぷりと水を満たし天秤棒の鍵でつるして、「よいしょ!」とかけ声をしてお父さんは軽がると担ぎ上げました。ゆっくり登り坂の段を上手に上がりました。段を上がりきると「よいしょ、よいしょ」とかけ声が早くなり足の運びも早くなりました。驚いたことには缶の水は一滴もこぼれないのです。後から見ているとお父さんの足はまるで宙に浮いているように軽がると運ぶのです。途中休みもせずに一気に家へ着きました。
お母さんが大喜びで「まあ!きれいな水だこと」と感嘆の声をもらしていました。
父が「この川の水は真清水だよ、当分はこの水を使用したほうがいいねえ、井戸はその内に井戸がえをしてから使うようにしよう」と言いました。その日も夕暮れ近くなり母はご飯を炊きに掛かり、幸(コウ)姉さんはカンテラに石油を満たしていました。その時です「ぐわぁん、ぐわぁん」と大空がなりだしたのです、何事だろうと皆は顔を見合わせるばかりです。その音はますます高く鳴り渡るのです。僕は外へ出てみたのですが何も見えません、けれどもその音は夕焼けの空に谺してますます高く鳴り響くのです。
「何か異変が起こる前兆なのかなあ」と父が心配して言いました。この大空が鳴るのが後日解ったのですが『ガリーバー』という大猿の群れが大樹の上に集まって合唱する声が森(ヤマ)に谺し、さらに大空の雲に反響して異常な音をかもし出すのだそうです。
入植二日目になりカンテラの仄かな灯を囲んで父と兄たちが話していました。
「明日は第二売店まで行って何か買ってこよう、塩魚だけではまいってしまうよ」。この第二売店と言うのは第二植民地中央部に建てられた学校、病院、売店の三つがあるところなのです。
翌日父と兄二人が第二売店で買い物をして重そうに袋を担いで来ました。
「第二学校はまだ先生が来ていないので当分の間第一学校へ通うようになるそうだよ、あのT字路の所まで幌自動車が迎えに来るそうだ」と言っていました。
その日から数日が過ぎ去ったある日曜日同航者の人たちが大勢みえられて「これから第二売店の近くまで野菜を取りに行くんだよ一緒に行かないかね」と誘って下さったので母と幸(コウ)姉さんが出かけました。一行の人たちは日暮前に帰ってきたのですが袋の中には野の草で『カルル』や『ヒヨウ』等でした。この野性の草も久しぶりの野菜ですから、とても美味で大変貴重な物でした。
その次の日曜日は父が第三区の佐藤さん宅を訪問して青いマモンを頂いて来ました。母は早速そのマモンで酢の物や煮物、漬物等を作りました。入植当時の日本人にとっては青いマモンが貴重な食物だったのです。
私たちが入植したのが十二月の二十四日でしたのでまもなく正月を迎えることに成りました、一九三一年の正月です。
母が何かを作って正月を祝いましょうと言ってフェイジョン豆で餡を作りご飯をつぶしてボタモチを作ったのが最高のご馳走でした。
アマゾンでは正月と共に雨季に入ります、皆が急に忙しくなりました。家の周囲の焼け残りの木の枝を片づけたり、畑の中の通路を測定したり、また日によってはトメアスーまで出向いてカカオの苗を作る講習会に参加したりで多忙な日々を送っていました。
会社の方針は永年性作物としてカカオ園の造成を積極的に奨励していましたので父も兄も懸命の努力を続けることになったのです。ところがその頃の我が家では資金の欠乏と言う最悪の事態を迎えていたのでした。
前に記しましたが故郷の家屋敷を売ってアマゾン開拓の資金にしようとの計画が水の泡に帰したため手元にあった資金はわずかだったようです。
ある日のこと、会社の直営農場で働いている後続移民の中に父の知人がいると聞いて矢も楯もたまらずその農場へと向かったのです。父が農場へ着いた時に、そこでは大きな障害に面して騒いでいたそうです。それは農場で働く数十家族の人たちが共同で使用している大きな井戸が二十メートル下の水源地が砂質土壌のために崩れてしまって、やがては井戸の全面崩壊が危ぶまれているのです。
会社では優秀な土木工を雇って煉瓦等を積み上げたりしたが立ち所に崩れてしまうので手の施しようが無く困っているとのことです。
その話を聞いた父がどうにかして解決に協力しようと思ったそうです。
「この農場の支配人は誰なのですか」
「支配人ではなくて串田さんという監督がおるだけです」
「その串田さんに会わせてくれませんか」と言っているところへその串田さんが入って来たのです。
「水は自動車で運ぶ事にしましたからもう大丈夫です」とさすがに監督さんらしくてきぱきした人です。
そこで父と串田監督が話し合うことになったのだそうです。
「串田さんですねえ、あの井戸の事で大変ご苦労さんですなあ、私はここへ知人を尋ねて遊びに来たんですが、袖触れあうも他生の縁と言う事がありますので少しでも力になってあげたいと思うのですが」「いや、それは有難いですが、もう何回も本職の土木工にやらせたんですから」
「ではもう諦めたと言う?」
「いや、諦めてはいませんが今のところでは何らの方法も無いんです」
「私は方法があると思うんですがね」
「どんな方法か知らんけど、こっちは専門家を動員してやっているんですよ」
「専門家と言ってもねえ、机上の空論家が多くてねえ、実際の体験者は少ないもんですよ」
「じゃあ、あんたは体験者だと言うんですか?」
「勿論です、私は自分で出来ないことは何も言いませんよ」
「あんたはさっきからえらい理屈を並べるが何か特別な名案でもあるのかね」
「いや、特別ではないが水源地の砂崩れは止めることが出来ますよ」
「それ、冗談じゃ無いでしょうなあ」
「本当の話です、井戸の中の砂崩れは煉瓦ではだめですよ」
「では何でやるんですか?」
「木材ですよ、ここには水を吸い込んでも腐らない木があるのでその材料を使えば末代まで大丈夫ですよ」
「それではですねえ、あんたにもし頼むとすれば責任を持って完成出来ますか?」
「俺にやれと言うなら立派に完成させますよ、責任とか言うけどねえ、もし完成出来なかったときにはお金は貰いませんよ」
「それまで言われる所をみると自信があるようですなあ、で頼むとすればどれだけの費用が掛りますか?」
「安いもんですよ、材料さえ揃えてくれたら後は私の手間賃だけですよ、手間代も普通の労働者と同じでいいんだよ、俺は学校出の技師じゃあないからね」
「そうですか、でその材料と言うものはどんなものですか?」
「これも安いもんだよ、まず板だねえ、さっき言ったような水で腐らない板と八番線の針金だけです」
「それだけですか、だったら今すぐにでもやってもらいたいですなあ」
「今すぐやりますよ、これから井戸に入ってみて板の長さを決めなければならんから」
「ではやって下さるんですか」
「あんたがやってもらいたいって言ったんでしょう、俺は本当はやりたくないんだ、もう雨季に入っちゃったからなあ、畑の仕事も遅れているし」
「畑の仕事でしたらこちらから労働者を差し向けますよ、ですから井戸の方は宜しく頼みます」
「話がここまで来てしまってはやらなきゃあならんだろうなあ」
「どうかお願い致します」
「じゃあ井戸へ入って見て板の長さと厚さをあんたに頼むことにする」
「それでいつから始めてもらえるんでしょうか」
「これは急がねばならぬ、俺は家へ帰って道具を持ってくるだけだ」
「じゃあ車を出しますから、それに道具を積んできて下さい」
「いやああんたはなかなか話が早いねえ」そんな訳で話がとんとん拍子に決まったそうです。その翌日の午後にはもう仕事が始まっていました、串田監督は父の要求せる水に腐らない板、長さ二メートル半幅二十五センチ、厚さ五センチの物を揃えたのです。この板で直径一メートル六十センチの底無し桶を作って井戸の底へ入れ、砂崩れを押さえようと言うのです、桶を作るのに一番大切な道具に『正直』と言う物があります。
一口に言えば長さ三メートルのカンナです。つまりは三メートルの台の中頃に刃をはめ込んだものです、この正直で板の側面を削りながら『かい型』と言う自作木製の定規で計って一メートル六十の角度を作り出すのです。その立木を組み立てた物を八番線の針金で作ったタガで締めるのです。出来上がった大きな底無し桶をどのようにして井戸の中に入れるのかと串田監督が気をもんでいましたが父はその桶を井戸の中へと投げ入れたのです、桶は壁にぶつかりながらごとごとと降りていったのです、この桶をさらに掘り下げて安定させたので砂崩れはぴたりと止まって清水があふれるようになったのです。井戸の砂崩れで思わぬ資金が手に入ったので大喜びの我が家でした。この資金を利用して父は立派なカカオの苗床を作り素晴らしいカカオの苗木を育てあげたのです。
アカラ植民地はアマゾン川の河口に近いところで赤道にも近い熱帯地ですから日除けをして散水すれば苗木は目に見えて成長するのです、その苗木を畠へ定植する準備が始まりました、父も兄もカカオ園の造成を楽しみに懸命の努力を続けたのです。
原始林の真只中に入植し、カンテラを灯してのまったくの原始的な生活もカカオ園の完成を夢見て耐え忍んだのでした。
その頃僕たちはブラジル語を習得のために学校へ通っていました、近くの第二学校はいまだ先生がいないとの事で第一学校へ通いました。ある日のこと、学校からの帰途大雨にたたかれてずぶ濡れになって帰ったのです。おかしいことにいつも出迎えてくれる母がいないのです。家の中を探したら秀雄と哲夫が昼寝をしていました、幸(コウ)姉さんが「かわいいなあ」と言って頬をなでていました。「いつもなら、まあまあ大変だったねえ」と言って出迎えてくれるはずの母の姿が無いのでがっかりしました。家の中は『しーん』と静まり返って物音一つ無いのです、その時誰かがばしゃばしゃと雨の中を急いで来る足音が聞こえたのです。誰だろうと思っていたら雨合羽をかぶったまま入ってきたのは母でした、よく見ると両手が泥だらけなのです、母は合羽を脱ごうともせずに「あんたらお腹空いてるだろうがなあ、あのなあ、まだ誰もお昼を食べてないのよ、この雨を利用してカカオの定植を済ませようって頑張っているのよ、それでなあ、あんたらも苗運びを手伝ってくれんかい、すまんけどなあ、濡れついでに手伝ってよな」とそれだけ言って母は又雨の中へ小走りに出ていってしまったのです。
幸(コウ)姉さんが僕をじっと見つめていましたが、やがて肩をピクンと動かしてにっこりと笑いました、「手伝いに行こう!」と言う合図なのです。僕らは雨の中をカカオの苗床まで走りました。母が苗を箱の中へ入れていました。その箱を抱えて畑まで運ぶのが僕の役目です、雨に濡れながらの手伝いはとても面白く感じました。すっかり遅くなってしまった昼食を頂きながら父と兄が言いました。
「いやあ、皆のおかげであの苗を全部植えてしまったからなあ、この雨なら完全に根づくだろうよ」と上機嫌でした。
カカオ園の造成を夢見て皆で頑張りました。
僕たちは毎日学校へ通ってブラジル語の習得に懸命でした、学校から帰ると午後は畑の除草を手伝うのが日課となりました。
忘れもしません、五月二日の日でした。僕たちが学校から帰ると父も兄たちも、皆が家におるので何事が起こったのかと驚いたのですが、皆の顔はとても明るいのです、父が誰にともなく大声で「男の子が生まれたぞ!」と言ったのです。
幸姉さんは母が休んでいる居間に駆け上がって「お母さんおめでとう!」と言っているのが聞こえました。僕はその時始めてお母さんのお腹の中に赤ん坊が入っていたのを知ったのですから本当に解らずやのとんまだったんだ、と自分で自分があきれたのです。そしてすぐ思いついた事は船の中で苦しんで弱っていたお母さんが船酔いとつわりの二重苦だったのだと解ったのでした。
森(ヤマ)の中の一軒家ですから、そして開拓当所のことで、電話とか車とかは夢のまた夢の時代でしたから産婆さんもおらず、母は自分で赤子を取りあげて産湯を使わせたそうです。男の子ですから名前をなんと付けようかと父や兄たちが話していましたが「国を離れて、この国へ来て生まれた子だから、国夫と命名しよう」となりました。
「五月は端午の節句だ!なんとめでたい時に生まれたもんだなあ、ようし!鯉のぼりを作って祝ってやろう」と父は上機嫌でした。
森の中の一軒家で父はどのようにして絵の具を手に入れたものか、或いは日本から持ってきたものか、立派な鯉のぼりを作り上げたのです。
家の表にマストを立てて鯉のぼりを揚げました、大きなこいが大空に向かって泳いでいるようです、父が「アマゾンの大空に第一号の鯉のぼりだぞー!」と言って得意な顔を輝かせていました。
僕たちは第一学校から第二学校へと移りました、第二学校の先生はマリア・ファリアスと言う若い美人の先生ともう一人はサーラ・セイシャスと言う年配の方で親しみを覚える温顔の優しい先生です。
学校で一番困るのは言葉が通じないことでした、でも幸(コウ)姉さんは間もなく先生とお喋りするようになったので驚きました。幸姉さんは学校内の図書室から葡和辞典を借り出して通訳の労をとってくれました。授業はいつも十一時半に終わるのですが、その日はあいにくとその時間に大雨が降りだしたのです、急いで学校を飛び出して行った生徒たちは戻って来ました。サーラ先生が「こんなときはあわてずに雨の止むのを待つことですよ」と言われました。
第一学校の先生も二人の女教師でしたが、第二学校へ移ってからはサーラ先生が大好きになって、皆が喜んで通学するようになりました。
それから二ヵ月ほどたったある日、僕たちは朝早く学校に着きました。まだ授業が始まる時間まではかなり間があると思ったのですが教室が空いているので中を覗いて見たのですが、驚いたことにサーラ先生とマリア先生が教壇の机を囲んで何か熱心に話をかわしているのです。僕らは授業前に一遊びしようと考えていたのですが、がっかりしました。僕たちは仕方なく遊ぶことをあきらめて教室へ入りました。
サーラ先生が話を中断して僕たちに「おはよう」と言われたのですが、その時の先生のお顔はとても明るく輝いていました。
やがて授業の時間となり先生が出席簿の点呼をとられました。点呼が終わると先生は教壇を降りて教室の真中に立たれて静かに話し出されたのです。
「今日は授業の前に大切なお話がありますのでよく聞いて下さいね」と前置きして話し始めたのです。
「来月の終わり頃にベレン市からパラー州の州統領であるジョアキン・マガリャンエス・バラッタ氏のご一行が、この植民地の学校を視察にお見えになられます。その時に第一学校と第二学校から各一名の生徒代表が歓迎の挨拶を述べることになりました。尚歓迎の式典は橋爪会館で行うことになっており各校から五名づつの生徒がお話をすることになっています」
先生がそこまで話したときに教室内は大きなどよめきに包まれました。
「ではお話を続けますよ、そのお話をする五名の人は全生徒が練習に参加して、その中から優れたものを選ぶ事にしました。お話の内容は各自が今習っている教科書の中から、特に自分で好きなものであれば指定して下さい。それから歓迎の挨拶ですが、この第二学校の代表生徒は、マリア先生と相談の結果小野幸(コウ)アデリアを選びました」その時盛んな拍手が室内に響き渡りました、僕は嬉しくなりました。幸姉さんならきっと素晴らしい挨拶をやってくれると思ったのです。後方の机にいる幸姉さんをそっと見たのですが、姉さんは黙って俯いていました。
「これでお話は終わりましたが、練習をする期間が短いので土曜日は特別にお話の練習を取り入れることにします、この第二学校を代表する弁士になるのですから一生懸命に勉強して下さいね」と言われました。
その日、家へ帰って昼食を頂きながら幸姉さんが学校での事についてお母さんに話したのです。お母さんはとても喜んで「よかったねえ、でも学校を代表するとなると責任が重くなるけどね、サーラ先生のご期待にお応えできるようにがんばるのよ」と言われました。
その日が近づくにつれて学校では休み時間も利用してお話と挨拶の特訓を続けました。
いよいよその当日となりました。
朝早くから全生徒が第二学校に集合し、三台の幌自動車に分乗して橋爪会館へと向かいました。
その前夜、みんなが寝静まってもまだ挨拶の練習を続けている幸姉さんに母がそっと話しかけていました。
「幸(コウ)や、あのなあ…」と言いながら母は風呂敷包みを解いて広げたのです。
「うわあ!」と驚きの声を上げたのは幸姉さんでした。そこには目の覚めるようなピンクの布地に赤い花模様をちらした美しい着物があったのです。
「幸や、明日の晴着だよ、この布地はな、お母さんが長い間大切に保存してきたのよ、いつかきっと役に立てる事があると思ってよ、その日はいよいよ明日なのよ、この晴着を着てがんばるのよ!サーラ先生のご期待を壊さぬようにがんばるのよ!」
「お母さん、ありがとう!」と言う幸姉さんの声は涙にうるんでいました。
「ちょっと着てみんか、お母さん自信はあるんだけどなあ」
幸姉さんは黙ってその晴着を身につけました。
それは艶やかな美しいワンピースでした。
「幸や、これ手縫いだけどな、誰もそれを見極める者はおるまい、これだけはお母さんの自慢なのだ。寸法も丁度よかったなあ、この布地はな、いつかは役に立つときが有ると思って後生大事にしまっておいたのよ、良かった、良かった」
「姉さん!凄いぞ!」
「正!何を寝惚けてるの」と幸姉さんが叫びました。
「寝惚けてなんかいないよ、いつも幸姉さんの練習を聞いていたんだ。幸姉さん!明日その服をきて挨拶をのべたら、みんなびっくりするぞ!明日は本番なんだ。早くおやすみよ」と言って僕は寝床へ滑り込んだ。
「本当だ、明日は本番だからね、さあ、やすみましょうね」と母が言った。
幸姉さんは母が真心をこめて作ってくれたドレスを着るんだから明日は何が何でも、がんばるぞう!と思っていたことでしょう。
橋爪会館は超満員の人でごった返していました。定刻より少し遅れて州統領の一行が到着しました。護衛の兵隊さんが大勢見えました。さかんな拍手と、どよめきの中で会館の中へとお入りになって着席されました。初めに植民会社代表の方の挨拶があって、続いて第一学校長のニージャ先生の挨拶、次は第一学校の生徒代表、次が第二学校の生徒代表の挨拶です。
幸(コウ)姉さんが壇上に進みました。ピンクのドレスが輝いています。深々と頭を下げて礼をなし、静かな口調で挨拶が始まりました。その時僕は、はっ!とおどろきました。幸姉さんが大胆なジェスチャーを用いたのです。それは練習の時にはなかったのです。一句一句に力をこめての熱弁です。会場はひっそりと静まり返って聞き入っています。ところが挨拶の中頃で来賓席と思われる場所から拍手が起こったのです。そして、それに呼応するかのように会場全体のどよめきとなってしまったのです。僕はもうどうしたらよいのか解らなくなってしまいました。そっと、壇上に目を向けてみました。幸姉さんは直立不動の姿勢で微かにほほえんでいました。やがてどよめきが静まりかけたとき幸姉さんの挨拶が静かに明確に始まったのです。会場は再び元の静けさに戻って聞き入っていました。挨拶が終わって幸姉さんが徐々に頭を下げていますと、「どおう!」と荒波のような拍手が会場を揺るがせました。
次は生徒十人の『お話し』で州統領歓迎式典は終わりました。
僕らは会館の外に出て幌自動車の来るのを待っていました。ふと見ると会館の玄関横で第一学校のニージャ先生と僕らのサーラ先生が幸姉さんを囲んで何やら話していました。家に帰ってから幸姉さんは母に向かって今日の歓迎式典の模様を伝えました。
「何もかもお母さんのお陰です、今日は大変褒めて頂きました。サーラ先生がとても喜んで下さったの。あの第一学校のニージャ先生がね、私のことをすばらしい生徒だねって言って下さったそうです。お母さんが作って下さったこのドレスのお陰なんですよね」と言って幸姉さんは母の両手をしっかりと握りしめていました。
母は喜びに満ちた笑顔で「よかった、よかった、今日は本当に良い日でしたね。幸や、忘れないうちに言っておくけどね、人のために尽くすことが結果は自分のためになると言う事を忘れてはいけませんよ」と言いました。
「解りましたお母さん。今日は私初めて偉い人の前で挨拶を述べさせて頂いた記念の日です。このすばらしいドレス、今日の思い出に大切に保存いたします。ありがとうお母さん!」そう言って幸姉さんは嬉し涙を流していました。
ある日のこと、用事があってトメアスーまで出かけた父が夜遅くなって帰ってきました。なぜかとても興奮しているのです。
「もう遅いので泊まってくるのかと思っていました」と母が言うと父は
「皆が泊まれと言ってくれたけど癪にさわったついでに夜道を歩いてきた」と答えたのです。「歩いて?」「トメアスーからですか?」
「そうだ、お陰で腹の虫がだいぶ治まった」
「まあ!トメアスーから歩いて来るなんて恐いこと」
「何も恐いことなんかないぞ、恐いのはなあ人間だ。野獣は人間を見たら逃げ去るけどなあ、人間の悪い奴はいつ食いついてくるか分からん、今日はなあ、トメアスーで清一と武治に会ったんだ、夜逃げだよ、取っ捕まえてやろうと思ったんだが、皆が止めるので黙って見逃してやったよ」
「それは良かったですよ、止めてみたってどうにもなるもんじゃないし、自分勝手にどこへでも行けば気がすむのでしょうから」
「お前は自分が子供同様に育て上げたものにさんざんだまされて、なんの断わりも挨拶も無しに夜逃げして行く奴を憎いと思わんのか」
「憎いとは思わぬこともないけど、それよりも世間の人の陰口に翻弄されて、私の言うことを聞き入れてくれなかったことが残念でならないのです」
「産みの親より育ての親って言うことがあるのになあ」
「私は何も育ててやったからと言って恩にきせようなんて思ってはいませんけど、私をまるで疫病神のように嫌って寄りつかないのが残念なんです………見ず知らずの他人のところへ里子に出されるのを不憫に思って私が引き取って育ててやったのに、なぜ憎まれなければならないんでしょう………喜ばれると思ってやったことが恨まれたり、憎まれたりではまったく何のために育ててやったのか解からなくなりますよ。世の中って難しいもんですね」。
「まったく恩を仇で返すとは清一と武治のことだなあ」
「ベレン市へ出ていって何をやるつもりなんでしょう」
「ベレンで船作りをするらしいよ、桶作りはまだ未熟だが船作りならやれるだろうさ」「でも仕事を始めるだけの資金をもっているんでしょうかねえ」
「心配はいらんよ、小金は貯めていたそうだし。道具は一通りはここから運び出していたからなあ」
「それでは道具を持ち出して行くのを知っていたんですか?」
「知っていたよ。道具は俺の指先のようなもんだ。あれもなくなった、これもなくなったって探していたのを知っているだろう」
「そうだったの、仕方ないわねえ、これもひとつの運命なのよねえ」
「まあ、どこへ行っても他人様に迷惑をかけないように祈っているより他に道はあるまい」
こうして小林兄弟は去っていってしまったのです。私は小林兄弟のことを何も記さなかった。それは記すなにものも無かったのです。船の中でも家族から離れて別行動であったし、植民地に着くと同時に、よその仕事ばかりして家の手伝いはしなかったのです。
乳飲み子から育て上げて大人になると同時に裏切られた母が哀れでした。
入植二度目の正月が過ぎ去りました。僕たちは学校へ通っていたので多くの友達が出来て楽しい時期を過ごしていましたが、父と兄二人は時々会社の井戸桶作りに出張出稼ぎがありましたので、私達は、午後は畑の仕事を手伝うことになりました。
学校ではいつも予習の課題を各自の進展にともなって与えられるので僕たちは畑の仕事を終えて夕食の後でカンテラの灯をたよりに勉強をするのですが、僕は畑の仕事が面白くて頑張ると夜は疲れが出てつい眠ってしまうのです。僕が眠い目をこすってぼんやりしていると幸(コウ)姉さんは「正は疲れているのよね、かわいそうに」と言って涙ぐんでいるのです。本当に優しい思いやりのある姉でした。
このアカラ植民地が後にトメアスー植民地となったのですが、赤道に近いところで四季の移り変わりはなく常夏ですから夜になると蚊が多いので日本から持参した蚊帳をつって寝るのがつねでした。それにカンテラの裸ランプで火事にならなかったのが不思議なくらいです。
今、思い出してみますと父母の苦労は大変なものであっただろうと感謝の気持ちで胸が一杯になります。
父と二人の兄は桶作りで資金を稼ぎながらカカオ園の造成に全力を尽くしていました。多忙な原始的生活の中に一九三三年が訪れました。この年が私たちにとって生涯忘れることの出来ない災厄の年になろうとは誰が予期し得たでありましょうか。
悪事の発端は前年の七月十六日の深夜慌ただしい物音に目をさました僕は、あまりにも突飛な出来事に愕然として声も出ませんでした。
弟の哲夫が死んだのです。母が泣きながら、とぎれとぎれに話してくれました。
「突然うーんと言う重苦しい呻き声に飛び起きたの…哲夫が苦しんでいるのです。すぐ抱き上げたの、まるで火がついているような高熱なの、でも抱いている間にその熱が冷めていくのです。死んでいたのですよ。その時は、うーんと一声出したのが最後だったのよねえ、なんにもしてやれなかった」母は泣きじゃくるだけでした。
父と兄が医者を迎えるために暗闇の中へ飛び出して行きました。
唯一の電話が第二病院にあるので、そこまで走ったそうです。でも電話は故障で通じないためトメアスーから出張してくる医者を待っていたそうです。
母は医者に向かって言ったそうです。
「日暮れまで元気に遊んで夕食も皆と共に楽しく過ごして寝たのですよ。そして三時間ぐらい寝たでしょうか、突然うーんと呻いただけで死んでしまうなんて……」
母の愚痴など聞きもせず、医者は、
「高熱のために急死したものはベレン市の衛生局に通知することになっています。場合によっては係の者が来まして、死体の肝臓の一片を採取して病原の研究に資することがありますので、その時は今後のためにご理解とご協力をお願いいたします」と、医者は自分の言うべきことだけを言い終わるとさっさと帰っていってしまいました。
父は第二病院の唯一の電話が不通だったことに激怒して、「当てにならない電話なんか無い方がいい、万年故障の電話でもあれば当てにするから非常時の場合は迷わされる」と言っていました。
その日の夕方に医者と看護婦と衛生局の係員の三人が車で来て肝臓の一片を取って行きましたが、その折も、さらにその後も病名も何も通知がありませんでした。
葬式は第五区の方々と友人たちが集まってアカラ植民地の共同墓地に埋葬しました。哲夫は六才でした。
突発的な高熱による哲夫の急死は原始林黄熱病ではないかなど噂が広がりましたが当局からは何らの通知もありませんでした。
その後、哲夫と同様の急病死人が植民地の中から六名続出しました。その急病とは別にマラリア病が植民地全体を席巻したのです。
家族全員が枕を並べて高熱に悩まされ、中には、うわ言を口走る者も出る始末です。誰一人として炊事の手伝いに来る者もおりません。
この悪夢のような病勢が約二ヵ月ほど続いたように覚えております。ようやく病勢が衰え始めて、皆がやれやれと胸をなでおろし高熱にむしばまれて衰弱した体に鞭打って畑の仕事を始めたのでした。
それから幾日か過ぎ去り、あの急激にショウケツした悪魔のような病勢も遠のいたか、と喜んだのも束の間、以前にもましてさらに悪質な病魔が植民地を襲ったのです。
この病は極度の高熱が体内の臓器を破壊するので、あっ!と言うまに死んでしまう、まったく前代未聞の病魔です。しかも、この病は突発的に頑強な人を襲うので各家庭の長たる人や主婦等が連鎖的に死亡したのです。この熱病の特徴は前にも記しましたが、あまりにも高熱であるために内臓が破壊されるので赤黒い小便となって体外へ流れ出すので、赤小便とか黒水病とか言われていました。小さな植民地なのに毎日毎日葬式が続きました。働き盛りの夫に急死され幼子を抱えて途方にくれている妻、または妻に急死されて男泣きする夫、まさに地獄のごとき惨状に慰めの言葉もありませんでした。
この黒水病はまるで吹き荒れる疾風のごとく多数の犠牲者を嘲笑うかのように過ぎ去って言ったのですが、マラリア病はその後も頻繁と猛威を振るってきたのです。
僕たちの通学していた第二学校もマラリアに冒されて欠席する生徒が続出してきました。
そんなある日、僕たちが登校して教室に入るとサーラ先生が机の上に頬杖をついて何か考えておられました。やがて授業の時間となり先生は出席名簿の点呼を取られたのですが欠席の生徒数が多いのに驚かれ頭を抱えて瞑想にふけってしまいましたが、静かに面を上げられて話されました。
「マラリア病が激しくなって欠席する生徒が日増しに多くなるばかりです。それで私が今、考えたのですが病気のために学校へ来れなくなって淋しがっている生徒たちを訪問して力づけてあげたいのです。それで勉強も大切ですが友達を励まして上げるのも大切だと思います。皆さんは私の考えに賛成ですか」
「賛成!賛成!」と、皆が答えました。
サーラ先生にマリア先生も同調されて、上級クラスの生徒が道案内となって欠席児童たちの慰問が始まったのです。
畑の中のでこぼこ道や森(ヤマ)の中の小道を通って炎天の下を一列に並んで歩いて行くのです。マラリア病のために学校を欠席している児童の家を一軒一軒訪問して励まして回るのです。
美しく奥床しいサーラ先生と華麗な美人のマリア先生を伴ってのこの慰問団の訪問を受けた農家では大きな反響が巻き起こりました。
「先生がわざわざこんな森の中のあばら家までおいでくださるなんてもったいない」と言って感激する人もいました。
「先生にこれ以上の心配をかけてはいかん。早くよくなって学校へ行くんだぞ!」と我が子を励ますお父さんもいました。また、先生の見舞いを受けたのがきっかけとなって病気の床から起き上がり学校へ通い出した児童が多数ありました。
サーラ先生の慈愛に満ちた慰問行動によって第二学校の教室はいつも明るい希望を持った生徒たちが嬉々として勉強を続けるようになったのです。
サーラ先生が実行された個別訪問は大きな成果をもたらしたのです。
ある日炎天の下を歩いていたおりに道端の大樹の陰で休んだ事がありました。その時サーラ先生は次のような事を言われたのです。
「まだはっきり決まってはいないけどねえ、ベレンから神父さんに来て頂いてこの第二学校でミサを捧げて頂こうと思っているの………黒水病で多くの方が亡くなられたでしょう。その人たちの冥福を祈ると共に、マラリア病が早く無くなるようにね。そして平和な毎日の訪れを願ってのミサを捧げて頂こうと思っているのよ。その時にねえ、出来るだけ多くの生徒が洗礼を受けられるようにカテシスモを一生懸命勉強するのよ」と申されました。
サーラ先生の積極的な働きによってその日は意外と早く訪れました。
第二学校の教室に立派な祭壇が設置されました。ベレンからはるばると来て頂いた神父さんは立派な方でした。第二学校の全生徒と若干の父兄が出席して荘厳なミサが挙行されました。このミサの折に上級クラスの生徒多数が洗礼を受けました。幸(コウ)姉さんもその中の一人でした。洗礼を受けた事をとても喜んで、
「なんだか自分が大きくなったような気がするのよ。これからは皆のためになれるような気がするのよ」と言って目を輝かせていました。
サーラ先生はベレンから来て下さった神父さんの好意的な協力に感謝していると話されました。
このミサから数日後サーラ先生から思いがけないお話が伝えられたのです。
それは幸姉さんをベレン市へ留学させたいと申されるのです。他にもう一人の男生徒にも頼んでいるとの事ですが、その当時としては、たった一人の娘を他市へ留学させようなどとは夢のまた夢だったのです。男生徒の方も家庭内の長男とのことで双方共にサーラ先生のご期待に背く結果となってしまったのです。
今、考えてみますと本当に惜しい事であったと思い、又、サーラ先生がいかに生徒たちを愛されていたか、そして植民地の前途の発展をどれだけ望んでおられたかと想い起こされまして感謝の念で胸がいっぱいになるのです。本当に素晴らしい先生でした。
このように懸命の努力を続けられたサーラ先生も崇高なるご誓願とは裏腹に植民地内の病勢は衰えることを知らず犠牲者の数を増やすばかりでした。四月二日に利雄兄が二十一才で亡くなり、その年の瀬の十二月二日には幸姉さんが亡くなってしまったのです。十六才でした。いずれも高熱病の後遺症で完全な治療法が無かったのだそうです。
たった一人の娘を失った母の嘆きは哀れでした。
「幸(コウ)が死んでしまうなんて………私が身代わりになってやりたかった………幸は人のため、世のためになれる人だって、サーラ先生も言って下さったのに……」と、母は口癖のようにつぶやいていました。
三人の犠牲者を出してしまった我が家はまるで舵を失ってしまった小船が大海の波に翻弄されるがごとく、前途の希望もなくただただ嘆き悲しむ日々を送っていました。唯一の望みは実り始めたカカオの収穫でした。心血を注いで育て上げたカカオが実を付け始めたのです。このカカオの収穫によって少しは楽な生活が出来るかと思っていた矢先の事、「会社が直営農場を閉鎖する」と言う噂が広がってきたのです。
植民地全体が大騒ぎとなり会社の事務所へ問い合わせに多くの人が殺到しました。
それは直営農場を閉鎖すれば、そこに建設中のカカオの加工工場が崩壊することになるのです。もしこの噂が事実とすればカカオの実の販売先は消滅してしまうのです。噂が噂を呼んで植民地全体が異様な雰囲気に包まれました。
会社が直営農場を閉鎖すると言う噂が事実となればそれはこのアカラ植民地を放棄すると言う事につながるのです。これはまさに重大な事なのです。
丁度その頃、日本から次々と手紙が来るようになりました。
居抜きのままで残してきた家屋の代金が、またはその朗報ではあるまいか、とあきらめていた心の中で、もしやと思うかすかな望みが芽生えていたのですが、手紙の内容はいずれも家財道具の奪い合いで自分に対して有利になる手紙を送ってくれと言うものばかりで家屋の売買については何ら触れることがないとの事でした。
「まったく勝手な奴らだ!自分の事なら手紙を書くが、こちらが頼んだ事は知らん顔だ。返事なんかやるもんか」と父は怒っていましたが、母は冷静でした。
「全てをあきらめたのに、いまさらくどくどと怒ってみてもどうにもならないでしょう」と言っていました。
日が経つにつれて会社の直営農場閉鎖の噂はますます濃厚になってきました。
各区内で集会が開かれたり、合同区会が開かれたりしましたが、ついに植民大会を開く事になり入植者全員が橋爪会館へ集合し、会社の代表者を迎えることになったのです。この植民大会の騒動は予想外の大事件となり植民地代表の六名、すなわち六家族が追放処分となったのです。その理由は会社の代表者に対して悪質な暴言を浴びせたとの事でしたが、サンパウロ州まで十六日間の船旅の旅費をちょうだいしたのですから怪我の巧妙と言えるかも知れません。
この大会で明らかになったことは悪質な黒水病によって植民地が全滅に近い惨状であるとの噂が日本の株主たちに聞こえたため出資が跡絶えてしまい、アカラ植民地の開拓事業は中止のやむを得なきに至ったとのことでした。
植民地を建設中の会社が倒産したのですから大変な事です。
入植者は恰も大海の中で舵を失った小船のようなものです。しかも心血を注いで育て上げたカカオ園まで放棄するのです。病身に鞭打ってまで働き続けてきた努力も今は水泡に帰してしまったのです。
「カカオが実を付け始めたよ」と言って喜んでいた母の落胆ぶりは哀れでした。前途の希望を失った植民地は荒廃の一路を辿るのみでした。
貯えのあるものはこの地に見切りをつけて住家も農具も居抜きのままでサンパウロ州へと移転して行きました。
「サンパウロ州は日系人が多く住んでいるし健康地帯だと言うから、どうしても行かねばなるまい。困るのはベレンからサントス港まで十六日間の船旅だ。その旅費を工面するのが問題なんだ。家族全員の旅費だからなあ………今になって慌てたところでどうにもなるまい。じっくりと考えて見よう」
そのような話を父と兄が毎日のように話していました
ある日のこと友人宅を訪問して帰って来た兄が突然以外な事を語り出したのです。
「カカオは失敗してしまったが、これからはピメンタ・ド・レイノ(胡椒)が有望だと言っていたよ。値段がカカオとは段違いでとても高い値で売れるそうだよ。それにピメンタは熱帯地には最適な永年性の物だと言うし、皆はとても乗り気になっているんだよ」そんな兄の話を聞いていた母が言いました。
「その胡椒の話しは以前にもありましたよね、家でも五十本の苗木を買い求めて植えたのを覚えていますよ、あそこはどうなっているのかね。もう草に覆われているでしょうね。あの時胡椒の蔓を絡ませるんだと言って腐らない木の柱を立てるのに大騒ぎをしたっけね。でもさあ………胡椒を本格的にやるとなれば、その腐らない木の柱を集めるだけでもかなりの資金が必要だね、どうせ遠方から運ぶことになるだろうから………でもさあ………私は健康地帯への移転に賛成だねえ。命あっての物種と言うだろう………」と言って母はじっと空間を見つめていました。きっと亡くなった三人の我が子を思い出していたのでしょう。
サンパウロ州へと南下する家族が次から次へと増えるばかりで植民地は空き家が続出しました。住家も農具も投げ捨てて居抜きのままで移転して行くのです。僕たちもサンパウロ州へいつかは行けるのかなあ、行けないのかなあと一人で考えていた事がありました。
サンパウロ州へと移転する人たちが増すばかりで植民地は荒廃の一路を辿るばかりとなってしまいました。
我が家では旅費が無いのでサンパウロへも行けず、ピメンタを植える気力も資金も無いので困り果てていたようでした。
その頃、憔悴しきっている母を慰めようとして兄が夜になると寝ている母の枕元で本を読んで聞かせるのでした。本といっても手元にあるわずかの古本の中から面白そうな物語を探し出して読み上げるのでした。その本は講談倶楽部とか『キング』少年倶楽部のような物でした。兄が上手に仰揚をつけて読み上げるので母はとても喜んで聞き入っていました。ところがそれが習慣になってしまって母は毎晩のように本の朗読を求めるようになったのです。
困ったことは兄が所用で出かけて外泊したときでした。兄の代わりに僕に本を読めと言って責め立てるのです。言い出したら聞かない母を知っているので僕は仕方なく講談倶楽部の中から時代ものを選んで読み始めたのです。
その時、他人に本を読んで聞かせる事がこんなに大変な事なんだとつくづく感じ入ったのを覚えております。読んでいるうちに読みこなせない漢字があると、石油ランプの向きを変えたりしてごまかしたのを忘れることが出来ません。
兄の朗読は立て板に水のごとくでトウトウと見事なものでしたが、僕のはぽつりぽつりと拾い読みですから雲泥の差があり聞いている母が気をもんだことだろうと思ったのですが、読み終ると母はいつも褒めて下さいました。僕はいい気になって進んで母への朗読に熱中したものです。
後日気がついた事ですが、僕に朗読を催促していた母は自分が聞きたいことよりも僕に本を朗読させることが勉強になる。つまりは僕のために下手な朗読を我慢しつつ聞いていてくださったのです。母の強制的な、この朗読は一年くらいは続いたと思います。母が喜んで聞いていると思って一生懸命になって本をあさっていた僕を母はまた別な喜びで見ていたものと思います。自らは手解きが出来ない無学な母が我が子のためにと強制した朗読が僕のために大きな成果を得させて下さったのです。
今、私が日本の文字をどうにか読んだり書いたり出来るのは実にこの時の朗読によるたまものであると感謝しております。
夜、ふと目が覚めたのです。誰かが話をしているのが耳に入ったのです。寝惚けていた頭が次第に冴えてその話し声が母と兄の対話であることが解かってきました。
「俺も色々と考えてみたけどねえ、サンパウロへ行くにしろピメンタを植えるにしろ資金が無くては何もできないんだよ。とにかく資金をつくることが先決問題なんだよ。桶作りも大工の仕事も駄目になったし、やっぱり森林(ヤマ)切りでもやる他に………」
「でも森林切りは命がけじゃないか」
「まあ命がけじゃない、とは言えないけどねえ。よく注意して迂闊な事をしなければ命まで落とさなくてすむよ」
「それでお前その請負仕事、まさか決めてきたんじゃないだろうねえ」
「まさか、でもねえ、先方ではどうでも俺に頼みたいと言っているんだよ。なるべく早く返事をしてくれって言ってたよ」
「そりゃーお前を信用して下さるそのお気持ちは有り難いけどねえ」
「俺を信用している訳ではないだろうけどさ。今頃ろくな請負師がいないからねえ、下刈りもせずに大木だけを倒してごまかされたら不焼けになってしまうから」
「それで結論は、どうなるの」
「困ったことがあるのさ。いくら考えても他に方法は無いし」
「何の事その困った事って言うのは、言ってみなさいよ。言ってみなけりゃさっぱり解からないじゃないか」
「あのねえ、その請負仕事をやるとなれば、現場へ泊まり込みになるでしょう。空き家はいくらでもあるからいいんだけど戸も窓も壊れているから留守番が必要なの。それともう一つ炊事係がねえ。俺は油飯が食べられないから困るんだよなあ」
「その困った問題の解決法はただ一つだねえ」
「お母さん!解決法があるの?」
「仕方ないだろうね可哀想だけど」
「可哀想って何の事?」
「正だよ。正を連れて行くしか無いだろう他に方法は無いよ」
「でも正、賛成してくれるかなあ?」
「どうでも、と言わないで、よく話して見ることだと思うよ」
「正が賛成してくれたら請負仕事は成功したと同じだがなあ」
「今になって又苦労のやり直しとはねえ。貧しいより辛い病なしとはよく言ったもんだよ」
この母と兄の話を寝床の中で聞いてしまった僕は、ぱっ!と飛び起きて「僕、留守番に行くよ」と言おうかと思ったが、そんな勇気はなかったので寝ている振りをして黙っていました。もうかなり夜が更けているらしいが僕は目が冴えてしまって眠れなかった。
翌日、母から昨夜の話があったので僕は全部聞いていたと白状したら母が驚いていました。そして、
「お前には散々苦労ばっかりさせるようになるけどねえ、お前でなけりゃあ他には誰も出来ないことなんだよ。頼むからねえ、頑張っておくれよね」と言うのでした。
姉が亡くなってからは母がめっきり弱くなったので僕は炊事や洗濯をよくやりました。その時は弟の正雄と秀雄がよく協力してくれたのです。
母は整頓、清潔を重視する人でしたから、弟たちと力を合わせて清掃に汗を流したのが今も懐かしく思い出されます。
健康地帯であると言うサンパウロ州への移転を目的としてその旅費となる資金獲得のため命がけの森林伐木作業の請負仕事を始める事になったのでした。
兄は以前に自分の所有地の森林を伐り開いた経験があり、その時に雇い入れたベテランの白人労働者がおりましたので、その白人とそのグループを雇う事にしたのです。白人労働者が八名集まったので、後は現地で随時雇い入れる事にして仕事場へ出発することになりました。早朝の涼しいうちにと言うので夜の明けるのを待っていました。労働者たちが手車を引いてくれるので僕と兄の寝具、食料品、伐木用の道具等を車に積み込みました。労働者たちも一緒に朝のカフェーをゆっくり頂きました。
東の空が明け始めたと労働者の一人が言ったのを期に皆が立ち上がりました。
兄が父母に向かって言いました。
「決して危ないことはしませんから心配なく留守番を頼みますよ」
母が僕に向かって言った。
「正!がんばってね」と、なんだか涙声だった。外はどんどん明るくなってきた。
労働者たちが手車を引く前後に皆がぞろぞろと続いて行きます。
朝の空気が気持ちよく感じられました。僕はふと鬼が島を征伐に向かう桃太郎の事を思い浮かべていました。
仕事の現場に一番近い空き家は紺野さんと言う方の家でした。紺野さんはすでにサンパウロ州へ移転されたのです。その空き家を利用させて頂くことになりました。二階建ての大きな家です。階下を炊事場と労働者たちの寝床にして、僕と兄は二階を寝室に一部を事務室にしました。労働者たちはハンモックを吊って寝るのですから簡単なもので、食事もマンジョッカ芋の粉と乾し肉又は乾し魚を火にあぶったものを食べるのですが、兄は「こんな在り来りの食事では一日中斧を振るう伐木の仕事は出来ない」と言って母と相談の上で鶏のぶった切りと白米を煮た雑炊の様なものを当てがう事になったので僕の仕事がまた一つ増えました。
母が編み出した鶏の雑炊のおかげで労働者たちは病気もせずに喜んで働きました。
兄の食事を作るのが僕の一番大切な仕事なので別れる時に母から注意されたことはまず清潔なること、適量を早く確認して無駄を省くこと。いつも新鮮な食事であること。この三ヵ条は必ず守れよと言われました。森(ヤマ)の中の一軒家。戸も窓も無くなっている空き家を利用しての生活が始まったのです。
兄や労働者たちが仕事から帰ってくる時間を見計らって食事を整えておきます。又皆が仕事に出ていった後は一人ぼっちになるのですが、食事の後片づけをすまして近くの小川で洗濯をするのです。兄はお風呂に入らないと体の疲れが取れないと言うのでドラム缶を利用して野天風呂を沸かしました。
食事は肉も魚も干物、他に缶詰め類です。冷蔵庫などは夢にも見ることの出来ない時代でしたから新鮮な野菜等は食べることが出来ませんでした。なにしろ赤道直下に近いところですから食べ物は注意しなければなりません。
母が量を確認してと言ったのは例えば缶詰めを一つ開けたら全部頂いてしまう、次の缶詰めを開けて余してはいけないと言う事であろうかと思いました。
一人で留守番をしながら兄の食事を作り、洗濯をしたりお掃除をしたりの毎日が一ヵ月程続きました。毎日毎日同じことを繰り返すのですから嫌気がさして来ました。森の中の一軒家ですから深閑として淋しいものでした。そんな僕の気持ちを見透かしたかのように突然母がやって来たのです。母は炎天の下を弟の正雄と秀雄を伴って歩いて来たのです。汗をびっしょりかいていました。
母は僕の顔をじっと見つめて「よくがんばったねえ」と言って微笑んでいました。
母と会ったら話そうと思っていた事が山程あったのだけど今、母と向かい合っているのに何を話したらいいのか思い出せないのです。母が背負ってきた風呂敷包みを広げて僕と兄の着替えやパン、手製のケーキ等を出しながら面白い事を言い出したのです。
「陣中見舞いって知っているかい?」と言いながら僕の顔を見て笑っているのです。僕は陣中見舞いって聞いた事があるし、あらましの意味は解かっているが、的確な説明が出来ずに困っていると、母が僕と兄のために陣中見舞いに来たのだと言って笑うのでした。
久しぶりに母と話し合えたし、弟たちとも語り合ったのでとても嬉しかったのを覚えております。もしこの母の陣中見舞いが無かったら僕はきっとホームシックで挫折していたかもしれない。母はきっとそれを予測して遠いところを歩いて陣中見舞いを決行したのであろう…。母は陣中見舞いを笑い話のようにして語っていたが僕の挫折を未然に防ぐための陣中見舞いであったのです。楽しい出会いも、語りあいもあっと言う間に過ぎ去って行きます。真っ赤な夕日が森(ヤマ)の上でもうすぐ日が暮れるぞ………と言っているように思えます。母はさすがにそれを知って帰り支度を始めました。弟たちは家の外を飛び回って遊んでいました。
母はたくさんの手土産を持ってきて下さったけど僕は何も差し上げる術の無きを悲しく思いました。これから遠いところを歩いて家まで着く頃にはすっかり日が暮れてしまうだろう、と思いを巡らせていた僕は母の声を聞いてはっと我に返ったのです。
「正!いいかい、辛いだろうけどね、もう少しの辛抱だよ。伍助兄もがんばっているんだからお前も弱音を吐いたりせずにがんばるのよ。お前が今辛いのを我慢して辛抱するのは兄のためでは無いのよ、結果は自分のためになるんだからねえ、解かったかい。しっかりとがんばるんだよ、伍助とは会わんで帰るけど、あれはもう大人だからねえ解かってくれるだろう。あッお前コーヒーを入れると言ってたね」
「はい、お湯は沸いているからすぐに入れます」と言ってその場を去ったのです。どうしてか涙が流れて困っていたのです。
母は弟たちを呼んで帰り支度をさせてから皆でコーヒーを飲みました。
「ああ、おいしかったぁ!」とお世辞とは思えない褒め方をしてから「正!腕が上がったねぇ、これなら大丈夫だよコーヒーでも、ご飯を炊くのでも、それを作る人によって味が違うんだよ。本当なんだよそれは、何故かと言えばその作る人の心なんだと思うねぇ、このコーヒーはさ、お前が私たちとの別れを惜しんで、せめて旨いコーヒーでも飲んでもらおうと思うその心がこのコーヒーの中に生きている。お前は何も言わないけれどお前の心の中はちゃんとこの母には解かるんだよ。伍助兄も命がけの仕事にがんばっているんだから、頼むよ。伍助兄の力になってやれるのはお前だけなんだよ」
母は涙を流していました。僕も涙が込み上げてきて何も言えませんでした。
「がんばるんだよ、頼んだよ」と繰り返し言ってから母は弟たちの手を引いて帰っていったのです。
小川の向こうの森(ヤマ)に添って道がある。その道を母と弟たちが手を振りながら遠ざかって行く。僕は大木の切り株に登って手を振って見送った。弟たちが白い布切れを振って答えてくれたがだんだん小さくなって行った。
また一人ぼっちになった。と思った時母の言葉を思い出した「がんばるんだよ。辛抱は自分のためなんだよ」そうだ兄の夕食を作る時間だ!と自分に言い聞かせた。
その時僕は母が言った言葉を以前誰かから聞かされた事があるのを思い出したのです。母ではなく別の人だった。あれこれと思い巡らすうちにはっ!と気づいたのです。母と同じような事を言っていたその人は田村先生だったのです。僕の尋常小学校三年生の先生でした。田村先生のお話が僕は大好きでいつも緊張して聞いていました。
「辛抱は自分のためだ」その言葉を信じて、身を粉にして働こうなどとは、その時の僕は思いませんでしたが、とにかく兄のために食事を作ったり洗濯をしたりするのは否応無しにやらねばならなかったのです。
このようにして兄と二人での出稼ぎの伐木請負の仕事が約二ヵ月程続きました。
父母と弟たちが待っている我が家へ早く帰りたくて淋しくなる時もありました。
この請負仕事がやっと終わって我が家へ帰った時の僕の喜びは本当に天にも昇る心地でした。ところが兄が父母に報告した請負仕事の成果はあまり芳しく無いようでした。期限が短かったため予想外に労働者を雇い入れねばならなくなり出費がかさんだために純益はわずかであったとのことでした。そのわずかなお金ではサンパウロ州への移転は出来なくなったのです。父母と兄が真剣になって話し合っている日々が続きました。
ある日、兄が母に向かって話しているのを僕は聞いてしまったのです。
「それより他に方法はないんですよ………請負仕事は骨折り損のくたびれ儲けになってしまったけれどもわずかでも純益があったのですから、それで良かったとして、その純益を生かしてやろうと思うんです」
「それはそれでいいとしてもさあ、正をあんまり使い過ぎるようになるんじゃないかい」
「それは俺も考えているよ。でも正の協力が無くては俺一人ではどうにもならんのだよ」
「それじゃあなんだね。正が行ってくれるか行かないって言うか、それが先決問題だね」
「うん、まあそう言う事だねえ」
母と兄の話はそこで止まってしまった。僕は考え始めたんです。僕が行くか行かないかが問題だと言っている。僕をどこかへ連れて行こうとしているんだ………また森(ヤマ)の中の一軒家かなあ、もうこりごりだがなあ………と思っていました。
好きなものはなかなか見当たらないが嫌なものは先方からやってくるって、誰かが言っていたが、その諺が的中して僕はまた兄と二人で森の中へ行く事になったのです。
それは兄が手に入れたわずかの資金を活用して小数の労働者を雇い自分たちも加わって原始林を切り開き陸稲を作ることになったのです。陸稲は短期間で収穫出来るからです。尚開拓済の畑はあるのですが古土地は雑草の繁茂がひどく陸稲の発育も新地のような出来ばえは望めないので伐木してまで新地を求める事になるのです。
兄の語るところでは自分の所有地内の原始林はわずかに残りがあるので、それを切り倒し、不足分はブレウ区の原始林を切り開くと言うのです。このブレウ区は第二植民地の開発が停止した最終点で会社が測量した地区を越境したまったくの人跡未踏の原始林なのです。
兄の友人である菅井さんもこの開拓に参加するとの事ですが、これは兄と菅井さんの共同計画だったのかと思われます。
僕が嫌がっていた森小屋生活と伐木の仕事が再び始まる事になったのです。しかも今度の伐木は植民地の一番奥まったところで空き家を利用する訳にもいかず水も遠方の湧水を汲みに行くと言う最悪の条件ばかりが揃っているのです。それなのに今回は母に言い含められた訳でもなく兄から頼まれた訳でも無しに自然とその計画に参加してしまったのです。
前にも述べましたがわずかの資金を活用するためにまず兄と二人で森の下刈りをしてその後の伐木に労働者を雇う事になりました。
いよいよ出発です。小型の荷車に道具や食料品を積んで僕が引いて行くのです。馬車も無かったのですから僕が馬の代わり見たいなものです。道は平坦ですから苦しくなる程の労力ではありませんが汗がびっしょりと全身に溢れたのを覚えております。
ブレウ区の終点に会社が放棄した移民収容所がありました。木端葺の板張りの建物が再生林に覆われていました。原始林を切り開いて焼いた後に建てた収容所が焼け跡に再生した草木に覆われているのを目の当りにして偉大なる自然の力に圧倒される感に浸りました。
又、移民事業が悪魔のような病気のために崩壊して使用される事もなく草木の中に埋もれている移民収容所は時代の流れによって翻弄される難破船を思わずにはおられませんでした。この収容所の一室を仮の宿として荷を降ろしてそこから五キロ程歩いたところに樹皮を屋根にしたキャンプ小屋のようなものがあって、そこは原始林が覆いかぶさるようなところでした。この小さな小屋で飯を炊いたり道具を研いだりして目の前の原始林の伐木に挑むのです。
まったく原始的な生活が始まったのです。兄と二人で下刈りに汗を流しいよいよ空腹になるまで頑張り続けるのです。「時計も時間も関係なく腹時計だ!」と兄が笑っていました。
原始林の中は思ったより明るくところによっては自然の公園みたいなところもあります。伐木に先だって下刈りはファッコンという山刀で細い木やカズラ等を切り刻んで伐木に斧を振るうための足場作りなのです。この山刀は刃渡り五十五センチ柄の長さが十六センチで一見して中国の青龍刀に似ています。この山刀も伐木用の斧も二人で引く大鋸も全てがアメリカ製のものでした。
下刈りを始めた日の午後、僕は目の前の直径三センチ程の木を山刀を振るって、すぱーっと切った直後に、まるで火の粉を浴びたように上半身が焼けるような痛みにおそわれたのです。後で解かったのですがこれは火の蟻という小さな蟻が木の上に巣を作っているのでした。それを見ることも無く夢中になって下刈りをやっていたものですから火の蟻を体中に浴びてしまったのです。下刈りをしていて恐ろしいと思ったのはトカンデイラという大きな黒蟻です、四センチから五センチくらいの蟻で主に大木の根元に巣を作っているのです。人が近づいたのを知ると「ぎい!ぎい!」と音をたてて襲いかかって来るのです。真っ黒い、足の長い蟻で歩くのが早いので油断は出来ません。この蟻に噛まれると一日中激痛が止まらず大人でも泣き出すと言われています。
汗みどろになって山刀を振るってへとへとに疲れて小屋へ引き上げるとき、『なまけもの』と出会う事があります。「なまけもの」は四、五才くらいの子供の大きさでその名の通りに動作の鈍い獣です。丁度あのぬいぐるみの熊さんにそっくりで顔はおかっぱで可愛らしいのです。頭はぽんとたたくと「ぴい!」と悲しい声を出すのです。森(ヤマ)の中での和やかな気持ちになれるのは、この『なまけもの』と出会った時ぐらいでした。
小屋に帰れば兄は道具を研ぎ、僕は飯を炊き、夜は二人で収容所まで歩いて泊まりに行くといった毎日でした。ここには風呂もなくタライに水を汲んで行水をしました。水は収容所の古井戸を利用したのですが飲み水は遠方の湧水を汲みに僕が通ったものです。この湧水のところでオンサ(ブラジルの豹)の足跡やまだ湯気の立っている糞を見て恐怖におののきながら水を汲んで逃げ帰った事がありました。嬉しいことや楽しいことは夢にも見ることの出来ない森小屋の生活では一日も早く仕事が終わって家へ帰れる日を願うだけでした。
ある日のこと、兄と二人で昼飯を食べているところへ土屋さんという兄の友人が訪ねて来たのです。人里離れたこの森の中ではまったくの珍客でした。土屋さんは話の上手な面白いおじさんです。僕の作ったコーヒーを「天下一品だぁ!」と言って褒めてくれました。
土屋のおじさんは僕達二人っきりで伐木をやっていると聞いたので手伝いに来たと言うのです。兄はとても喜んでその好意を受ける事になり早速に下刈りのすんだところの伐木をすることになりました。兄は斧を持って僕と土屋のおじさんは大鋸で大木を相手に伐木が始まったのです。長さ二メートル二十の大鋸を引いたり押したりするのですが大木の中へ切り込むに従って重くなるのです。僕は十五才でしたがやせっぽちで体力がないので全身汗みどろになっての大奮闘です。心臓の鼓動が高まり苦しくなってくるのです。でも土屋のおじさんが「よし一休みだ!」と言うまではがんばらねばなりません。その時の僕は何よりも早く土屋のおじさんのように平気で鋸を引けるようになりたいなあ、と思ったことをいまも忘れることが出来ません。原始林を伐木して乾燥させてから火を入れて焼いたところへ降雨を待って陸稲を蒔く。その陸稲を収穫して南方への移転費にすると言うのですから今考えて見ますと大変悠長な手段であったようですが丸裸になってしまった者には他に方法は無かったのでしょう。
家族が一丸となって全力を集中して育て上げたカカオを会社の崩壊と共に投げ捨てねばならなかったのですから、それまでに築き上げた全ての物を失った訳です。物質的な損失と共に精神的に受けた打撃失望は大変な事だったと思います。
このブレウ区の奥山暮らしで一番苦労をしたのは飲み水を運ぶことでした。湧水の出ている場所まで行くのによその人が伐木したところを通るのです。木の枝を潜り抜けたり横倒しになった大木を跨いだりしなければなりません。飲み水はモリンガと言う素焼きの陶器に入れて運ぶのですが約八リットル入りの物を両手に下げるのですからなかなか大変です。この素焼きの器だけが水を冷たく保ってくれるのです。でも水が入っていると壊れやすいので万全の注意が必要なのです。湧水のところでは大猿の大群と出会ったり他の小動物が逃げ去って行くのをよく見ましたがなんと言っても恐ろしかったのは豹の足跡を見つけた時でした。豹の糞については前にも記しましたが僕がモリンガに水を汲みながらなんの気無しに前方の地面と見た時に「ふあっ」と湯気の様なものが立っているのです。僕はとっさに湯が沸いているのではと思ってこれは大発見かと思ったりしたのです。ようやく二つのモリンガに水を満たしたのでその場に置いて湯気の立っているところへ行ったのです。湯気の立っている地面を見た時、僕の体は冷水を浴びた様なショックに見舞われました。湯気の立っている物体は豹の糞だったのです。まだ湯気が立っていたのですからまだ豹がすぐ近くにいたはずです。そこには大きな足跡も残しているのです。豹が木陰からじっと僕を狙っているかも知れません。僕はもう恐ろしくて体が震え出しました。早く逃げようと思ったが水を持って行かねばなりません。四方に気を配りながらモリンガを両手に下げて音を立てぬように歩き出したのです。足下の木の葉が「がさっ!」と音を立てると、
後方を振り返って見ます。豹が後方から襲いかかって来るのでは、と思うのです。モリンガを地面に置いて後方を見極める。そんなことを何回も繰り返して、ようやく小道のあるところまでたどり着き「もう大丈夫だ」と安堵の胸をなで降ろしたら全身から大粒の汗どっと溢れ出ました。僕がモリンガを下げて小屋に着いたとき、兄は斧を研いでいました。「正!カフェーを沸かしてくれんか」と言うので僕はすぐに湯を沸かし始めたのです、そして豹の糞からたっていたあの湯気の事を話そうかと思ったのですが兄に笑われるかと思ったりして黙っていました。
土屋のおじさんが又手伝いにきて下さって僕と二人で大鋸を引いて大木を倒すのです。兄は一人で斧を振るっています。みんなが汗だくで大木との斗いです。
大木が次の大木を押し倒してゆく「将棋だおし」をやるのですがこれは全く痛快なものでした。
土屋のおじさんと大鋸を引くのはとてもきつい労働でしたが伐木がどんどん捗るので喜んで鋸を引いていました。ところがその土屋のおじさんがマラリア病に冒されて倒れてしまったのです。
土屋のおじさんが来なくなってまた兄と二人だけの仕事が続いたのです。
僕は早く家へ帰りたくてどうにもならなくなりました。「虫歯が痛む」と兄に言って、仕事を休もうかと思ったのです。
「そうか虫歯につける薬はここに無いから家へ行け、ついでにズボンやシャツを持っていって洗濯をしてきてくれよ」と言うのです。
どうやら兄は僕の心の中を見透かしていたようでした。でもそんな事はもうどうでもいいんだと思ったのです。早く家へ帰ることだけに夢中になっていました。森(ヤマ)小屋から収容所まで急ぎました。泊っている部屋から汗に汚れた衣類を集めて袋に詰め込んで懐かしい我が家へと急ぎました。
突然に帰宅した僕を見て母が「どうしたのか」と尋ねるので「虫歯が痛むので帰ってきた」と答えたのです。
弟たちが喜んで僕を囲んでくれました。久しぶりの我が家はまるで天国のように感じられました。弟たちと話を交わしているところへ母が手作りのケーキを、「今朝ね、朝っぱらから何か作りたくなってね、やっぱり正が帰ってくるので作れ!と言う知らせだったんだよ」そんな事を言いながら母は僕に向かって早く食べよと急き立てるのです。母が作ってくれたレモン水を飲んでケーキを食べて、そのうちに体がとてもだるくなってきた。と思っていたら急に寒くなってきた。黙りこくっている僕を見て母が、「どうしたの気分が急に悪いのかい?」と尋ねながら額に手を当てた。
「少し熱っぽいね、疲れが出たんだよ。床に入って休んだがいいねえ」と言って無理矢理に寝かされたのですが、それっきり何も知らずで眠り続けたと言うのです。目が覚めたときはもう夜になっていました。
「疲れとマラリアの熱が一緒になったんだね。でも帰ってきてよかったよ」と、言いながら母はまだ僕の頭を冷やしていました。
マラリアの薬はキニーネだけでしたから、それを飲んでまた寝続けたのです。翌朝目が覚めた時は熱も無くなって体の疲れも治っていました。体の調子がよくなると急に森(ヤマ)小屋に一人でがんばっている兄の事が気になって「洗濯ものを持って来たんだが」、「お前が寝ている間に洗っといたよ。ちゃんと乾いているよ」と言って母が笑っていました。
「お父さんどこかへ行っているの?」
「昨日お前が熱にうなされていた時に帰って来たのよ。そして、この熱では当分の間森へは行けまいと言ってお前の代わりに行ったのよ。伍助が一人では可哀想だと思ったのでしょうよ。桶の注文もあるんだけど………気が向かないと仕事はしない人だからねえ、そう言う事なの。だからお前はゆっくりと休みなさい」
「僕はもう大丈夫だよ。もうすっかり良くなったんだから、これから森へ行くよ」
「そんな無茶な事をしては駄目だよ」
「でも、早く伐木を終わらして乾かさないと不焼けになるから、土屋のおじさんも良くなったら又来てくれるって言ってたし………僕がいなかったら鋸を引く相手が無いから」
「お前がそこまで心配してるとは思わなかったよ。まったく、貧より辛い病い無しとはよく言ったもんだねえ。ではね、今若鳥のスープを作っているからね、それを食べてから行くといいよ。鳥の半分は向こうへ着いてから伍助に作ってやっておくれよ」と母は僕が森小屋へ行くのをちゃんと知っていたように何もかも用意してあったのです。
母の心づくしの食べ物と洗濯ずみの衣類を担いで兄が待っている森小屋へ向かいました。
土屋のおじさんもマラリアで倒れたがもう良くなったと言って手伝いにきて下さいました。
又僕と二人で大木を相手に鋸を引くことになったのです。
「おじさん、色が白くなってきれいな顔になったね」と僕が言ったら、
「お前もだ!青瓢箪だよ、マラリアに血を吸い取られたのよ。全く力がなくなってしまったよ」と土屋のおじさんが言いました。
いろんなことがあったけど、どうにか予定の面積を伐木し終えました。
久しぶりに帰る我が家………早く帰りたくて足が土につかないと言った気分でした。
切り倒した木々が適度に乾くのを待って火を入れて焼くのですが、それまでは家に居られるのでとても嬉しく思いました。
弟たちと川べりに畠を作って野菜を栽培し始めたのです。汗みどろになって土を耕すのも、如雨露で水を掛けるのも家の近くでやれる仕事はなんとなく楽しいのです。
母が今の内に薪をたくさん作っておいてほしいと言うので弟たちと相談して古耕地内に倒れているマサランズーバの大木を六十センチの長さに大鋸で切り両面に五寸釘で枝を打ち付けて家まで引いて行ったのです。
家の裏庭でその大木の輪切りを斧で割るのです。このマサランドーバの木は真っ赤な美しい硬い木で、面白いほど簡単に割れるのです。
僕と弟達で見事なまきの山を作り上げました。お母さんが大喜びで「こんな立派な薪を燃やすのは勿体無い様な気がするね」と言って、さも嬉しそうに真っ赤な薪の山を見つめていました。その翌日お母さんが、寝込んでしまいました。マラリア病です。寒気のあとにひどい高熱でうなされているのです。僕は水に浸したタオルを取りかえ、取りかえして頭を冷やしてあげました。ようやく熱が下がって起き出したのですが高熱のために、とても衰弱がひどくやつれてしまいました。
それから二日後にお母さんがようやく歩けるようになったので僕が付き添って第二病院まで行って医者の診察を受けることにしました。
第二病院までは約五キロの道を歩くのですから大変でした。途中で木の蔭の下で休みまた歩いては休みでお母さんがとても可哀想でした。
ようやく第二病院まで辿りついて受付で診察の申し込みをしました。
「診察は先着の患者から順番ですので、しばらく待合室で待っていて下さい」と言われましたのでお母さんをやっと見つけた空席に連れて行きました。かなり広い待合室なのですが患者さんでいっぱいでした。
皆が青白い顔をしているのです。これはマラリア病だなあとすぐ解かります。約一時間程待ってからお医者さんに診察をして頂いたのですがお母さんは体が極度に衰弱していること、そして肝臓が弱っているのでその治療を続ける様にと言われました。
帰りは午後の太陽が照りつける炎天の道を歩くのですから大変でした。ようやく辿りついた木蔭でぐったりとしているお母さんは立ち上がる気力が無いのです。傘は持っていますが焦げつくような炎天を遮る事は出来ませんでした。
僕がもう少し大きければお母さんをおんぶしてあげるんだが………と痛切に感じたのを今も忘れることが出来ません。
ようやく家へ帰り着きましたが、お母さんはひどく疲れてしまいました。
やむなく通院を休んで僕がお薬だけを貰いに通いました。
その頃父と兄が伐木した森(ヤマ)に火を入れて焼く話をしていました。
「もう少し乾燥させた方が良いけどねえ、もし大雨でも降られたら取り返しがつかなくなると思っているんだ」
「俺達の伐木が遅かったからなあ、やはり雨が降る前に火を入れたほうが安心ですねえ」
この話を聞いて僕は心配になったのです。それはお母さんが弱っているからです。
森に火を入れる時は近所の人たちが大勢集まって火を入れます。そして天を焦がす様に燃え立つ炎と立ち上る黒煙を見ながら祝宴を催すのが習慣になっていました。
森に火を入れるとなればその宴会の用意をしなければなりません。僕と弟達がいくら頑張って手伝いをしてもお母さんの仕事は大変なのです。僕はたまらなくなってよけいな事を言ってしまいました。
「兄さん!いつ森に火を入れる様になるか知らないけれど、お母さんが可哀相だよ。ひどく弱っているんだからお祝いの用意なんか出来ないよ」
「そうだなあ、お前の言うのは本当だ。そうだ後一週間待つ事にしよう。雨が降ったらそれまでの事だ。運は天に任せよう」と兄さんが言いました。
そして一週間が過ぎたのです。雨は降りませんでした。兄さんが大喜びで言いました。
「正!お前のおかげで森(ヤマ)焼は大成功だあ!一週間のひのべで、しかもこの炎天だ。乾燥は十分だ。明日は火入れだ!」と張り切っていました。
早速近所の人たちへ火入れの通知に父が出かけました。
兄は松明作りを始めています。お母さんもどうにか起き出して祝いの用意が始まりました。
豚の屠殺と鶏を料理するのは僕の役目で弟達が手伝ってくれるのです。
今回の火入れは二ヵ所なのです。ブレウ区の奥地と自宅所有地の残りの森を伐採したのです。それで火入れはブレウ区の森に火を入れた後で自宅まで約七キロの道を歩いて来るのですから大変でした。
二ヵ所の火入れを終わってから皆が家へ集合して祝宴が始まるのです。
ブレウ区の火入れに集まった人達は二十三人でした。用意してある長さ二メートルの松明を持って風下から風上に向かって火をつけながら進んで行くのです。
各自が両隣の同僚に声をかけて連絡を取りながら進むのです。風向きが急に変わったりすると命取りになる危険性があるのですが、幸いにしてその様な事件はこれまでに聞いたことがありませんでした。
伐木した大木を跨ぎあるいはその枝の下を潜り抜けながら火をつけて行くのです。
この森焼方は土人達から教えてもらったのですが火が一斉に燃え上がるので完全な森焼方とされていました。
森焼が終わって間も無く雨季に入り雨が降りだしました。焼け残りの木の枝等を片づけて蒔きつけを始めるのが順序なのですが、そのひまが無いので木の枝を片づけながらの種蒔きが始まったのです。
僕と兄、それに病み上がりの母までが炎天に身をさらしての陸稲蒔きが毎日続きました。
パタン、パタン、パタン、パタンと手動の種蒔機の音がとてもにぎやかで活気が溢れているように思われました。僕は兄にも母にも負けないぞ!と得意になってパタン、パタンとより早く動かそうと汗だくで頑張っていました。
横たわっている焼残りの大木を跨ぐのは大変ですので大木と大木の間をひとくぎりとして種蒔きをします。
午後になって雨雲が出てきたなあと思っているとたちまち空が真暗になって篠突く様な豪雨におそわれます。
陸稲の種を蒔いたところにちゃんと目印をつけておかないと雨のために解からなくなってしまうのでその目印をつけている間にずぶ濡れになってしまった事があります。恐ろしい程に降る豪雨でも、たいていはすぐからりと晴れ上がるので大木の樹皮を利用して作った仮小屋で雨の通りすぎるのを待つようにしていました。
兄が所用でたまたまトメアスーへ行くことがありました。その時は母と僕の二人だけで種蒔きをしましたが、とても責任を感じて………と言うのでしょうか夢中になって仕事をすることが出来ませんでした。
母は黙って仕事をする人でした。炎天の下で汗みどろになってパタン、パタンと陸稲の種蒔きが毎日続きました。
赤道直下に近いこの地に照りつける太陽の直射は焦げつく様な暑さです。母が日射病になりはしないかと思ってとても心配でした。
「お母さん、少し休みましょう」と小屋の蔭へ誘ってモリンガの冷たい水を差し出すと手を合わせて合唱してからさも旨そうに飲み干して「ああ!甘露、甘露」と言って嬉しそうな表情で手拭いをもって顔をふいていました。
僕が一人で仕事をしている時は小屋の蔭に入って休むなんて考えたことも無いのですが、汗まみれで男勝りに働く母と一緒では、自分が休まねば母も休まないのです。
兄が一緒に仕事をしている時は安心なので僕は夢中で働けるのです。
兄の不在で知ったことは、兄の責任は重大なものだと言う事でした。
母が一緒に仕事をするのが困った様に書いてしまったのですが、本当は母と共に働くのはとても楽しく、とても嬉しかったのです。
朝から晩まで毎日、毎日陸稲の種蒔きは続きました。夕方になるともうへとへとに疲れているのですが翌朝になるとまた元気になって畠へと向かうのです。
午後になると必ずと言ってもいいように雨が降ります。スコールと言うんだと後で知りました。
最初に蒔いた陸稲はすでに芽を出していました。新地ですからとても勢い良く見事に出揃っていました。芽を出した陸稲は日増しに成長するのが解かるのです。灰だらけのこの新地に蒔きつけてもらったのを喜んでいるように見えました。
兄の言うのには蒔きつけた順序に収穫をするようになるから決して急ぐことは無い。陸稲が順次熟成するのを待って刈り取ると優良な品質のお米になるんだ。と言うのですが、僕は早く種蒔きを終わらせて安心したい一心で夢中でした。
兄が所用で出かけた日は僕と母の二人だけでの種蒔きです。パタン、パタンと手動の種蒔機の音がすぐ近くにそびえている森にこだまして複雑な音響となり賑やかなのですが種蒔機の手を休めると「ぱたり!」と静かになり物音一つしない静寂となり淋しさを感じさせるのです。病弱な母は時々仕事を休みます。そして僕だけが一人で仕事をする時がありました。そんな時は人家を遠く離れた耕地ですのでとても淋しいものでした。
ブレウ区の陸稲蒔きも兄と二人で自炊しながら働き続けました。
毎日、毎日焼けつく様な炎天の下で仕事を続けましたから両腕が日焼けして真っ黒になり、いろんな事がありましたけど、頑張り続けてようやく陸稲の蒔きつけが終わった時は、嬉しくて大声で「バンザーイ!」を叫びたいような気分でした。責任を果たしたと言うような喜びだったのかも知れません。
これからは家族と一緒に毎日楽しく暮らせるんだ。と思うと、どうにもならないほど嬉しくなるのです。
弟達も喜んではしゃいでいるのが解かるのです。俺の事を心配していたのか、俺がいないので淋しかったのか。いずれにせよ遠く離れているとお互いに早く一緒になりたいと思うのだと解かりました。
僕が不在の間弟達を相手に母が野菜畑の水かけをしていたと言うので驚きました。この野菜畑の水かけと言うのは大変な仕事なのです。石油の空缶に水をいれたのを運んで野菜の根元にそそいで歩くのです。その頃は主にキャベツやトマトぐらいでした。
川の水を利用するので川岸に作った野菜畑で水かけの仕事が終わると汗だくの体を「じゃぶん」と川へ飛び込んで汗を流すのです。それがとても楽しかったことを覚えております。
そして二ヵ月程過ぎました。
連日の雨で陸稲がぐんぐん伸びるのが目に見えてくるのです。
あの灰だらけの焼けあとが今は緑のモウセンを敷きつめた様な本当に見事な目のさめる様な緑一色です。そよ風に揺れ動く陸稲はまるで緑の海原の様です。
あの時汗だくになって大鋸を引いて切り倒した大木の焼け残りも緑の海の中に沈んでしまいました。そよ風に泳ぐ陸稲は緑色に輝く大河の細波の様に見えるのです。僕はうっとりとしていつまでも緑の波を眺めていました。
しばらく時が流れました。
僕ははっと我に返りました。その時僕は誰にも告げずに家を出てきたことが心配になったのです。
皆が僕を探しているかもしれない。と無断で飛び出して来たことが悔やまれて一時も早く家へ帰ろうと思って駈け出したのです。その時はもう緑の波も細波も忘れていっさんに走っていました。
家の近くまできた時は「ハア、ハア」と息が切れて苦しくなりました。立ち止まってしばらく息を整えてから家の中へ入ろうとしたのです。その時家の中から母の声が聞こえてきました。「もうすぐ帰って来ますよ。それはねえ行く先を告げずに出歩くのは悪いかも知れないけれど、でも正だって一人前の仕事を、いや、大人以上の仕事をしているのよ。たまには家を出ていったからってがたがた騒ぐ事はないと思いますよ」
ここまで立ち聞きをしていた僕は急いで家の中へ入ったのです。
「ただいま!」と元気よく言ったのです。すると母は父に向かって言いました。
「ほら、やっぱり帰ってきたでしょう。正は無断で遠くまで行かないって事はわかり切ったことなのにねえ」
父は黙ったまま僕を睨んでいたけれど何も言いませんでした。弟達が心配して集まって来ました。そして僕がどこへ行っていたのかと聞くので、あの緑の大河、緑の細波の事を話したのです。その僕の話を聞いていた母が、
「明日皆でその緑の波を見物に行きましょうよ」と言いました。
この事件で母が僕を信じていてくれた事がとても嬉しく思いました。
その日から約一ヵ月半程が過ぎ去りました。
陸稲の大豊作です。その稲刈りが始まる事になったのです。
朝早くから昼食時まで夢中で稲刈りをします。昼食後はその刈り取って日干しをした稲を集めて稲叢を作るのです。
この地方では稲をモンテにすると言っていました。
毎日、毎日炎天の下で陸稲は黄金色に熟れてゆくのです。その熟れる陸稲を追いかける様にして刈り取り稲叢を作り上げてゆきます。
家の近くの所有地の収穫を終わって、ほっ、とする間も無くブレウ区の陸稲も熟れ始めているとの事で出稼ぎの仕事を始める傍で労働者を雇う事にして頼んで歩いたのですが、どこもかも稲の刈り取りが同時期のため労働者が足りなくて困っているとの事でした。
ブレウ区の陸稲の熟れ具合を見に行った父が言うのには刈り始めるまでには十日ぐらいの余裕がある。だからこの期を利用して小屋を立てたらよいと言い出したのです。
父は大工ですから自信があるのでしょう。父に説得されて兄もその気になり、直ちに道具や食料品を手車に積んで翌朝出発することになったのです。
父が率先してブレウ区の出稼ぎに行くのは始めての事で僕はとても嬉しく、とても頼もしく思いました。
父と兄と僕の三人が樹皮で被いをした小屋で食事をしながら家建てが始まったのです。柱や梁、桁等の木材は稲畠の中から焼け残りの木を探し出したのですが、タルキになる様な細い木は見つからないのです。細い木は焼けてしまったのです。早速僕にタルキ用の木材を見つけてこいと言う事になったのです。
タルキ用になる木は森の中へ入らねばなるまいと兄が僕に言って注意を与えてくれたのであります。
それはまず森の中へ入ったらファッコン(山刀)で目印をつけながら進んで行くこと。次は何事かに気を取られて深入りしてはいけないと戒められました。
兄の計算では四十八本のタルキが必要だと言うのです。兄と父は柱等を集め始めています。
僕は一人でタルキを集めねばならなくなってしまいました。度胸を決めて森の中へと入りました。迷子にならない様に小枝や草を切り倒して目印を作りながら進みました。森の中は涼しくてとても気持ちがよいのですが場所によっては太陽の光が閉ざされて薄暗い所もあります。物音一つ無く自分の足音だけが耳に入るだけでちょっと淋しくなってきました。でもどうしてもタルキを見つけねばなりませんので、さらに奥へ進みました。前方が少し下り坂の様になっていて、さらにその前方に湧水でもあるように思える所へ行きついたのです。そこをじっ、と見据えているとその下り坂の横にスラリと伸びた細い木々が立っているのです。
「これだっ!」と僕は思わず叫んでいました。夢中になって切り倒して、その木を二本づつ蔓で縛りました。その二本を担ぎ出すのですが生木ですからとても重いのです。四十八本にはまだ足りないけど喉が乾いたので一旦帰ることに決めて二本のタルキを担いで森を出ました。
「これは素晴らしいタルキだ!」
「まるで注文をして作らせたタルキだ!」と父と兄が喜んでいました。
四十八本のタルキを切って運び出すのは二日がかりの大仕事でした。
森の中の二日間、僕の力となってくれたのはファッコン(山刀)一本でした。この刀は刃渡り五十五センチで、幅の広い青龍刀に似た形のものでこの地方では大切な農具の一つなのです。この刀も伐木用の斧等も全てがアメリカ製のもので素晴らしい鋼鉄でした。
タルキ集めが一段落となったので僕はモリンガを二つ両手に下げて森の中の水源地へ飲み水をくみに行ったのですが………その水源地へ近づいた時思わず立ち止まってしまいました。何か大風が吹いてきた様な「ガサッ、ガサッ」という異様な音が聞こえるのです。思わず耳をソバダテました。
その音はとても複雑で一人や二人の音ではありません。僕はその時土人達の集団ではないかと思ったのです。
とても恐ろしかったのですが、どうしても水をくまなければならないのでおそるおそる水源地へと近づいて行ったのです。
「うわあっ!」と僕は大声を出してしまいました。猿の大群です。僕が近づいたのを察知して逃げて行くのです。「バラ、バラ、バラ、バラ」と音を立てて大樹上へと登って行きました。五十匹以上の群れでしたが、「あっ!」、という間に樹上へ消えていったのです。その逃げ行く猿たちの敏捷なこと………
モリンガを両手に下げたまま樹上に消えていった猿たちをポカンと見ていた僕を猿たちは笑って行ったのでは、と思ったりしました。
突貫工事の家建てが三日目には棟を上げてタルキを打ち付け始めました。次の仕事は木端作りです。マサランヅーバと言う大木を大鋸で切り、それを割って作るのです。その割った木端を運ぶのが僕の役目でした。
タルキを打ち付けられて家の形が出来たのですが、とても高い家だと思ったら、なんと二階建てなのでした。下に労働者達を、そして二階は自分達が休む所だと兄が言っていました。
木端葺きの二階建ての家が出来上がって今度は井戸掘りが始まりました。
井戸は燐耕地の菅井さんと共同作業なので仕事が早いのです。十六メートル掘った所で水が湧き出しました。これで森の中へ水をくみに行く必要は無くなりました。
陸稲の収穫まで十日の余裕があると言っていたあの日から十五日が過ぎてしまいました。陸稲はすっかり熟して黄金色に輝いています。
家が出来たし、井戸水も湧いたので母も弟達も全員がブレウ区に集まりました。
いよいよ全力を集中しての稲刈りです。困った事には労働者が見つからないのです。それはどこも一斉に稲刈りが始まったからで、労働者は引っ張り凧なのです。
仕方がないので家族総動員で稲刈りが始まりました。
畠は見渡す限り黄金色に輝いています。早く刈り取らないと熟れすぎた陸稲は稲穂が折れて地に落ちてしまい大きな損失になるのです。
皆で夢中になって稲刈りをしていた所へひょっこりと現れたのが、かつて伐木の請負をした折に雇った事のあるジューリオさんと言うカメタ郡から出稼ぎに来ていた白人でした。
驚いたことにジューリオさんは両手に一番(ツガイ)のアヒルをぶら下げているのです。そのアヒルはジューリオさんがカメタへ帰って行く時に、僕がジューリオさんの言葉に甘えて頼んでしまったプレゼントなのです。あの時ジューリオさんが僕に今度来る時カメタから何かを持ってきてやる。何がいいかと言われたので、可愛いアヒルの子がほしいよ、と言ってしまったのです。ジューリオさんはその時の約束を守ってアヒルを持って来て下さったのです。
カメタ郡からトメアスーまでカノア(丸木舟)で一週間の水路の旅だそうです。そしてトメアスーからこのブレウ区までは約四十キロになると思います。その遠路を歩いて炎天の下をアヒルを両手に下げて来たのですから大変なご苦労だったのです。ちょうど昼食時でしたから皆でジューリオさんの話を聞きながら食事をしたのですが、ジューリオさんの機転によって陸稲の収穫がスムーズに終了出来ることになったのです。
トメアスーの桟橋に着いたジューリオさん達の一行を労働者斡旋業の人達が取り巻いて否応なしに小型トラックに乗せたそうです。その時にジューリオさんだけが乗らずに俺は約束した人がおるからと言って歩いて来たのだそうです。
ジューリオさんは仲間の者がどこへ連れ去られたのか心配になってその行く先を運転手に聞いたそうです。
「ですから、今から仲間の所へ行って全員をこちらへ連れて来ますよ」とジューリオさんは笑って話されました。
ジューリオさんの協力によってカメタ郡からの出稼ぎ仲間が八名揃ったので稲刈りは面白いほど捗りました。
沢山の稲叢が見事に並んでいます。稲の刈り取りが済めば次は籾叩きが始まるのです。籾叩きと言うのは稲叢が並んでいる中心部に場所を定め地均しして厚手の布地で作った手製のテントを敷きつめ、更に三方を同様のテントで囲みます。それは弾け飛ぶ籾を押さえるためです。その囲いの中に長さ二メートル半、幅八十センチの叩き台を据えて三人で籾叩きをします。他の人達は稲叢を崩して稲を運んできたり叩き台の回りにちぎれ落ちた稲穂を整理したりで皆が一生懸命に働くのです。
籾叩きを三日ほどやった時に一時中止する事態が起きました。
それは父の友人で五区の佐藤さん宅が労働者が見つからずに困っており、陸稲は熟れすぎぬばかりの危機に瀕していると言う事で父は二日間だけこちらの総力を集結して手伝ってやれと言うのです。
父の申し出に同情した兄がその翌日から早速佐藤さん宅へ手伝いに出向く事になりました。
朝五時起床、兄と僕とカメタ人八人で合計十名が夜明け前に佐藤さん宅へ着きました。佐藤さんがとても驚いていました。夜の明けるのを待って兄が稲畠を見てきて佐藤さんに言っていました。
「稲が熟れすぎていますから刈り取ったらその日の内に籾叩きをした方がよいと思います。叩かずに稲叢にすると稲穂が枯れているので折れて散失するためかなりの減収となります。ですから稲叢にせずに籾叩きをすれば散失を食い止める事ができます。それで私どもに仕事を任せて下されば、午後二時頃まで稲刈りをして、その後で刈り取って乾いた稲をその日のうちに叩いてしまうのですよ」
兄の話に佐藤さんは大変喜ばれた。
僕達はジューリオさんとその仲間が総力を上げての稲刈りが始まりました。
兄が俺達の働きぶりを見てもらうんだよと言っていましたからカメタの人達も一生懸命脇目もふらずに働き続けました。午後になって叩き台の場所作りに少し手間取りましたが、日没までに刈り取った稲を全部叩いてしまいました。叩き落とした籾を袋に詰めて佐藤さん宅の家まで運んだときは真暗になっていました。
二日間の手伝いで佐藤さん宅の陸稲を完全に収穫し終えたので大変喜ばれました。
カメタ人達の働きぶりには佐藤さんも驚いておられました。
佐藤さん宅への手伝いを終えた後、いよいよブレウ区の籾叩きをやることになりました。
稲叢を崩して運ぶのが五人、叩き方をするのが四人で兄は叩き台の回りに落ちる稲穂の整理をしながら総監督です。僕は稲叢崩しをしたり運んだりする役目です。
皆が汗みどろで埃だらけ、目だけが、キョロキョロと光っているのです。
夕刻になると叩いた籾を袋に入れて家まで担ぎ運ぶのです。
全員が汗と埃にまみれての奮闘です。
このブレウ区には川が無いのでカメタの人達はタライに水を汲んでの行水をするのが、かわいそうでした。彼らの故郷のカメタは有名な水郷ですから………
カメタの人達は実によく働いてくれました。朝早くから夜遅くまで頑張ってくれたのです。まるで戦争の様に騒々しく朝から晩まで来る日も、来る日も稲叩きでしたが、ようやくブレウ区の仕事が終わりました。
後は自分の所有地のわずかな稲叢が残っているだけなのでカメタの人達には郷里へ帰ってもらうことになったのです。
カメタの人達は兄から賃金を受け取って大喜びです。当時の五百ミルヘイスの大きな紙幣をひらひらとまるで小旗を振るような仕草でお互いに見せびらかして狂喜していました。
その時、嬉しく無かったのは僕一人だったかも知れません。なぜなら明日の朝はこの家を出てカメタへ帰って行くジューリオさんやジョアキンとの別れが悲しかったのです。ジューリオさんもジョアキンも僕とは兄弟の様に、いや、兄弟以上の仲良しだったのです。雇主とか労働者の意識は微塵も無くいつも助け合って仕事に没頭してきたのです。
僕達がサンパウロ州へ移転すればカメタの人達とは二度と再び逢うことは出来ないでしょう………そんな事を思って僕はかなしかったのです。
ジューリオさんはいつも僕をカメタへ連れてってやると言っていたのです。僕は一人だけこっそりとカメタへ行こうか、とさえ思っていました。
でもそんなことをしたら母が嘆き悲しむだろうと思ってカメタ行きは諦めねばなりませんでした。
ブレウ区の家には叩き落とした籾を貯蔵したままで、これは後に唐箕にかけて選別して売り裁く事になるのです。
今は所有地の稲叢を崩して籾叩きする仕事が残っているのですがブレウ区の収穫が一段落したのでしばらく休むことになったのですが父も兄も雑用が多くて頻繁に外出が続きました。
僕は弟達と野菜を作ったり、薪を割ったりしましたが、僕達の働きを母はいつも喜んで褒めて下さいました。
そんなある日のことトメアスーから帰って来た兄が急にサンパウロ州への移転の手続きや、籾が一俵二十八ミルヘイスで売ることになった等々の話をしているので、なんだか急に忙しくなった様な気分になり心が落ち着かなくなりました。
兄の言うのには、籾一俵が二十八ミルで売れると言うのは絶好のチャンスだから残りの稲叢を全部叩いてブレウ区の籾と一緒に売り裁いてしまおうと言うのです。
ところが日雇いの労働者が見つからないのです。なぜなら時期外れなのです。労働者達は年に二回伐木の時と、収穫の時だけよそから出稼ぎに入って来るのです。
仕方がないので家族総動員で籾叩きをやることになったのです。
翌日兄と二人で農具を担いで籾叩きの場所を作りに行って驚いてしまったのです。伐木された切り株の回りに発生した新芽が二メートル近くも伸びて、まるで再生林のジャングルの中へ迷い込んだ様で稲叢がどこにあるのか検討もつかない状態なのです。
僕は灰だらけの土地へ籾の種蒔きをしたおりの事を思い浮かべてはあの焼けあとがこんなに早く再生林を造り出す自然の力の偉大さに驚きました。
「おおーい、この辺がいいだろう!」と叫んでいる兄の声にはっ、としてその声の方にと急ぎました。
大体の検討をつけて稲叢を運んでくる中心部に叩き台の場所を作りました。
翌日は早朝から弁当を持って皆で籾叩きです。僕は稲叢を崩して叩き場まで稲を運ぶ役目です。兄は叩き方、母は叩き台の回りに飛び散る稲穂やその他の整理をしています。
父はあまり手伝ってくれませんが、たまあに叩き方をしたり母の雑役をやったりします。
僕は一人で稲叢を崩して運ぶのですから汗みどろになって無我夢中の大奮闘です。稲叢を崩して自分が担げるだけの大束を作り上げて担ぎ運ぶのですが実り豊かな稲はどっしりと重いのです。足下が見えにくい程の大束を担いで運ぶのですからまったくの重労働でした。
夕方になると叩き落とした籾を袋に詰めて家まで運ぶのですが馬車も無く小型の荷車に籾の入った袋を積み上げて皆で引いたり押したりして運びました。これでその日の仕事が終わるのですが、夕日はとうに森の中に沈んで家の中はカンテラの灯が揺れていました。
朝は早くから夜に至るまで汗まみれの仕事が毎日続きました。その日も僕は稲叢を崩して運んでいました。一つの稲叢が残り少なくなり最下段の稲を抱え込もうと両手を稲の下へ差し入れた途端に「ざあ!!」と僕の面前に飛びかかって来た物体がまるで僕を押し倒す様にして「ぶわあ!」生青臭い物を吐きかけてきたのですが、その時はあまりにも咄嗟の事で何が起こったのかさっぱりわかりませんでした。驚愕のあまり後に転倒した僕は気を取り直して散らばっている稲の下を除いて見たのですが、ますます恐ろしくなってしまったのです。稲の下にはすごい大蛇がとぐろを巻いているのです。僕はもう夢中で「大蛇だあ!」「大蛇だあ!」と叫びながら皆が居る叩き台の所へ走ったのです。皆が棍棒を持って大蛇を遠巻きにしたのですが「俺がやる!」と言ってお父さんが開墾用の重い大鍬を振りかざして大蛇の頭部を打ち据えたのです。この時僕はお父さんの度胸の強さに驚きました。その一撃で大蛇はまいったのです、大きな胴体をぐりぐりとくねらせて苦しんでいる様でした。胴体をくねらす度に赤、黄、黒等の色取り取りの斑模様が不気味に光っているのです。その大蛇を見ているうちに僕は体中が熱っぽくなり頭痛が激しくなってきて立っているのが辛くなり、その場へ座り込んでしまったのです。意識が戻ったとき、僕は家の中に寝かされていました。母が頭を冷やしていたのです。起きようとしたけど体が自由にならないのです。
「起きないでぐっすり休みなさい。マラリアを引き起こしたのだよ。体も疲れていたしそれにあの大蛇の悪鬼をまともに受けたらしいから、でもよかったよあれが毒蛇だったら命取りだったよ」
母が言っていた言葉を夢うつつに聞いていたが、その内に僕はまた深い眠りに落ち入ってしまったのです。
その蛇は「ジボイア」と言う無毒の蛇で鼠を取って食べるために稲叢に入っていたのでした。後で知ったのですが胴の一番太いところは直径二十八センチで、長さは約三メートルあったそうです。普通の蛇はこの太さならばまだまだ長いのですがこの『ジボイア』は太く短く無毒なのが特徴なのです。
僕は蛇にたたられてマラリア病を併発し三日間を休んでしまいました。僕が休むと籾叩きは出来ませんので皆がお休みになってしまいます。
四日目に起き上がって体が少しふらふらするけれど籾叩きを早く済まさねばと気がもめるので「もう治ったよ」と言って仕事を始めたのです。畠で稲束を担ぐと体がふらつくのでゆっくりと歩を運びました。夢中で仕事に取り組めないのが残念でたまりませんでした。
そして一週間………ようやく籾叩きが終わった時僕はまたまたマラリア病の高熱に倒れてしまったのです。熱におかされて昏睡状態にあった時、ようようたる大河を丸木舟に乗って故郷へ帰るカメタの人達と一緒に僕も同乗している楽しい夢をじっくりと見たのです。ジューリオさん達はきっと故郷のカメタで丸木舟でも作っている事でしょう。
僕がマラリア病から立ち上がれるようになった時次の仕事が待っていたのです。それは貯蔵しておいた籾を唐箕にかけて売り裁く事になったのです。
僕の役目は石油の空缶に籾を入れて唐箕の上部に籾をいれてやる仕事です。
母と弟達が石油缶に籾を入れるのを手伝ってくれたので僕はそれを担ぎ上げて唐箕に入れるのです。唐箕の風邪羽根を回すのは兄の仕事です。
この唐箕かけも汗と埃に塗られての大変な仕事でした。特に僕は唐箕を空回りさせぬ様に籾を入れてやらねばならないので少しも油断が出来ません。でもその責任感が張り合いとなって働き続けたのです。
陸稲は大豊作でしたので見事な籾でした。唐箕にかけて選別した籾を袋に詰めて売ることになったのです。
どれだけの収穫があったのか、又どれだけの収入があったのか、その時の僕は無関心でしたがかなりのお金が入ってきたのは事実で、そのお金を旅費として待望のサンパウロ州への移転が話題となってきました。
思えば七年前にこの地へ入植したときは地主になったんだあ、と言う気概を持って朝星夜星で働き続けたのに………
その大きな夢は水泡に帰してしまったのです。
かってはカカオ園の造成が崩壊し次いで、ピメンタ・ド・レイノ(胡椒)の植えつけを始めてみたが、また各種の熱帯果樹も植えたが、いずれも思い通りの効果は上がらず全てが徒労に終わってしまったのです。
今はただひたすらに健康地帯であると言うサンパウロ州へ行きたいと言う希望があるのみだったのです。
サンパウロ州まではベレンの港からリオデジャネイロまで十六日間の船旅なのです。
他州への移転ですからその手続きが大変だったと兄が言っていました。
兄は手続きに奔走し、父は家にありて荷作り用の大きな箱を作り始めていました。
その頃の僕と母は体調が悪く母を伴っての病院通いが続いていました。医者は白人なので僕が通訳と言った形になるのですが、ある日のこと診察の後で医者が妙な事を言うのです。
「赤ちゃんは異常なく順調ですよ」と言っているのを聞いたのです。
でもその言葉が気にかかったのはその時だけですぐ忘れてしまいました。
ある日のこと父が僕に言ったのです。
「正!どうも移転手続きが長引くようだから、その間に少し『パウ・サント』を探して持って行きたいんだ。お前も手伝ってくれんか」と言うのです。
この『パウ・サント』と言うのは『神木』と言う意味なのですが日本では黒檀と言うそうです。
南方アジアにあるそうですがアマゾンには特に木目の美しい絶品があるのです。
父は以前から若干集めているのですが今になって、この地へは二度と戻れない事を知れば欲が出てもう少し持って行きたくなったのでしょう。
その日から父と僕の二人で森(ヤマ)歩きは必ず目印をつけながら進めといつも兄から言われていましたので山刀で細い木々や樹皮を削ったりして奥へと進んで行きます。
その日は『パウ・サント』を二本見つけたのですが普通のもので特別の木目ではありませんでした。森の中を歩き回っているうちに父が「喉が渇いたなあ」と言うので僕はすぐにシッポー・ダ・アグア(水蔦)を見つけて父を呼んだのです。この水蔦は天然の飲料水なのです。大木の根元から幹まで伸びているのですが、水を飲む場合は直径五センチ以下の物を選んで山刀で一挙に切り、更に約一メートル上方を一挙に切って下方を飲み口として水を頂くのですがこれがまったくの甘露で天然の蒸留水なのです。
かって入植当時に森の中へ狩りに入って迷子となり森の中で一夜を明かした等という人がありましたが、この水蔦のおかげで命が助かったと言っていました、が困ったのは森の中の夜は大きな蚊の襲来でいくら追い払っても体中を刺されてしまうそうです。
森の中には神秘的な恵みや美しさと共に恐ろしい事や怪奇な事も共存しているんだと言う事をジューリオさんからよく聞かされていました。
あちらこちらと場所を変えて森の奥深くまで父と二人で神木を探し歩いたのですが父が求めている木目の素晴らしい珍品は見当たらず、「まあこれなら」と言う程度の神木を二本目印をつけておいて森歩きは断念したのです。目印をつけておいたのは後日に鋸や斧を持って伐採に来るためなのです。
兄は移転手続きのために奔走し続けていました。
父は暇暇に黒檀の原木を鋸で引き割ってステッキや箸等を作っていました。黒檀の木は鉄の様に堅いので鋸の歯を作り替えるのだと言っていました。台を作って黒檀の原木を固定させて縦に引き割るのを見ていた僕に「引いてみろ」と父が鋸を渡してくれたので父の真似をして鋸を引いて見たのですが、ちょっと油断をすると曲がってしまうのです。縦直線に墨を引いてあるのですが、その線の外に出てしまうのです。
父が鋸を引いているのを見ていると、さも簡単で何の造作も無い様ですがそれはやはり多年の熟練なのだと感じ入りました。
ある日母が僕に向かって、
「正!すまないけど第二病院まで行って、このお薬をもらって来てくれないかい」と言って小さな薬瓶を渡されたのです。それはたしか肝臓の薬だったと思います。その瓶を見るとすっかり空になっているのです。母はきっと遠慮して薬を飲まずにいたのでしょう。
僕はすぐ身仕度をして病院へ向かいました。
この道は、かっては楽しく友達と連れだってブラジル語を修得に学校へ通った道なのです。あの頃は道の両側は農作物が植えてあって見事な緑の畠だったが………今はすっかり荒れ果ててしまって再生林と雑草が覆い被さっています。学校からの帰り道で雨に降られた時大きなジャブチ(山亀)を拾って担いで帰った事があった。ちょうどこの辺だったなあ、と僕は過ぎ去った日のことを思い出していました。
「あっ!いけない急がないと第二診療所は正午までなのだ」と気がついて急いだのです。お薬を頂いて急ぎ足で家へ帰りました。家に入った時、なんだかいつもと雰囲気が違うのです。喜んでお薬を受け取ってくれる母の姿が無く父が台所で何かやっているし、弟達もいないし………その時母の声がしたのです。
「正!ご苦労だったね!」その母の声がとても弱々しく聞こえたのです。僕は咄嗟に母が病気で倒れたと思ったのです。
母はやっぱり寝室に寝ていました。母と並んで赤ん坊が寝ているのを見た時、僕はあの時医者が言った言葉を思い出したのです。
「赤ちゃんは順調に育っていますよ」
そうだ!その赤ちゃんが生まれたんだと解かったのです。ぽかんと立っている僕に母が優しく語りかけてくれました。
「正!お前の妹が生まれたのよ。亡くなった幸(コウ)の生まれ変わりだと思うの………正すまないけど正雄と秀夫が川へ洗濯に行ってるのよ。行ってみてくれるかい」
母の言い終わるのも待たずに僕は川へ向かって走っていました。家から川までは下り坂なのでおもいっきり走れるのです。川では弟達が敷布を洗ったついでにそれを広げてランバリー(小魚)をすくっていました。
母が心配しているのも知らずに夢中になっているのです。
魚取りはそのうちに籾叩きに使ったテントを洗うからそのおりに皆で魚すくいをやることにして洗濯ものを全部絞り上げて家へ帰ったのです。
この生まれた妹は玲子と命名されたのです。
後で解かったのですが森(ヤマ)の中の一軒家での出産。医者も産婆もおらず、幸いに父が居ったので湯を沸かしてもらったと母が笑いながら話していましたが、赤子は自分で取り上げて臍の緒やその他全ての処理を自分で成しとげ産湯をもって清めてやったと言うのですから全く驚くばかりでした。
この時母は四十四歳で、晩年になっての出産でとても恥ずかしいと言っていましたが男子ばかりの家に女の子が生まれたのは母の心を少しなりとも慰めることが出来たのではないかと思ったりしました。
母は自分自身で出産を処理出来たことに自信を得たのでしょうか。その後はまるで産婆が本業の如くに、と言っても無報酬で遠近を問わずに助産婦としての協力を続けていました。
なお、その献身的な協力と多年の経験がいかなる難産も無事に親子共々救った事が多々ありまして、これはサンパウロ州へ移転後もますます多忙を極めましたが、母はいつも……
「これが本当の人助けだよ!」と言って喜びはすれど決して協力を惜しみませんでした。それが真夜中に起こされたり、炎天の下を歩いて行ったり、或いは雨の中を傘をさして出向いたりしましたが、いつも笑顔で
「出物はれもの時知らずだからねえ!」と言って笑っているのでした。
その頃は今のように病院に入院してお産をするなどは夢のまた夢で評判の高い産婆さんは多忙であった事が解かる様に思えます。
話が後戻りしますが、母が玲子を生むまで妹が出来ていたことを全然知らずにいた僕の鈍感ぶりには皆さんもあきれ果てた事と思いますが、これは本当の事ですから今更どうにもなりません。
アマゾンの大地主になる夢も破れ、家も畠も土地も投げ捨てて、只ひたすらに健康地帯であると言うサンパウロ州への移転だけが唯一の望みであったその時にひょっこりと生まれた玲子、日が立つにつれてとても可愛い女の子、いや、妹になってきたのです。
母が病弱でしたから玲子のおしめはいつも僕と弟達で家の裏の小川で洗濯をしました。おしめの汚物に集まってくる小魚を捕えようとして裸になって川へ飛び込んだりして、今も懐かしい思い出の一つです。
ある日の夕方洗濯ものを持って川へ下りようとしてふと川面を見た時に大きな魚が遡ってゆくのを見たのです。この川にも大きな魚がいるんだ、と思い込むようになったのです。
その日は父の黒檀を鋸で引き割るのを手伝っていたのです。僕の腕もかなり上がって父が打った墨を外れずに引くようになったのです。父が時々見に来て
「とても上手になったなあ!上等、上等!」と言って褒めて下さったのです。
僕は今がチャンスだと思って父に話したのです。
「昨日ねえ、川へ洗濯に行った時、大きな魚が川上へ向かって遡っているのを見たの………それでね、あの川幅が狭くなっているところを木の枝や葉で塞いで、そこになにか魚を生け捕りにする方法があったらと思っているんです。あの川には大きな魚がいるんですよ」と言ったのです。すると父が
「川を塞ぐのは大変だぞ!でもお前達がやってみようと言うんだったら俺が『胴』を作ってやるから、お前、森へ行って『アルマ』を十五本くらい切って来いよ」と言われたのです。
僕はもう心の中でバンザーイを叫んでいました。その『アルマ』と言うのは一口に言えば節無しの細い竹なのです。
森の中にはところどころにこのアルマが群生しているのです。土人達はこのアルマを弓の矢に使用すると聞いたことがあります。
父がそのアルマで胴を作ってやると言ったのは、僕は以前にどこかで見た事があるのです。長さ約二メートル半で入り口が直径三十センチぐらいで次第に細くなって先端は十センチぐらいでした。この中へ魚が入ると後退ができずに捕えられると言う仕組みなのです。
翌日僕は山刀を持ってアルマを採りに森へ入りました。一人で森の中へ入るのはあまり気持ちよくありませんが、一刻も早く胴を作ってもらいたい気持ちの方が強かったのです。
父が胴を作る間に僕は弟達の協力を得て川を塞ぎ止めにかかったのです。川幅の狭い所を利用して杭を打ち込み、木の枝や木の葉で塞ぐのですが、皆丸裸になっての大奮闘でした。
その塞ぎ止めた所へ胴を差し込んでおくのです。魚はたいてい夜入るので朝早く胴を上げて見るのが楽しみになりました。
僕は毎朝、川まで行って胴を上げて見るのですが、どうしたのか小魚だけです。何も入っていない時が多いのです。
ある日の夕方、大雨が降ったのです。僕はあの塞ぎ止めた木の枝や胴まで流されはせぬか心配でした。翌朝はいつもより早く川へ向かいました。川の水が増えているので胴を上げる事ができないのです。仕方ないので丸裸になって水に潜り込んで、やっと胴を引っ張り上げたのです。今度は丘へ引き上げるのに、どうも重いのです。木の葉がいっぱい入っていて中が見えないのですが泥が入って重くなったのかと思ったり………。
そのうちに胴の中の水が滴り落ちて胴の先端の中が見えてきたのです。僕ははっ、と恐ろしくなりました。また蛇だと思ったのです。たしかに蛇の様なものが入っているのです。
そこで脱いでいた着物を身に付けてから胴の入り口を持って引き摺りながら土手を登ったのです。
土手を登れば平らな畠ですから、ここで胴を逆さに立てて中の物体がもし蛇であったら叩き殺してやるべく棍棒を探したりしていよいよ胴を逆さまに立てたのです。
「ばたばた」と音がして蛇が地面に落ちたのですが、よく見るとなんと蛇ではなく大きな魚ではありませんか。僕は勝手に蛇だとばかり思って恐れていた自分がおかしくなったけど、それよりも今目の前にいる大魚を捕えた喜びがなんとも言えない嬉しさでいっぱいでした。
その魚はトライーラ・アスーと言う大きな魚で長さ六十センチ、腹の幅広いところは十六センチでした。
この魚は歯が鋭いので手をかまれると大変ですから再び胴の中へ押し込んで担いで行ったのです。
この魚が後にも先にも僕の生涯で只一度の大漁でした。
弟達と皆で丸裸で川に入って洗濯したり遊んだりしたあの川の思い出は今も懐かしく甦ってきます。
兄が奔走していたサンパウロ州への手続きが、後はベレン市へ出てそこで決着をつけることになったと言うので急遽出立の荷造りが始まりました。
家も耕地も農具もそのままで居抜きのままの移転で本当に残念ですが、崩壊した植民地では売れるもの等は全くありません。
それに他州までの十六日間の船旅ですから荷物も最低の制限を要することになります。慌ただしく荷造りの数日が過ぎ去りました。
「明日は早朝に起きて、皆で墓参りに行こう。この地へは二度と戻る事はないと思う。三人の子供たちの墓を無縁仏にするのは忍びないが、なんとも致し方無しだ。皆で墓参りをして三人の霊に俺達と一緒について行くように祈ってこよう…」と父が言いました。
父は墓地に立てると言って塔婆と言う物を作りました。風雨に絶えていつまでも残る様にと堅い木で作り上げたのです。
母はアマゾン開拓の犠牲となった三人の子供と最後の別れですよと言いながら墓に供えるケーキを作っていました。
墓参りは早朝に家を出たのですが墓地に着いて礼拝する時は炎天となりました。照りつける太陽の下でろうそくを灯し線香や菓子や花を捧げて三柱の冥福を祈りました。母はまるで生きている我が子に語りかけるように涙を流しっぱなしで話していました。
「今日ここに来たのはなあ、別れに来たのではないのだよ。お前達を一緒に連れて行くために来たんだよ。でもなあ、どうしてもアマゾン開拓の守り神になると言うのならそれもよいお前達の自由じゃ………どうしてこんなに涙が出るのか解からん。汗も混じっとるからなあ………」
母は涙を拭いもせずに炎天の下に長い間、身動きもせず合掌を続けていました。
一九三八年の十月
トメアスーの桟橋からベレン市へ向かう週一回の『アントニーナ号』に僕達の家族と他に五家族が、やはりサンパウロ州へ行く人達が乗り込みました。
林さん、森田さん、佐藤さん達です。
真赤な太陽が森の中へ沈もうとしていたときに船が汽笛を鳴らして桟橋を離れ始めました。
もう後へは戻れないんだ………居抜きのままに残してきたあの家………とそんな事を思っていた僕の目の前に川岸の熱帯雨林の繁茂した濃緑の黒い影が「ざあ!」と被いかかってきた。船は曲がりくねったアカラ川を下っているのです。
その熱帯雨林の向こうから兄が、姉が、弟が別れを惜しんで微かに手を振りながら淋しく微笑んでいる様な………そんな思いが僕の脳裏をかすめたのです。僕は思わず合掌をしていました。
なにもかも諦めて、只ひたすらに健康地帯へと向かう移転の船出なのに………流れ落ちる涙を止めることができませんでした。
船の中での一夜が明けて、船上に朝の光りがさしてきました。明るくなるに従って、皆が甲板に出てきて話し合っています。
「もうすぐベレンの港が見えてくるよ」と言う声が聞こえてきました。
今船が走っているのはアマゾン川の河口なのですが、まるで海と同じです。甲板の真中でがやがやと話し合っている人だかりの中に二人の白人女性が僕の目に止まったのです。その一人は若い美女、もう一人は中年のご婦人ですが、どことなく品のある優雅な女性です。黒い帽子を召されていました。
僕は一人で考えていました。あの二人のご婦人、どこかで見たことがある様な気がするのです。でも一方ではこんな貴婦人を僕が知っているはずが無いと自分で否定しているのです。
僕はその二人のご婦人が気がかりで観察を続けていました。と、突然の人だかりの中から大爆笑が起こって人垣が崩れたのです。
そして帽子を被っている婦人が何か人々を制する様な力のこもった声で話しているのがよく聞こえてきたのです。
僕ははっ、と気がつきました。
あの声はサーラ先生であることにやっと気がついたのです。そしてあの若い美女は、マリア先生だったのです。
後で解かったのですが先生は臨時休暇でベレン市の自宅へ帰るのにこの船へ乗って居られたのでした。でも今、目の前に輝くばかりに着飾った妖艶なそのお姿からはどうしてもあの森(ヤマ)の学校で教鞭をとっておられた慈愛に満ちたあのサーラ先生はとても思い出す事はできませんでした。まったく驚くばかりでした。僕はその時、サーラ先生にサンパウロ州へ移転する事を告げたかったのですが、上流階級の人達が集まっている人だかりのところへ行く度胸がありませんでした。
僕が意気地無しのためにサーラ先生とはそれっきりで二度とお会いする機会がありませんでした。
あの時度胸をすえて別れの挨拶を述べていたら………サーラ先生はきっと喜んで下さったであろう………と自分で自分の恥ずかしがり屋を悔やみました。
その時の悔いは今も尚、私の胸の中に渦巻いておりますが、その悔いと共にその時の光景がいつも思い出されるのです。
朝の光りを受けて美しく輝くアマゾン川の細波を縫って行く船の甲板に立って話に興じておられたサーラ先生とマリア先生………その時のお二人の美しさは正に輝くばかりでした。
この思いでの一時がサーラ先生と最後のお別れになってしまったのです。
僕はその時サーラ先生もマリア先生も遠くの人で僕達が慕っていた様な方ではなかったのだ………と思いました。
なんだか期待を裏切られたと言う様な気持ちになったのです。
僕の心は暗くなりました。そして数日間悩みました。
「そうだ………あれはベレンの港に上陸する………そうだ先生はベレンの人だったのだ………ベレンは大都市なのだ。その大都市で生まれ育った先生が………トメアスーの森(ヤマ)の中の板張りの学校へ行って………」
そこまで考えた時に僕の先生に対する恨みは感謝の気持ちへと変わっていったのです。
トメアスー植民地の第二学校は板張りの校舎で先生の住宅も、やはり板張りの粗末なものでした。又その学校へ通学する僕達は更に貧しく、日本の着物を解いて作ったシャツやズボンをはいての登校でした。
その様な生徒に合わせようとして極めて質素な洋装で教鞭をとって下さったサーラ先生の崇高なるご誠心を僕達は知らなかったのです。
船がベレン市へ着くという時に都会人としての盛装をされたのは当然の事で、久しぶりに我が家へ帰る喜びに浸っておられた事でしょう。
都会で生活されていた先生が森の中の学校へ住み込みでそれも長期間の赴任をよく耐えられたものだ………と僕は改めて先生の不撓不屈のご精神に頭が下がる思いでした。
「ベレンの町が見えてきたよ!」と、だれかが叫びました。
皆が一斉に水平線を見回していました。町が見えているのは船が進んでいる前方で船首の方角でした。
船は一直線に港へ向かっているのが解かりました。
朝日の光りを受けて美しく輝く海上を滑る様に進んで行く船の甲板に皆が集まって来ました。ベレンの町が大きくなって見えてきました。まるで海の上に町が浮かんでいる様に見えるのです。
「あの町が龍宮城ではないか」と、そんな幻想を僕は脳裏に浮かべてみました。
ベレン市では兄の友人である沢田君達の行為で郊外の移民収容所に宿泊することになりました。
ここは七年と数ヵ月前に日本から二ヵ月がかりでたどり着いた場所だったのです。
かっては南米拓殖株式会社の移民収容所であった大殿堂が今は無人の廃家に均しく変わり果てていました。
でもこの廃家が私達には全くありがたいすくいの主だったのです。
この廃家となっていた移民収容所に宿泊して自炊生活をする傍ら、移民手続きの促進に努力していたのですが、思いがけない事件が突発してまたまた手続きが難行する結果となってしまったのです。
「詳しいことは解かりませんが、何でも南方で起こったらしいのです。そのために旅行者は『サウヴォ・コンヅット』(安全保障・通行状)を携帯の必要があると言っているのです」「俺達は旅行者ではないぞ!移民手続きなんだ!」と怒鳴る人がいました。
兄が一生懸命の努力を続けているのですがそれでも不満の人が居るのでした。
「それは解かっています。でも私達は他州への移転でしかも船の旅ですから旅行者同様の手続きが必要なのです。サウヴォ・コンヅットが必要となったのは運が悪かったと思って諦め、その手続きを急いでいるのです」
「どうせ手続きが長引くのだろうが………毎日刺身を食べていたのでは、持っているわずかの金が無くなってしまうぞ」と、また苦情が出たのです。
いくら文句を言われても兄はいつも冷静で決して怒らない人でした。
「毎日刺身ばかりで申し訳ないのですが、鶏肉や牛肉は高価でとても食べられません。そこでこのベレンでは一番安い魚を食べて頂いていますが、現在六家族全員のおかず代が十ミルヘイスです。これは大きな魚二匹の代金です。でもこれを焼魚にすると、この三倍が必要となりますので、お刺身をとった後の粗で味噌汁を作っています。お刺身を嫌う人は、この味噌汁だけでも十分な栄養補給ができると思います。これは私が考え出した一番経済的な、そして栄養価のある賄い方だと思っています。ついでに申し上げますが、今皆さんが食べているご飯は私がトメアスーより持参した三俵の白米が有りますので、それを提供しています。が、これは決して代金を頂こうなどとは思っておりませんからご安心下さい。困る時はお互い様ですから、皆で力を合わせてサンパウロ州へたどり着かねばなりません。私はそのつもりでお世話をさせて頂いておるのです」と兄が言いました。
始めはすごい剣幕で文句を言っていた人達も無言のままでこそこそと席を外して行かれました。
いろんな事がありましたが、ようやく手続きが終わり六家族全員が船に乗ってベレンの港に別れを告げる事になりました。
その船は僕達が日本から乗ってきた、あのサントス丸と同じくらいの大きな船でコステーラ海運会社のイタイペイ号と言う船でした。
サンパウロ州のサントス港まで十六日間の船旅が始まったのです。
船は二日に一度というくらいに港に入って荷物の積み降ろしをする近海航路なのです。そのためかどうか解かりませんが船がとても揺れるのです。皆が船酔いで寝込んでしまいました。又海が穏やかで船が揺れない時には皆が甲板に出て人の輪を作って話に興じたりしたのが今も懐かしく思い出されます。
船の中では妹の玲子が皆から可愛がられました。まだ誕生日前の可愛い子でしたので僕か弟が抱いて甲板に出ると皆が集まってきて奪い合うのでした。
ある日僕が妹の守りをして甲板に出たところへいつも挨拶を交わしている顔なじみの機械工、或いはエンジニアなのかも知れないその人が通りかかったのです。
体中が油だらけで真っ黒に汚れていました。僕はこの人が船のエンジンをいつも見守っているんだと思って感謝の気持ちで汚れているスボンを見ていました。するとその人が僕の視線に気づいて………
「あっ、ごめん、ごめん、油臭いよねえ、その可愛い子だれなの?」
「これ僕の妹です。お母さんは船酔いで寝ているので僕が守りをしているんです。甲板に出て来るととても喜ぶんです」
「そうか、本当に可愛い子だ。抱いてやりたいけどこの格好じゃだめだよねえ」その時、玲子が急に笑い出したのです。
「おお、笑っているよ。俺の格好がおかしいって言うのかなあ」
そんな話をしているところへ佐藤さんの娘さんがひょっこりやってきたのです。
佐藤さんもこの船員さんとは顔なじみなので簡単な挨拶を交わしていました。
この佐藤さんはとても美人なのです。僕よりずっと年上ですから立派な娘さんです。
「あっそうだ!近い内にリオデジャネイロへ入港するよ。その時に君たちを一緒に連れて行ってリオの町を案内しよう。どうかね君たちが賛成なら………だけどね」
この船員の申し出に佐藤さんは大喜びで賛成しました。
船が明日リオへ入港するという日の夕方その船員さんがわざわざ僕達のいる船室まで来て上陸の準備についてアドバイスして下さったのですが、それを聞いていたお母さんが心配になったのです。
「正!あの人大丈夫なの?知らない人に誘われるなんて、なんだかおかしいんじゃないの?」「知らない人じゃあないよ。いつも甲板で会うんだよ。立派な船員さんだよ」と、僕が答えたのですが、お母さんはまだ信じられないと言った様な顔をしていました。
いつもなら母に心配をかけてまで上陸しなかったのであろう………その僕もこの時だけは、もう夢中でした。なにしろ始めてのリオ市への上陸なのです。しかも案内してくださる船員さんと一緒なのですから最高です。
いよいよその当日となり、母が用意してくださった新しいシャツにズボンを身に付けての上陸です。船員さんも今日は新しい服装で見違える様な美青年です。佐藤さんは相手の男性と一緒でした。星野さんと言う青年です。二人は恋人同士だった様です。
僕達三人と船員さんの計四名で埠頭に並んでいる倉庫の間を通り抜けて大通りに出ました。
そこで船員さんがタクシーを止めて皆を乗り込ませました。
市内各所の名所巡りをしている内に夕刻になって町に灯が光り始めました。
山手の方から海岸の町を眺めたとき、それはもうなんとも言いようの無い素晴らしい光景でした。
「これがブラジル国の首都(のちブラジリアへ移転)リオデジャネイロなのだ!」と僕は胸中で自分に言い聞かせていました。
まるで夢のような首都の観光でした。
市内を見物した後で船員さんが別の方向へタクシーを向かわせたのです。
車が止まった所は住宅街でした。皆で車を下りて船員さんの後に続いて行きました。案内されたお家は小じんまりした立派な住居の応接間でした。
二人の金髪の婦人が出てきて挨拶を交わしました。船員さんが僕達を紹介したのですが、日本人は珍しい様で笑っていました。
金髪婦人の一人はお隣の友人と言っていましたが、どうもここは船員さんの奥さんのお家では無いように思われました。
でもたくさんのご馳走が用意されていました。ラジオから流れる音楽に合わせてダンスが始まりました。僕はかつて労働者達と仲良しになって踊っていたものですからメロデーに合わせてステップを踏むくらいは出来ました。僕はふとこれが現実なのだろうか今夢を見ているのではないだろうかと思いました。なにもかも夢の様な事ばかりですから………
その時でした。突如母の顔が僕の目の前に浮かび上がったのです。
「あっ、母が心配しているんだ!早く帰らなければならない!」と急に帰りたくなったのです。
でも皆は楽しそうに踊っているのですから帰ろうなんて言い出せなかったのです。ようやくその家に別れを告げて帰りのタクシーに乗った時は夜の十時を過ぎていました。
船員さんが一緒なので何事も無く無事に帰ったのですがさすがに母の目は厳しく光っていました。
その時母の言った一言は「悪い友達は作らない方がいいよ」と言ったのでした。
僕は、「悪い人達ではないのだがなあ………」と思って思案し続けたのですが………友達が悪いのではなくて僕達のリオ見物が夜になってしまったのが悪かったのだと思いつくと同時に出先の事をなにも考えずに有頂天になって外出した未成年の自分が悪かったのだ!外出前にはよく母と話し合えば良かったのだと、気がついたのでした。
自分の行動について常に自制心を欠かぬようにすることを教えられたのです。
しかしこの時のリオ見物は私の生涯における最初のそして最後のリオ観光となったのです。
あの親切な船員さんとも会うことがなくお名前も知らずに別れたまま………今ならばお礼のお手紙ぐらいは差し上げたであろうに………と若き日の至らぬ自分を悔やむばかりです。
リオデジャネイロはコステーラ海運会社の本店がある港ですので、私達の乗っている船も二晩の碇泊でした。
これは乗り組みの船員さん達が久しぶりに家族との出会いを考慮しての事であると、聞きました。
その翌日、いよいよ待望のサントス港への入港です。
「蔓木さんは本当に出迎えに来て下さるのでしょうね」と母が心配そうにささやいていました。
「お母さん心配はいりませんよ!蔓木さんは義理堅いひとですから約束したことは必ず実行しますよ」と、兄が母を宥めていました。
ところが船がサントス港へ入港して岸壁に接岸したのですが埠頭に群がる人々の中に蔓木さんの姿を見いだすことは出来なかったのでした。
この蔓木さんとはトメアスーにおいて家族ぐるみの交際を続けてた仲で一時期は共同事業までなし遂げたものでした。
父も母も、そして兄も心から尊敬し、信用している蔓木さんなのに………
あの時の蔓木さんからの手紙には次の様に書いてあったのでした。
「なんとか頑張って旅費をつくってサントス港まで来ることだ!サントス港へ上陸さえ出来ればもう大丈夫だ!俺が必ず出迎えに行く。こちらも決して楽ではない。苦労はあるが、健康地帯であるのがなによりの喜びである。住居仕事の心配は無用。俺を信じて来てくれ!家族全員が心から待っている」
これが蔓木さんからの手紙だったのです。
ベレンの港を出てから十八日目にようやく目的のサントス港へ着いたのです。
同行の他のご家族の人々は別れの挨拶もそこそこに出迎えの人に従って去って行きました。
僕達も家族全員が揃って上陸したのですが出迎えてくれるはずの蔓木さんが現れないので困ってしまったのです。
「もう少しここで待ってみよう。何かの都合で遅れたのかもしれん。ここはもうサンパウロ州なのだ。何も慌てる事はあるまい」と父が独り言を言っていました。
それを聞いていた兄が、
「お父さん僕はちょっとどこで荷物を受け取るのか見てきますから、お父さんはここで待っていて下さいね。すぐに戻ってきますから」と言って兄が行こうとしたところへ、「小野さんですねえ。いやあ、始めてお目にかかりますが、私はこういう者でございます」と言いながら名刺を出して父に渡しつつ話を続けるその人は中年の立派な紳士なのです。
僕も兄も母も何が起こるのかと、判断に苦しみながら、その紳士の話に耳を傾けていました。
「私は、この港町でホテルを経営しております。潮ホテルの前田と申します。実は、あの蔓木さんから、お手紙を頂きまして小野さんご一家がサントスに着いたらマリリア市まで来る様に伝えてくれと言う内容なのですが、蔓木さんはどうも仕事が忙しくて出て来れないのでマリリア市までは迎えに出るからと記してあるのですが、それはとにかくとしてその手紙が間に合ったのは神様のお恵みであると思いますよ。たった今の事なのですよ。私がその手紙を受け取って、すぐここへ駆け付けて来たのですから………いやあ……本当によかったあ………それでですねえ、まず私共のホテルでゆっくりと旅の疲れを癒されて、元気をつけてからマリリアへ行かれるのがよいと思います」
その潮ホテルのご主人と言う前田さんの話を聞いていた母が急に慌てだしました。
「あの、前田さんのご行為は本当にありがたいのですが、出来ますなら今夜の汽車ででもマリリアへ向かいたいのですが」と言う母を前田さんが優しく労るように話すのでした。
「奥さんご心配はいりません。マリリア行きの手続きは私にお任かせ下さい。ホテル代を頂こうなんて思ってはおりませんから、大船に乗ったつもりでゆっくり休んで下さい。実はですねえ、小野さんからは黒檀の碁盤を送って頂いたご恩があるのですよ。そのお礼と言っては失礼になると思いますが、まあそんな事で全てを私にお任せ下さい。いやあ、これは、とんだ立ち話が長くなってしまってお疲れのところをどうもすみません。さあ!ホテルへ行きましょう。荷物の方も私の方で受け取らせにやりますから、さあ行きましょう!」と前田さんは先にたってどんどん歩いて行くのです。僕達は皆でその後に従いました。
幼い玲子を抱いている母が遅れるので僕が母の横に並んで歩きながら玲子を抱いてやろうと思ったが母は強く拒否した。男が子守をするのを他人に見せたくない母の意地を僕は知ったのです。
母は歩きながら独り言を呟いていました。
「地獄で仏とはこのことだね………捨てる神あれば拾う神もありと言うが………前田さんが現れなかったら………どうなっていたのか………」
僕が母の顔をのぞいて見たら、涙をぼろぼろと流していました。
僕達は潮ホテルの三階の大きな特別な部屋に通されました。表通りに面した所にテラスがあって町を見下ろすことが出来るのです。こんな立派な所へ入ったのは初めての事なので、まるで夢を見ている様でした。
食事の時間になると僕達一家だけを特別の食堂に案内してくださって大変なご馳走でした。大きな器に新鮮なお刺身がどっさりもられてありました。母が泣きながら「ありがとうございます」をなんども繰り返し、合掌をし、泣き顔でお刺身を頂きながら、にっこりと笑った。その時の笑顔は今も私の脳裏に焼き付いています。
港の倉庫から荷物を受け取る折りに父が後生大事に持ってきた『パウ・サント』(神木アマゾン黒檀)の木材が商品とみられて多額の税金を支払う事になってしまい、なんとも致し方無く前田さんからお金を借りて決着をつけたのでした。
前田さんのご行為にてマリリアまで移民移住の手続きをして頂いて汽車に乗り込んだのですが、サンパウロ市内の移民収容所で身体検査を受けたおりにマラリア病の後遺症がひどく、このままでは働くことが出来ないとの事で数日間、注射や服薬の治療を受け、今後の的確な治療法の指導を受けて、ようやくマリリア行きの汽車に乗ったのです。
マリリア市へ着いた日はあいにくと雨が降りだしていましたが、町の中は多くの日本人が行き来しており、とても活気があふれていました。
一九三八年でしたからマリリア市の全盛期であったかと思われます。
僕の記憶に残っているのは管山商店、瀬木商店、沢尾ホテル等ですが名が間違っているかも知れません。もう六十年も前の事ですので………
ここで迎えに来て下さった蔓木さんとようやく出会ったのですが、アマゾンの植民地で家族ぐるみの交際をしていた当時の蔓木さんではないような、どことなく親しみが薄らいでしまった様に感じられました。
蔓木さんの話では、ここから約四十キロ、トラック(カミニョン)に荷物と共に乗って行くのだそうです。そのトラックが駅の倉庫から荷物を積んで来たので、その荷物の上に僕達全員が乗れ!出来るだけ早く出発しないと、この雨では日没までに着けなくなる!と叫ばれて急に慌ただしくトラックの荷台へよじ登りました。
二時間程走った頃に大雨が降りだしました。運転手が『エンセラード』というズックの布地の様な重いのを被せてくれたのですが中は真っ暗闇になるので前方の端をまくって光りを入れる様にしました。
雨は衰えることなく降り続くのでトラックはゆっくりと進まねばなりません。
ようやく雨は小降りになりましたが、もう日はとっぷりと暮れていました。
運転手が、「ここが植民地の入り口ですよ」と知らせてくれたその時急に大雨となりました。上がり坂でトラックは動かなくなってしまいました。
運転手が「とにかく雨が小降りになるのを待ちましょう」と言うのです。平気な顔をしているのですから。こんなことにはきっと慣れているのでしょう。
トラックの荷台の上でズックを被って雨の音を聞いている内に僕は急に空腹をおぼえてたまらなくなって来たのです。でも皆もきっと空腹を我慢しているんだと思って黙って耐えていました。
ようやく雨が小降りになりました。
運転手が荷台の下から太い麻縄を取り出してトラックの前部の下に潜って縛り付けました。そしてその長い麻縄を僕達に引っ張ってくれと言うのです。
トラックの後方を押すのがよいそうですが車輪が空転しておびただしい泥を跳ね上げるので寄りつけないのです。
トラックのヘッドライトを頼りに皆が力のありったけを出して大奮闘です。
運転手の掛け声に合わせて、皆が渾身の力を出してロープを肩にかけて引くのです。運転手もアクセルを踏み込んでの共同作業です。モーターの音が周囲の木立ちに響き渡ります。皆が泥だらけになっての悪戦苦闘です。
やっとの事で蔓木さんの家へ辿り着いた時は夜の九時を過ぎていました。
驚いた事には蔓木さんの家は、あまりにも小さいのです。僕らの荷物を入れるところなどありませんので家の裏の空き地に荷物を積み重ねました。幸いにして雨は止んだ様です。
僕がどうもおかしいな………と思ったのは蔓木さんの家族の姿がないのです。僕達が今日ここへ着くのを知っているのに、どうしたのだろうかと判断に困っていました。
荷物を下ろし終わってトラックは帰って行きました。空を仰ぎ見ると真っ暗で星一つ見えません。今にもまた降りだしそうな夜空です。
蔓木さんがランプに灯をともして持ってきました。そして荷物を積み上げてテントで被うと言うのです。でも僕達の寝るところは、どこか別のところに小屋があるのかと思っていたのです………とそこへがたがたと音を立てて暗がりの中を大勢の人がやって来たのです。
近づくによってそれが蔓木さんの奥さんと子供たちであると解かって驚きました。
久しぶりの挨拶もそこそこで、これから夕食の支度をすると言うのでまたまた驚きでした。
僕が不思議に思ったのは、これまで仕事をしていたと言うのだが、暗がりの中で畠の仕事が出来るのだろうかと思ったのです。
あれから何年ぶりか久しぶりの対面なのに期待していた感動の嬉しさはわいて来ないのです。
僕達の歓迎の晩餐を夢見ていた僕の期待は空しく消えてしまった。
空腹が極限に達していたので世界一の夕食を頂いた訳ですが、夜の十時を過ぎていました。
さて、どこへ寝るのだろうかと心配になって来ましたが、そんな心配はとりこし苦労だったのです。
蔓木さんがこの土間へ皆で固まって寝てくれ。とかく今は非常時なんだから、そのつもりで我慢とか、忍耐とか、くどくどと説教めいた事を言っていました。
僕はもうがっかりしてしまった。
父も母も兄も無言です。どうしたらよいのか解からなかったのでしょう。
荷物を枕がわりにしてかり寝の一夜を明かしました。目が覚めると大雨が降っていました。父母も兄もいないのです。弟や妹はぐっすり寝ています。きっと昨日のトラックの旅で疲れたのでしょう。
父母と兄がずぶ濡れになって入って来ました。外に積み重ねてある荷物にありったけの板きれや布地等を被せてきたと言うのです。母がぽつりと独り言を言っていました。
「これじゃあまるで泣きっ面に蜂だねえ」と苦笑いしていましたが、父と兄は無言で耐えていました。
僕は一人でどうしてこんな目にあわなきゃならないんだろう………と思ってやるせない気持ちが募るばかりでした。
驚いた事には、蔓木さん一家は誰も見当たりません。母の話では夜の明けるのを待つようにして畠へ行かれたとの事です。
この雨の中でも休まずに仕事をされるのかと驚くばかりでした。
翌日の夜蔓木さんから棉畠の除草の手伝いをしてくれとの要請がありました。その時父が「正は手伝わせてもよいが、伍助と自分は、この家を増築して台所と寝室を作る。このままでは人間の生活とは言えないからねえ」と言ったのです。
僕はその父の言った事は本当に素晴らしい事だと思いました。
翌日から僕は棉畠の除草に………そして父と兄は家の増築を始めました。
除草では僕はひけをとりません。一生懸命に働きました。蔓木さんの畠は手遅れの状態で棉より草の方が高く茂っていました。
炎天の下で汗だくになってエンシャーダ(鍬)を引くのは平気でしたが僕の大好きなカフェーを飲まして頂けなかったのは本当に辛かった。
食事も弁当は冷や飯にフェイジョン(豆)の冷たいのをかけて塩魚だけでした。
父と兄の努力によって増築の家が完成しました。蔓木さんの家よりも大きくて立派なものでした。野晒しになっていた荷物を家の中に入れました。ようやく親子水入らずで楽しい食事を囲むことが出来たのです。
でも蔓木さんとは壁一重の生活でした。
家が出来たので兄も除草の手伝いをする様になりましたが、ある日思わぬ事で腕に大怪我をしてしまったのです。
その頃はよほどの事でない限り医者に行くなどは考えもしなかったので蔓木夫人が持っていた薬を塗布して布切れで縛ったのですが、翌日になって兄が「痛みがひどくて昨夜は一睡も出来なかった。ひどくなるばかりだ」と言うのです。
母が心配して巻いていた布切れを取りさったところが「あっ!」と大きな声を上げたのです。
傷に付けた薬のために大きな火傷となって傷口は真っ赤に腫れ上がっているのです。
「これじゃあ痛かったよねえ、よくも黙って我慢していたことだよ。これは傷が痛むんじゃなくて火傷が痛いんだよ。早く冷やさねば」と言って水で冷やしたタオルを局部に当ててやりました。
「どうだい?気持ちがいいだろう!」と母は自分が気持ちよさそうな顔をしていました。
「ああ、痛みがすうっと消えたよ」と兄が喜んでいました。しかしこの火傷のために兄は約一ヵ月働くことが出来ませんでした。
様々な事があって、その年の暮れが近づいたある日、蔓木さんから父に対して相談があったのです。
その相談と言うのは、お互いに資金が欠乏してしまって年の瀬を越すのが大変だ………そこで小野さんが持っている黒檀でステッキを作って頂いて俺がマリリア市へ持っていって売り裁くそしてお互いによい正月を迎えたらと考えたのですが………どうですか?」と。
その話を聞いて父はしばらく考えていた様ですが正月らしい正月が出来ることは喜ばしい。手元に少しでも貯えが必要の事であるとして蔓木さんの提案を快諾し、直ちにステッキを作り始めたのです。
細工場も無くて、狭い台所での仕事でしたが、出来上がったステッキは本当に立派なもので黒檀特有の光沢に輝いていました。
「蔓木さんが帰って来た様だったが?」
「先程帰ってきたけど何だか慌ただしく畠へ出て行きましたよ」
「何だもう日暮れだと言うのに畠に行くこともあるまいに。おかしな奴だなあ」
「蔓木さんにお買い物でも頼んだのですか?」
「ああ、立派に年越しが出来るような物を買ってこいって言ったよ」
「おかしいねえ、蔓木さんが帰ってきて家へ入るところを見たんだけれど持っていたのは小さな包みだけでしたよ」
その夜、夕食の後で蔓木さんと父が話し合っていました。
「町中の商店やホテル等を隈なく歩き回って見たんですが、誰も買ってくれないんですよ。往復のバス代や昼食代や、費用がかかりましたし、でもお頭付きの魚だけはもとめて来ました。塩ものですけど」
と言いながら蔓木さんが小さな紙包みを出してテーブルの上に置いたのです。父がその紙包みを無造作に破ると小さな干物の小魚が塩と共にメーザの上にばらばらと散らばったのです。
「これはマンジューバ(小さな魚で塩干しにしたもの)ではないか!」
「でも頭が付いているんですから立派なお頭付きですよ。ものは考えようですからね。私達は今非常時なのですから。全てをきりつめて」
そこまでは黙って聞いていた父が急に鋭い語気で問いつめたのです。
「ステッキ五本と、このメダカの塩づけが交換と言う訳か!」
「いや、そう言うことではありませんよ。一週間後に又マリリアへ行って決着をつけてきますから」
「いや、もういい………お蔭さまで俺は生まれてこの方初めてメダカの塩干しで正月を迎えることになった。俺が黙ってステッキを作って持たせてやったのは、せめて年越しだけは人並みのものを食べさせてやりたかったからだ………」
「いや私だって責任を感じていますから、どうにかしたくて」
その時父の鉄拳が蔓木さんの横顔に炸裂したのです。
「なにをするんだ!」と蔓木さんが大声で叫びました。
「なにをされるかどうしてこうなったかは、自分がよく知っているはずだ!今責任をかんじていると言ったが責任を果たしているとでも言うつもりか?『サントスまでこい。俺が必ず出迎える』と言っておきながら………約束を守れない様な人間は、やっぱりだめなんだ………だまされた俺が馬鹿だったが、俺達をうまく利用しようとは大変な策略だ!もう、これ以上お前との交際は断絶だ!」
父はこれまでに我慢し続けてきた鬱憤が一度に破裂した様な表情でした。
この事件は地主の上田さんが仲介の労をとって下さいましたが、蔓木さんへの奉仕を辞めて、上田さんの借地農として自立することになったのです。
この事は正に「雨降って地固まる」の諺がそのままの好転であったと思います。
この様にして無一物からの百姓が始まったのです。
一年後に父はお金を工面してサントスまで借金の返済に行って来ましたが、あの当時の事を思い出す度に、ブラジル語は皆目通じない父が一人で旅をしたのですから本当に驚くばかりです。
又、蔓木さんが出迎えずに潮ホテルのご主人前田さんに助けて頂いたのも、実はかって蔓木さんが、やはりサントス上陸の折りに前田さんに大変お世話になったので前田さんがご希望の黒檀の碁盤を作って送れ!との蔓木さんからの要請を受けて父がトメアスーからサントスの潮ホテルへ送ったのでした。
本当に今になって考えてみますと「情けは他人のためならず」だったのですねえ。
その後の僕達一家はサンパウロ州を転々として棉作りをしました。
借地農や、歩合作等で、肥沃な土地、そして条件の有利な土地を求めて転々と移転して歩いたものでしたが「働けど、働けど………」の連続でした。
ようやく土地を求めて地主になったのでしたが、その土地はまったくの痩地で五年後には捨てることになったのでした。
サンパウロ市の郊外にて大規模な野菜作りをしたこともありましたが、安価と経費高で中止せねばなりませんでした。
馬車で農作物や木材の運搬、畠を耕す馬耕の仕事など、只々働き続けるのが生き甲斐のような青春期でした。
娯楽と言うものは全く皆無で、たまに友人宅を訪問して話し合うのが唯一の楽しみでした。
サンパウロ州からパラナ州へと移転したのを期に農業を諦めてドイツ系の商社に店員として商業の道を辿って、のちに自営の雑貨店を現在居住のコルネーリオ市で開店しておる次第です。
申し遅れましたが、かって貧乏の最中に結婚した妻は重ね重ねの苦労を共にしてよくも耐え忍んでくれたものと感謝あるのみです。
私の大好きな村田英雄さんの歌である『夫婦春秋』を私なりに歌詞を一部代えて一人でこっそりと過ぎ去りし昔の日々を思いながら涙しつつ口ずさむこの頃です。
原稿用紙が二百五十枚を越すようになりますので私の愚言はこの辺で終わりとしますが、今、又いろんな事柄が思い出されましてあれも記すべきであったあ!これも書けばよかったと、なんだかまだまだ大切な事を置き去りにして突っ走ってしまった様に思われてなりません。
ついてこいとは言わぬのに
黙って後からついて来た
俺が二十歳でお前も同じ
着た切り雀で手鍋には
明日の飯さえなかったなあ お前……
愚痴も涙もこぼさずに
貧乏おはこと笑ってた
そんな強気のお前が一度
ちょっぴり俺らに陽がさした
あの日、涙をこぼしたなあ お前……
泥壁のサッペー小屋振り出しで
子供を背負って野良仕事
それが夫婦と軽くは言うが
俺とお前で苦労した
夢は大事に咲かそうな お前……
原稿のしめくくりをしている時に妻がぽつりと言った。
「苦労して大成功したのならそれは素晴らしい本でしょうけど………今もって貧乏暮らしの私たちの事を書いたって誰かが読んで下さるかしら」
正に名言!一本あり!である。
そこで私は考えたのです。もし父母兄姉が生きていたらどのような評を下さるかと。
父は「本当のことだ!仕方がないさ!」と言うでしょう。
母は、「長い愚痴話だねえ。本当に苦労したものさ!今の人達は倖せですよ」と言うでしょう。
兄は「よく頭の中へ入れていたもんだなあ」と言うでしょう。
姉は、「正!よく書いたねえありがとう!」と言うでしょう。
その様に思って気を紛らせています。
◇ ◇
ここで特筆せねばならないのは、この本を作るのに全面的にご協力を頂いた沢木茂さん御一家のご協力に対して感謝申し上げねばなりません。
沢木さんはサンパウロ州のパカエンブー市にお住まいの方ですが、不思議なご縁で私を友として文通して下さった方です。
二百五十枚を突破してしまった原稿用紙、「一枚四百字」をワープロでタイプして下さったのです。又沢木さんのお嬢さんは、この本をブラジル語(ポルトガル語)に翻訳して下さったのです。
沢木さんの奥様はこの仕事が捗る様にと気を配ってのご協力正に一家を挙げての大奮闘をして下さったのです。
沢木さんなしでは、この本は出来なかったのです。心からご苦労さまでした。ありがとうございましたを申し上げます。
文中に出てくる金田さんと蔓木さん。このお二方は仮名で本名でないことをご了承下さるようお願い致します。その他は凡て本名でございます。
(おわり)