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コチア青年移住 半世紀の時刻む=多くは還暦、古稀迎え=なお青雲の志胸に

1月1日(土)

 壮大な野心と希望に満ち溢れた男たちだった。一九五五年九月十五日、約四十日間の船旅を終えた百九人の若者がサントス港に降り立ってから今年で半世紀の節目――。その背景や形態から日系移民史でも特筆されるべき存在である「コチア青年」が九月に五十周年記念式典を開く。「ジャポン・ノーヴォ」「新来移民」などと当初は冷ややかな目で見られることが多かった彼らだが、ブラジルの大地に骨を埋めるとの一大決心を元に、農業や開拓に明け暮れた。戦前移民の農業後継者として大きな役割を果たしたコチア青年。セラード開発へ先鞭を付けた事実や花卉栽培の成功などその功績は大きい。総勢で二千五百八人と言われるコチア青年がブラジルに刻み込んだ半世紀を振り返る。

■時代の落とし子、コチア青年移住
 第二次大戦で大きな被害を被り、復興期にあった日本は農村部を中心に農家の二、三男問題が深刻な陰を落としていた。一方、五〇年代に入り、サンパウロ州を中心に、農業の後継者不足に頭を悩まし始めていた日系コロニア。双方の悩みを一石二鳥に解決しようと始まったのが、コチア青年移住である。
 後続移民の存在は、当時農業を中心とした日系コロニアの発展に欠かせない、とコチア産祖の下元健吉専務は五二年、計画的な移住を計画。
 五五年一月に、コチア産祖がブラジル政府との間で締結した「日本国籍を有する千五百名の移民をブラジル国内に導入するための約定書」に基づくのがコチア青年である。
 いずれ故郷(日本)に錦を、と考えていた戦前移民と異なり、十八歳から二十五歳までの独身男性を対象にブラジルに骨を埋めようとするコチア青年は日系移民史でも極めて特異な位置づけ。そして農業移民が主流だった当時の日系社会にとって、彼らの存在は必要不可欠だった。
 「日系農業界にとっての輸血である」と同移住制度の重要性を訴えた下元専務は五五年三月初旬、パウリスタ新聞記者の取材に対し、コチア青年ならではの特徴について答えている。「単独青年を選んだのは、引き受け側の負担も少なく、さらに青年らがブラジル農業を覚えた頃は独立が可能だ」。
 大きな希望と少しばかりの不安を抱いて最初にサントス港に下船した百九人の中の一人だった黒木慧さん(一次一回、宮崎県)さんは、コチア青年がブラジルに第一歩を記した日のことを鮮明に覚えている。
 「試験場(モイーニョ・ヴェーリョ)に風邪気味の下元さんがネズミ色のオーバーをまとってやって来て、二つの話を聞かせてくれました」
 遠くを見つめながら、呟くように語る黒木さんは下元が若者らに語った訓話を振り返る。
 「自らが積んだ経験がいつも通用する訳ではない」「机上の理論は実際には役立たない」と二つの話を通じてコチア青年に説いた下元――。黒木さんは「日本での学問経験だけではダメだと言う事を訓辞で送ってくれたのでは」と言う。
 戦前移民と異なり、一定の学歴や農業などの専門知識を備えていたこともコチア青年の特色の一つだった。やがて、彼らの中からそうした専門性を生かして成功していく人が出る。

■大いなる野心と挫折
 日系移民発祥の地とも言える神戸港。芥川賞作家、石川達三の小説「蒼茫」の舞台としても登場する旧国立神戸移民収容所(現神戸移住センター)は、約二十五万人の移民が祖国での最後の日々を過ごした思い出の場所でもある。
 二〇〇二年に同センター内で偶然、発見されたあるコチア青年による落書きに二千五百八人の思いが代弁されている。
 「別離の言」と題された落書きの主は第十期コチア青年(一次十期の五七年か二次十期の六一年かは不明)。
 「俺は故郷を思う 俺たち皆は成功を夢見ている これが俺たちの願望である(一部省略)」
 見果てぬ大地への強烈な思い入れが伝わってくる。
 現在バイーア州で牧場を経営する徳重富夫さん(一次六回、鹿児島)は農家の八人兄弟の末っ子で、コチア青年移住に自らの人生を託した一人。「本当に貧乏な時代で、日本ではどうしようもなかった。まだ後進国のブラジルならば何とか頑張れば成功できるはず」と夢を膨らませたと当時を振り返る。
 サントス港に到着した青年らは、まずサンパウロ市郊外のモイーニョ・ヴェーリョ試験場の寄宿舎に入り十日間にわたり、ブラジル農業についての基礎知識などを伝授され、その後、コチア産組の指定する組合員の農場に配耕。
 募集要項の第五項目には「義務」と重々しい二文字が並び、こう続く。
 ――組合員である雇主の命ずる労働に最低四カ年就働しなければならない―― 条件こそ「家族的待遇」との名目だったが、実際にはごく安い給料制に等しく、その条件は極めて悪かった。受け入れが始まった五五年当時のサンパウロ州の最低賃金は二千三百クルゼイロ。コチア青年は諸経費を差し引かれた後、約八百クルゼイロを手にしたに過ぎず、原則的に四年間の就労義務を果たして、パトロンから独立していくことになる。 
 ただ、道のりは決して楽ではなかった。
 初期のあるコチア青年は苦々しげにこう語る。
 「パトロンはワシらのことをカマラーダ以下と考えていやがった。いつか成功して見返してやるとの反骨精神が身に付いたが唯一の収穫だった」
 今でこそ成功を収め、余裕を持って当時を振り返ることが出来る人も増えたが、当時はパトロンに対して不満を抱えるコチア青年は多かった。当時約半数が、四年間を待たずして、パトロンを替えているというデータからも、過酷な労働条件が伺える。
 五七年に下元がまとめた「第一次青年移住に関する報告」は、青年らの働きぶりを客観的に分析している。
 優秀が三〇%、良好五〇%と約八割が「合格点」を得ているが、問題も多かった。
 残る二割に含まれた陰の部分を自分の目で見たコチア青年最年長格はキッパリ言う。「順調に成長するかどうかはパトロンによって千差万別でしたよ。悪いパトロンにつけば苦労は多かったはず」。
 九人兄弟の三男坊に生まれた徳留清さん(一次六回、鹿児島)である。
 当時、バタタの一大生産地として知られたイビウーナに入植し、パトロンの農場でバタタ栽培に明け暮れた。独立して二年経ったある日、徳留さんは農作業中にアキレス腱を切断する不運に見舞われ、ブラジルでの農業は六年で断念せざるを得なくなる。
 しかし、当時同市にあったコチア産組に勤務できたため、生活には困窮することがなかった。
 コチア青年が最も多く配耕されたイビウーナ市だけに、記録に残るだけでも五八年から六七年までに三人が自殺。徳留さんらが中心となり、葬式を出したこともあるという。
 また、五七年には当時のコロニアを震撼させ、コチア青年の受け入れ拒否の声まで上がるきっかけとなったパトロン殺害事件や六三年のガウヴォン・ブエノ街での乱闘事件などで、すっかり「新来」などという有り難くない呼び名も頂戴することになる。
 ただ、「ゼロから立ち上がるのが強み」「自分の意志でブラジルに賭けた」と多くのコチア青年が口にするように、こうした「逆風」を自らの手ではね除けた事実は特筆に値する。
 現コチア青年連絡協議会会長の高橋一水さん(一次六回、高知)は「確かに学歴が災いして、すぐに他の仕事に目移りしたりするものもいたが、僕らには恵まれていた二世にはないガッツがあった。自分で頑張るしか仕方なかったので、まず独立を目指し独立後もメキメキ働いて信用を勝ち取った」と力を込める。

■確かな足跡残す
 コチア青年がブラジルに残した物――。その半世紀を振り返るとき、誰しもがまず最初に口にするのが、花卉栽培における功績だ。
 五〇年代以降、サンパウロ市近郊の農業は人口流入に伴う地下や人件費の高騰が足かせとなり、ジャガイモやトマト栽培は過去の遺物となりかけていた。
 そんな近郊農業に花卉栽培という「新たな命」を吹き込んだのがコチア青年である。
 「花を売り物にするという概念がなかった日系コロニアを我々が変えた」
 アチバイア市で四十二年間に渡って花卉栽培に従事し、コチア青年連絡協議会初代会長も務めた山口節男さん(一次二回、長野)は、誇らしげに胸を張る。
 高校卒業後、日本でも有数の花卉栽培地域として知られた長野県坂城町の農協の技術者として働いていた当時から花の生産、販売に携わった山口さん。コチア青年には専門知識を身につけていた人も多く、後に農業界に技術革新をもたらしていくことになる。
 五五年の入植直後こそ「組合員に花をしている人がいないから」との理由でエンブーの農場に入ったが、五七年からはアチバイアのパトロンの所でカーネーションの栽培に従事。
 独立した二年後からはアチバイアの七・五ヘクタールの土地でカーネーションやバラを植えてきた。
 当初は収穫したバラを手に抱え当時、花の卸売市場だったサンパウロ市パカエンブー区の青空市場までバスで向かったという。山口さんに師事し、花卉栽培を学んだいわゆる「山口学校」の卒業生らも次々に現地で花作りをし、アチバイアは「花どころ」として活気を帯びていく。
 花卉だけでなく、果樹栽培もコチア青年の得意分野の一つだ。
 コロニア・ピニャールはブドウの里として知られるが、ここは別名「福井村」と呼ばれることからも分かるように、六三年に福井県が後の海外移住事業団と土地の選択、購入をし、南伯産組が営農指導したことで始まった。
 「自分の手でゼロから町を築く喜びがあった」。山下治さん(二次一回、福井)は故郷の父から、福井村の造成を知らされ、現地では第一号として入植。以来、ブドウ栽培と町づくりの二足の草鞋を履きこなしてきた。
 昨年四十周年を迎えた同地では、市長が日系人の貢献ぶりを高く評価したというが、まさしくコチア青年が無から生み出した町だ。

■ブラジル全土が舞台
 現在、大豆生産で世界の四分の一を占めるセラード。かつて「陸の孤島」に過ぎなかった大地の開発に先鞭を付けたのも、忘れてはならないコチア青年の功績だ。
 セラード開発を日伯両国の共同事業として実施することを決めた七四年の田中角栄首相とガイゼル大統領の会談から三年後。コチア青年の大半が憧れたであろうファゼンデイロへの夢に挑戦しようと、青年の有志がミナス・ジェライス州パラカトゥーに五千五百ヘクタールの土地を取得。ムンド・ノーヴォ農場を発足させる。発起人の一人だった山田充伸さん(一次十四回、岐阜)は、ヴァルゼン・グランデで花卉栽培を軌道に乗せていたが、来伯当時の夢だった大牧場所有の夢を忘れられず、セラードに挑むことにした。
 結局ブラジルが迎えた「失われた十年」に伴うインフレ政策に翻弄され、山田さんらは農場を手放して借金を清算。「ムンド・ノーヴォ(新世界)」の夢は実現しなかったが、後悔はしていないという。
 「セラードの今の姿があるのは僕らが入ったからだと誇りに思っています」と山田さんは言う。
 飽くなき開拓魂を持つ彼らはセラードに留まらず、ブラジル各地に点在する。
 「金のなる木はココにあり」。椰子(ココ)を巧みにもじった当時の邦字紙広告を見たわけではないが、徳重さんは来伯後四年目に、日系人がほとんどいなかったバイア州テイシェイラ・デ・フレイタスで椰子栽培に取り組んだ。
 「戦時中南洋に従軍した兄が『椰子を植えている原住民は食いっぱぐれがない』と教えてくれたんです」
 単純な動機だったが、言葉も通じず食材にも苦労しながら、徳重さんは椰子栽培に専念。やがて牧畜を始め、現在では千ヘクタールの牧場で一日に千二百リットルの牛乳を大手乳飲料会社に納入しているという。 「日本ではダメだったでしょう。本当にブラジルに感謝しています」と農家の八人兄弟の末っ子は笑う。

■幅広い分野での活躍
 神父(貝塚博身さん、一次十五回、茨城)や五輪柔道のブラジル代表監督(小野寺郁夫さん、故人、二次一回、宮城県)――。農業以外の分野にも人材を輩出しているのも、コチア青年ならではの特徴だ。
 戦前移民はしばしば「コチア青年はこらえ性がない」などと罵ったと言うが、やはり戦後の個人主義を身につけている世代だけに、よく言えば「頭の切り替えが早かった」とも言える。
 今年コチア青年として初めて旭日双光章を受勲した今井真治さん(70、一次十二回、埼玉)もその一人で、現在は弁護士と公証翻訳人として農業から一転、法曹界に転身した。
 中央大学卒業後の五八年にブラジルに渡った今井さんはカンピーナスに配耕された後、二年目にコチア産組の組合員として独立。数年は農業に明け暮れるが「外国人がこの国で弁護士になるのは一つの挑戦だ」とコチア青年ならではの「開拓魂」を発揮し、七二年にゴイアス連邦大学へ入学。七八年に弁護士となり、ブラジリアの日本大使館で顧問弁護士も務めた。

■半世紀の節目と未来
 名は体を表す――。「青年」と自らを呼ぶだけに、平均年齢七十歳に近づきつつある今でも、コチア青年の意気は盛んで衰えを見せない。裸一貫で単身来伯し、大地を切り開いただけにそのバイタリティーは自他共に認めるところだ。「希望も何もない時代にブラジルに渡り、頑張った。間違いなく我々がコロニアを活性化させた」とジャガイモ栽培に魅了された神取忠さん(一次十一回、北海道)は断言する。
 八年間畑で汗を流したにも関わらず、農薬中毒のため農業を断念。その後農芸関係の店を営んだ瀬尾正弘さん(一次五回、徳島)も神取さんの言葉に継ぎ足すように「コチア産組の後継者問題というコロニアの問題だけでなく、セラード開発でも貢献は多かった。コチア青年の意義は大きい」と言う。
 戦後移民史に残るコチア青年の足跡――。今年九月に半世紀の節目を迎えた後、コチア青年はどこへ向かうのだろうか。
 ブラジル日本都道府県人会連合会会長の中沢宏一さん(二次二十一回)は、「コチア青年ももっと積極的に社会参画するべきだ」と指摘する。
 三年後には、日系社会全体で取り組むべき移民百周年が待っている。「開拓魂」を忘れない青年には本来、もってこいの舞台のはずだ。ただ、現状では中沢さん県連会長として同協会副理事長で目立った動きを見せる以外、コチア青年の姿は要職では目に付かない。
 瀬尾さんも言う。
 「今の祭典協会は学歴エリートが中心。汗を流して鍛えてきたコチア青年とはそりが合わないのかも」
 しかし、一部には百周年に参画したいという動きもある。五十周年の記念事業としてサンロッケ市に植林する広さ五ヘクタールに及ぶ「コチア青年の森」だ。
 造成委員長を務める黒木さんは「日本とブラジルの双方に対し貢献した我々がブラジルに生きた証にしたい。そしてこの五十周年をお祭りのように盛り上げることで、百周年につながる動きになれば」
 コチア青年はまだまだ「青年」の心意気を忘れてはいない。

■付記

 何のためらいもなく、自らを「青年」と呼ぶコチア青年――。平均年齢が七十歳に近づく今でも彼らの多くは、精神的に若さを保っていると実感した。
 「単身」「永住志向」と戦前移民とは異なるキーワードを持つコチア青年は、来伯当時の「新来」のイメージと総数で見れば二千五百八人という規模からコロニアでやや過小評価されているきらいがある。
 農業移民としての原点を持つ日系コロニアで、二世の農業離れという空白域を埋めたのは紛れもなくコチア青年であるという事実は忘れてはいけない。
 「コチア産組がなくなっていなければ、もっとコロニアで重要な地位にいたはず」。現在のコロニアで中心的立場から程遠い現状を浩分析する。
 青年の誰もが「ゼロからモノを生み出せる強み」「額に汗することを厭わない」と口にする。
 今の百周年祭典協会に一番欠けている部分を埋められる存在だと彼らの今後に期待したい。