1月12日(水)
「仲間がこうやって元気に顔を合わすのは嬉しいことだね」。八日正午からビアジャンテ倶楽部の新年会がリベルダーデ区の万里レストランで行われ、十六人が参加し旧交を温めた。
橋浦行雄世話役代表により、亡くなった諸先輩らの冥福を祈って一分間の黙祷が捧げられ、南マット・グロッソ州から毎年参加している成戸正勝さん(82)が最初に挨拶した。
「いつも、今回が最後のビアージ(旅)だと思って参加している。でも、死ぬ覚悟すると死なないんですよね。来年もまた来ます」と語り、会場を沸かせた。
同倶楽部は一九四九年頃に創設され、当時二百人以上いたと言われるビアジャンテ(行商)の集まりとして絶大な影響力をもっていた。通信手段も不便だった終戦後、彼らが定期的にもたらす日本やサンパウロの話を、移住地の人々は楽しみに待っていたからだ。
創立二年目頃、サンパウロ市市場近くの新ときわレストランで始まったこの新年会には、その昔、平田進連邦下議、総領事館、南米銀行、各邦字紙らの代表も必ず顔を出したそう。
サンパウロ市四百年祭の折りには全伯ミスコロニア・コンクールを初めて主催した他、昼間は野球に夜はダンスパーティという「ビアジャンテ祭り」を毎年各地持ち回りで行ったという。
今年も一升瓶を持参して出席した野村丈吾元連邦下議は、「テレビのない時代、みなさんが持ってくる新しいニュースは移住地みなの楽しみだった」と回想。「中でも娘さんたちにとってはそうだった。まあ、泣かせた人もいたかもしれないが」と参加者の笑いを誘った。
最年長の金子明さん(88、福島)は、主にノロエステ線を戦時中から戦後にかけて約二十年間、ビアジャンテをして注文をとって移住地を歩いた。「いろいろなニュースを伝えて喜ばれたよ。当時は郵便事情も悪かったから、郵便物も届けたりして重宝がられたね」という。
二十五~四十三歳ぐらいまでブラジル全国を歩いた曽我部功さん(84、愛媛)は、「派手にやったな。田舎の町で飯食ってると、どこから聞きつけたか、ボアッチから迎えの車が来て、大騒ぎをしたもんだ」と往年の〃万年青年〃が顔をのぞかせた。
一九六〇年頃、今での秘境として知られるギアナ高地にも足を伸ばした。「なあに、女を買いに行ったのさ」と韜晦する。二十年ほどまえに自動車事故で片足を失ったが、元気さは昔のままだ。
三十年間ビアジャンテをしたという川村久加須さん(87)は、「成功して店を開け、卸をやるようになった人もいたんだ」と遠藤四郎さん兄弟の名をあげる。「一世でバリバリやっていた人で、死んじゃったのはたくさんいる」。参加者の平均年齢は七十五歳ぐらいか。
「昔と違って、地方の人が直接サンパウロに買い付けに来るようになったから、若いビアジャンテはいなくなった。昔は汽車とバスを乗り継いで廻ったものだが、今じゃ車だ。時代の流れなんだろうね」としみじみ語り、酒をぐいっとあおった。