1月18日(火)
郷土にまつわる体験談などを約二十人の区民が綴った「私の区の思い出─ヴィラ・カロン(Lembrancas do Meu Bairro─Vila Carrao)」がこのほど、刊行された。昨年のサンパウロ四百五十年を記念して、区役所と援協傘下の奄美事業所(与座千恵子所長)が共同で企画したもの。居住歴四十年以上のイタリア、日本、スペイン移民などが参加。区内に湿地帯が広がり、子供たちが屋外で元気はつらつと遊んでいた時代を偲んだ。与座所長は「多くの人の好評を得て、皆喜んでいます。郷土史を残すことに、一役買えたら幸い」と話している。
「いや、便利になりましたよ」。河野八重子さん(83、岩手県出身、ヴィラ・カロン文協婦人部元部長)は今の街並みをみて、そう語る。
ヴィラ・カロンに移ってきた約四十年前、区の開発はまだ進んでいなかった。「建物も立ち並んでおらず、本当に田舎でした。最寄りの薬局まで、片道二キロもあったんですよ」。今は近くにアベニーダが通り、日常必需品は何でも手に入るという。
夫とバールを長らく営業。五人の子供を育て上げた。店の前でフェイラがあり、買い物客で店内が賑わった。地域の住民と触れ合う中で、「いつのまにか、居着いてしまいました」。
奄美事業所は地域のお年寄りを集めて、レクリエーションなどを行なっている。昨年、各自の思い出話を集めて書籍にまとめようという計画が、参加者全員の賛同を得て決まった。
十六世紀半ば。バンデイランテス(奥地探検隊)の辿った道に面していたことが、ヴィラ・カロンの起源だ。街の開発が始まるのは、一九一六年。ポルトガル、イタリア、日本移民の到着を待たなければならない。移民は、区の歴史に欠かすことの出来ない存在だ。一九二〇年に、鉄道の駅が通ることになり、都市化の第一波が押し寄せた。
執筆者は六十五歳から八十五歳で、居住歴は平均五十年を超える。内訳は日本人が四人(帰化人を含む)、スペイン人が二人、イタリア人が一人、残りがブラジル人。日本人の血を引く人を含めると、日系は七人になる。
四十年~六十年前には、電気、水道、交通などインフラはまだ十分に整備されておらず、生活は決して裕福と言えるものでなかった。緑豊かな自然環境に囲まれ、子供たちの遊び場がたくさんあったという。
地下鉄ヴィラ・カロン駅が八六年に開通。その後、タトゥアッペやアリカンドゥーヴァにショッピングセンターがオープンし、区内近隣の投資が拡大した。人口は膨れ上がり、都市犯罪が増えることになった。古き良き時代の思い出は、郷土を愛してきた人々の心に息づいている。