1月19日(水)
苦闘の歴史を風化させたくない──。通訳五人男の一人、平野運平(一八八六─一九一九)によって創設され、民間人による植民地としては最古の部類に入る第一平野植民地が、今年八月一日に入植九十周年を迎える。マラリアの蔓延によって八十人以上の犠牲者を出した上、霜や蝗による害で新天地開拓の夢は当初から挫折の連続だった。リーダーの平野もスペイン風邪にかかり、成功を見ることなく一九一九年二月六日に死去してしまう。同地には今、十四家族が居住。サトウキビの栽培や牧畜で生計を立てている。世代は二世、三世へと進み、かつての苦労を知っている人はほとんどいない。七月末の九十周年記念式典は、同地の歩んできた道をアピールする機会になりそうだ。
「一軒に一人二人は少ない方、家中枕を並べて寝込んでいる家も珍しくなかった」。『コロニア五十年史』の編纂に当たって、開拓者の一人、山下定一氏(故人)は平野植民地創設について、そう証言している。マラリアがいかに猛威を振るったかが、よくうかがえる内容だ。
栄養失調も追い討ちをかけ、入植の翌年(一九一六年)から死者が相次いで出た。棺をつくる木挽きも命を落としたので、床板や柳行李などを代用。孤独死し蛆がわいている死体の処理に困って、小屋ごと火葬にしたこともあったという。
グァタパラ方面に入った初期移民。奴隷同然の過酷な労働を課せられ、日本で抱いていた甘い夢ははかなくも散ってしまう。錦衣帰国を果たす最短距離は地主になることで、自立に向けた模索が始まる。それは監督官の厳しい扱いから、逃れることでもあった。
入植者たちの期待を背負い、植民地建設に乗り出したのが、通訳五人男の一人平野。先発隊が現地に入ったのは、一九一五年八月一日のことだった。ドウラード川のほとりが肥沃だと考えたが、そこはマラリアの温床だったのだ。
それでも米やフェイジョン、トウモロコシを植えることが出来た家族は幸運だった。が、次なる不幸が植民地を襲う。一七年十一月。蝗の大群が押し寄せて、農作物を食い荒らしてしまったのだ。さらに翌一八年に、旱魃と霜による被害も受けた。
前述の山下定一氏の息子、ジョージさん(70)=同植民地在住=は幼い頃から、そんな苦労話を幾度となく聞いて育った。
「父は平野氏の思想に共鳴して、ここまでついてきた。命日の二月六日には平野祭をやっており、毎年壇上で苦闘の歴史を熱く語っていました」と偲ぶ。学生などが自宅を取材に訪れる度に、そばに寄って耳を傾けていたという。
綿栽培に希望が持てるようになったものの、三〇年代後半土壌の衰えが目立ち始め、次々と植民地を去っていった。その後、サトウキビの栽培や牧畜に活路を見出したものの、今も居住しているのは千六百二十アルケールの土地内に、十四家族だけだ。世代交代も、著しく進んだ。
定一氏は、この地に愛着を持ち、語り部のような存在になった。ジョージさんはその遺志を次いで現地の顔役になり、文協会長を務めている。「記念式典ではやはり、植民地の基礎をつくってくれた開拓者に敬意を表したい」と、きちんと歴史を伝えていきたい考えだ。
当日は、墓参と法要を済ませてから、式に移る予定。各地に散らばった入植者たちと旧交も温める。
(一部敬称略)