2月1日(火)
「もう一度パトロンのところに戻って雇用農として働いてはどうか――」
いざ二度目のじゃがいも栽培、と意気込んでみたが前回の利益は借金返済で消え、植付け費用は残っていなかった。〃辻の悪評〃は消えず、コチアは融資してくれない。資産も当然持たず銀行からの融資も望めない。前回、窮状を救ってくれた独立時のパトロンの支援にも限度がある。八方ふさがりの状態を見て、コチアのポンタ・グロッサ倉庫の田中セルジオ主任(当時)はこうなだめるように言った。
「男がいったん決意した以上、とことんまでやるべき。はじまったばかりで自立計画を放棄するのは男のやることではない」。辻さんの覚悟を知ると田中主任はブラジル銀行へ融資を求めることを提案した。
ポルトガル語もよく分からずに、一人で銀行へ行った。店内はロシア人など融資を求める農業者でひしめき、彼らに交じり長蛇の列に並んだ。
いつになったら担当者と話ができるかさえ分からない中、手弁当を持参し通いつづけたある日、融資担当者から特別に呼び出された。「これだけ忍耐強い人間だったら大丈夫だろう」と、その辛抱強さが評価されたのだ。通い始めてから十日が経っていた。
しかし、今回の植付けは失敗に終わった。
借金だけが残り絶望的な状況の中、田中主任は結婚を勧めた。そして「お前の借金なんかコチアの他の奴らが抱えているものと比べたらちっさい」と笑い飛ばし、再び次ぎの植付けに向け銀行に融資を求めるよう助言した。既に田中主任からの信頼を得ていたのだ。 今回はポンタ・グロッサの副主任も同行し、交渉に当たってくれた。
この年は一・五アルケールで千八百俵を収穫。普通の人の二倍に相当した。借金を返済しても、利益が残った。この成功でコチア内部での悪評は消え、独立して三年目、二十七歳の若さでポンタ・グロッサのジャガイモ生産委員に選出されることになった。
しかし、いいことばかりではない。特級の優良種五百俵を詐欺師に騙し取られたのだ。「組合一筋でやるのがどれだけ大事かを感じた」
それでも父親が「遺産の前倒しだ」と言って送ってきてくれたお金で初めて自分の土地十一アルケールを購入。実質的に独立を果したことになった。「それから二年ぐらいは金で苦労したが、それ以後金で苦労したことはない」
ジャガイモの裏作として始めた小麦栽培でも成功を収めた。六〇年代、ブラジル政府は農業保険制度を適用して小麦の栽培を奨励、輸入代替を進めた。小麦の植付け期が病原体の発生しやすい雨季にあたっていたことに加え、失敗しても政府から保障がでるということが他の農業者の気を緩め、多くは失敗に終わった。
「金と女は同じで、おっかけちゃいかん。その前にどのようにすればいい技術を身につけられるかを考えるべきだ」
この頃、既にポンタ・グロッサ周辺ではジャガイモ栽培適地が少なくなっており、ドイツ系農業者が穀類生産に着手し始めているのを見て「これからこの地方はジャガイモではなく穀類の時代になる」と感じた。 七〇年、小麦の利益を穀類の栽培に投資した。
「やがては大農場の経営をするべきだと思ったわけです。それは日本を出るときからの夢であり、実現するための条件が整いつつありました」
ポンタ・グロッサ管内に四百ヘクタールの土地を購入。九十年までの約二十年間、大豆中心の生産活動を続けた。
(つづく、米倉達也記者)