2月5日(土)
視察ツアーは早くも終わりに近づいていた。バスは眠りにつく一行に心地よい揺れを与えながら、最終目的地マイリンケ市へと向かった。イビウーナ市の北隣に位置する人口三万人ほどの小さな街だ。バスは山の奥へ奥へと入っていた。下車し、傾斜が四十度ほどもありそうな急な森林道を登って行くと、急に視界が開けた。眼下には有機栽培の大豆畑が広がっていた。
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「長生きしたいなら田舎で農業をやりなさい――」
堀田しげるさん(50、三世)の父親としおさん(故人)は医者にそう言われ、二十年間働いたサンパウロ市を離れマイリンケ市に入った。今から二十五年ほど前のことだ。病気のため農薬を使用することも出来なかった。結果として、無農薬、無化学肥料の有機栽培を行うことになったわけだ。
現在、十ヘクタールの土地で豆腐用の大豆、蔬菜、果実など約六十種類を栽培している。販売は有機栽培協会(以下、AO)を通して行うフェイラのみだ。サンパウロ市のアグア・ブランカ広場(地下鉄バラ・フンダ駅近く)でも毎週土曜日に行っている。「みんな楽しみにして待っとるからうれしい」
AOは十五年ほど前に有機栽培を普及するためにできた組織。加盟者に有機栽培の認証を与えるほか、技術指導も行っている。
今でこそ有機栽培は市民権を得て一つの農業スタイルとして確立しているが、当時は農薬や化学肥料を使った一般の作物と同様に扱われていた。
「知名度が無い上に、農薬を使ったものに比べ見た目もよくないから大変だった」と、しげるさんは振り返る。
ミナス・ジェライス州サン・ゴタルドのセラード地帯で大豆の大規模生産を行っている、アルト・パラナイーバ農業協同組合の佐藤公三さん(57)は、自分のものと対照的な営農スタイルに興味を示していた。
佐藤さんは大豆を機械で収穫する。そのため大きい豆は砕けてしまう。一方、しげるさんの場合は全て手作業で収穫して脱穀機にかけるそうだ。
参加者の一人が「現在はかなり大きな規模でやっていても大変な時代。それがこの規模で実際にやっていける人がいるということは、有機栽培は一つの営農スタイルとして確立しているんですね」と感想を語っていた。
AOの出来る前から有機栽培を行っているしげるさんは今では有機栽培に関しては大のベテランだ。それでも、「有機栽培は天候に左右されやすく、それに対処するのが難しい」という。
としおさんは四年前に六十九歳で亡くなった。父の意志を受け継ぎ、しげるさんは今後も有機栽培にこり続ける。
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バスに戻ると森田健一さんは椅子を倒し、早々と寝る体制に入っていた。
「あれー、森田さん。どーしちゃったんですか」記者が少しばかり、とげのある口調で言うと、こんちきしょーといった表情で起き上がろうとした。が、ダウン。一日の間に四つの農場を周るという超過密日程を終始ハイテンションで通した森田さん、さすがに少し疲れたようだ。バスは静寂としてサンパウロ市へと帰っていった。
堀田農場では時間がゆったりと流れている気がした。先端技術を駆使した花卉のハウス栽培のそれとは、やはり違っていた。
(おわり。米倉達也記者)