コラム
志賀重昂は「日本風景論」で、地震や噴火が起きて避難した人々も、災害が落ち着けば故郷へ帰ることを望むのは人情だといった趣旨の文章を書いている。まだ危険が潜む三宅島に帰っていった62人の村民たちも同じような気持ちで小さな島に復興の夢を掛け第一歩を踏み出した。島の45%はいまもなお立ち入りが制限されガスマスクの携帯が義務付けられてもいる▼噴火と地震の「雄山」が激しい活動を始めたのは古い。1085年(応徳2年)に大きな噴火があったの記録があり江戸の頃も何回も悲惨な災害が繰り返され正徳元年(1712年)の大噴火の音は鎌倉でも聞こえたそうである。近くは1962年や1983年と続き2000年の大噴火になり住民らに避難指令が出されたのは記憶に新しい。このように三宅島は悲惨な島と言える▼それでも村民3200人のうち2000人が島に帰りたいと希望し噴火で荒れ果てた村や部落を昔のように立て直したいと頑張ろうとしている。帰島第一陣が乗った「さるびや丸」を迎えたのは沖合まで流れている鼻を突く硫黄臭である。まだ決して安全とはいい難い。けれども「島に帰る」を公約にした平野祐康村長らを出迎えた人々が「お帰りなさい」と声を掛けると、62人の村民は笑顔で応える▼が、これから先に難しい事が待ち受けているのは間違いない。それでも―。いろいろと困難があったし苦しかったけれど「島に帰ると決断したのは正しかった」と村の人々が振り返る日が必ずやってくると今は祈りたい。 (遯)
05/2/5