2月15日(火)
パラグァイのラパス(La Paz)移住地が今年、入植五十周年を迎えた。九月十五日に記念祭を行う、とラパス日本人会の山田博行事務局長が伝えてきた。同移住地は、イタプア県ラパス市にある。首都アスンシオンから三百七十キロ、ブラジルとの国境にあるエステ市から二百八十キロ、アルゼンチンとの国境にあるエンカルナシオン市から三十キロ、の地点にある。
人口三千二百人の中で、日系人口は六百七十五人に過ぎないが、一世(広島県出身の宮里伝さん)が市長をつとめるほど、移住者の半世紀にわたる貢献は輝いている。
一九五六年、広島県沼隈町備後開拓団の五家族三十名と佐賀県出身の四家族二十六名が、入植のために(エンカルナシオン市に)到着したが、すでにパラグァイにいた移住者が、その前年の五五年(昭和三十一年)四月に同地に入植している。初期の入植者は合わせて五十三家族二百八十九名だ。
〇二年を迎えて、初期移住者の五名が存命で、移住地の〃かたりべ〃的存在となっている。この移住地からの転住者が初期入植者となったイグアスー(Yguazu)移住地が、パラグァイの主要大豆生産地の一つとして知られているが、実は、ラパス移住地が大豆栽培の発祥地なのだ。サンタロサ地区で一九五七年頃に大豆栽培が始まった、という記録が残されている。
現在のラパス農業協同組合はサンタロサ、ラパス、チャベス、フジ四農協の統合体で、後藤吉雅さん(広島県出身)が組合長を勤めている。五九年六月には、当時の組合長・山脇敏麿さん(高知県)が三菱商事、住友商事、東洋綿花に大豆輸出の商談を行っていた。日本人会の資料館にはこれらの実績を示す貴重な写真が展示されている。
現在でも、大豆は移住地の主要農産業だ。後発のイグアスー移住地に少々遅れをとったが、不耕起栽培も定着している。日本語学校(藤井博校長)では九名の教員が子弟教育に心血を注いでいる。幼稚園から中学校まで百九名の児童生徒が在籍している。
日系社会青年ボランティアとして日本人会に勤務し、三月に帰国するという元神絵里さんの述懐。「日本にいては求めることができなかった『日本人の心と誇り』をラパスで学ぶことができました。日本人で本当に良かったと思った」。この言葉が入植五十周年を迎えた移住地の今の姿を如実に物語っている、といえよう。