2月22日(火)
【ボア・ヴィスタ発=堀江剛史記者】ヴェネズエラとガイアナに国境を接するブラジル最北の州、ロライマ。州唯一の日本人移住地であったタイアーノ入植から今年で五十年を迎える。数少なくなった元入植者に当時の様子を聞き、かつての入植地跡を訪れた。「消えた移住地」で現地人さながらの生活を続ける準二世にもインタビューを試みた。
「七六年くらいにマナウスから来た領事に会ったよ。その領事は『タイアーノ移住地があまりにひどいので日本引き上げを移住者に勧めたけど、拒否された』と言っていたよ」
州都ボア・ヴィスタにあるエンブラッパ(ブラジル農牧調査研究公社)で会った初老のブラジル男性は記憶を反芻するように繰り返した。
最後まで残っていた秀島一家が脱耕したのは、七一年。年は勘違いにしても、そんな話があったのかー。
「聞いたこともない。そんな話があったら、絶対帰ってるー」
ボア・ヴィスタ市内の自宅で佃千鶴子さん(一九一七年生まれ。五五年ボア・ヴィスタ入植。大阪府出身)は言下に否定した。
「NHKの御荘金吾という人が来てね。色んな移住地を知ってる人らしいけど、『こんなひどいところによくおるなあ』って言ったんですよね。そしたら、三木(第一次移住)さんの奥さんが怒ってね。『こんないいところはない』って。けど三木さんもマナウスに行ってしまったもんねえ」と笑うのは土井モヨさん(一九二九年生まれ。六一年タイアーノ入植。佐賀県出身)。
「帰りたかったよね、ほんと」と二人は声を合わせた。
ロライマ(八八年に直轄州から独立)がアマゾナス州の国境に接する一部をさいてリオ・ブランコ直轄州となったのは一九四三年。その十二年後、直轄州政府は州都ボア・ヴィスタに野菜、果物を供給する目的で日本移民の導入を図った。 タイアーノへの移住は二度行われている。五五年九月に、パラー州ベルテーラ・ゴム園強制退去時に十一家族(内二家族はボア・ヴィスタ市内)六十五人が転住。
六一年六月に第二次移住者九家族と単身呼び寄せ一人が入植している。第二次移住者は全て佐賀県人であった。植民地の正式名称は、リオ・ブランコ直轄州タイアーノ郡コロネル・モッタ農業植民地。海協連の那賀勇氏が通訳兼指導員として派遣された。
州都ボア・ヴィスタから西北へ九十キロ。今では車で一時間半ほどだが、当時雨季には一週間から十日かかったという。
僻地の移住地には常に悲惨がつきまとう。「病人を自転車に乗せてボア・ヴィスタまで運んだ」、「電報でテコテコを呼び、マラリア患者の子供を運んだが、結局死んだ」、「お金がないため薬を売ってもらえず死んだ人もいた」。
ロンドニア州トレーゼ・デ・セテンブロ(旧グヮポレ)植民地に入植し、五八年から海協連の職員として、アマゾン一帯の日本人植民地を訪れた西部アマゾン日伯協会の村山惟元会長は断言する。
「(タイアーノが)一番ひどかった」。
会長自身も郵便物を届けるために雨季にタイアーノを一度訪れたことがある。「百キロ近いひどい道を食料持って行ったよ。川も二つバルサで渡るしね」。しかし、陸の孤島と呼ばれ、交通の便が極めて悪い移住地は他にも多くあった。村山会長は続ける。
「彼らは本当に苦労したと思うよ。何がひどいって野菜を作っても売れないんだから」 (つづく)