3月5日(土)
「ブラジルではどんな子供もみんなサッカー選手になりたいものさ。僕もジーコがアイドルだったんだ」 リオデジャネイロの名門フラメンゴの大ファンでいつかプロ選手になろうと厳しい労働のつかの間の休みとなる週末には、草サッカーに励んだヴァンデルレイ。ブラジル代表のロナウドら、貧しいブラジル人少年が、サッカーで人生を切り開くのと同様、ヴァンデルレイの人生もサッカーが変えていく。
「お前足が速いよな。一度陸上のレースに出てみないか」
草サッカーの右FWとして俊足ぶりを披露していた小柄な少年に、学校の体育教師が注目。その何気ない一言がヴァンデルレイをマラソンに導いたのだ。
地元で行われる八キロのミニマラソンが初舞台だった。二十位までしか表彰されないこの大会で、結局二十四位に終わるものの、大きな魅力を感じていた。
「レース後、友達がメダルをもらっているのをみて、すごく羨ましかったんだ。そして決意したよ。『いつかは僕もメダルを取る』ってね」
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メダルを取りたい――少年時代に夢見た思いは五輪の場でも変わらなかった。
「倒れた時に打った体も痛かったし、リズムを取り戻すので精一杯だったけど何とか三位には食い込むつもりだった」と当時の心境を振り返る。
公認コーチではなかったため、競技場内に入る資格を得られず、競技場近くのバーでテレビ中継を見守ったリカルド氏は、まさかのトラブルに目を疑った。「驚いたし、恐怖だったよ。マラソンの歴史であんなことはなかったから」。
バーを飛び出したリカルド氏は、ヴァンデルレイの姿を探すためコースを懸命に逆走する。
トップのイタリア人、続いてアメリカ人――次々と視界に飛び込む他国選手。「メダルだけは何とか確保してくれ」と願うリカルド氏はやや苦しげな表情を浮かべる「戦友」の姿をみて、ようやく安心した。
「あのトラブルがなければ金だった。単なるタイムの問題だけでなく、あれがなければイタリア選手もヴァンデルレイを視界に捉えられなかったはずさ」とキッパリ。
「ただね、メダルが取れたことに本当に僕も満足しているよ。彼のコーチでいられて本当に誇りを感じている」
八八年から本格的にマラソンに取り組み、九二年まではスポンサーこそいたもののそれだけでは生計が立てられず、体育館の管理人や企業のお抱え運転手なども経験したヴァンデルレイ。十二年間に渡る二人の二人三脚。五輪でのメダル獲得という夢は達成した。
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競技場に入ってきた時、両手で大きなハートマークをつくり観衆、そして家族に対する愛情を示した。
そんなヴェンデルレイの健闘を、パラナ州マリンガ市に隣接するサランジ市に住む母、アウロラさん(71)は兄弟や孫らとともにテレビの前で見守った。
「あんな出来事があって、最初は悲しかったけど神様は全てご存知なのよ。あの子が、メダルを取れたのは神様があのトラブルを倍にして返してくださったから」。言葉の端々にごく自然に「神様のお陰」という言葉が付いて出る。
両親からもらったのは信仰心の強さというヴァンデルレイの言葉を裏付けるように、母の信仰心の強さはこじんまりとした自宅の至るところに飾られた宗教画や置物からも見て取れる。
取材攻勢が続き、世界各国からの大会参加要請が相次いでも素朴な「元ボイア・フリア」は謙虚さを決して失わない。
「五輪前と後で変ったのは、夢がかなったということだけさ。今幸せだけど、僕自身に変化はないよ」
昨年十月からは取材を断り練習に専念。年末から五輪前にも高地合宿を行ったコロンビアで、ハードな練習をしたヴァンデルレイはリカルド氏とともに二月二十七日、日本へ旅立った。
「日本は最高の国の一つ。母国以上に僕の仕事を評価してくれるし、いつでもいい扱いをしてもらっているから大好きさ」
アテネで披露し、全世界を魅了した、よれよれと飛行機が飛ぶポーズはアヴィオンジーニョ(ちっちゃな飛行機)はヴァンデルレイの専売特許だ。
「あれは自分自身の喜びの表現。長いフライトを終えようとする飛行機が着陸する瞬間を現してるんだ」
五輪最初のレースとなるびわ湖毎日マラソン。初春を迎えつつある湖畔の地で、爽やかな笑顔とアヴィオンジーニョが見られることを誰もが待っている。
(終わり。下薗昌記記者)