3月9日(水)
連合日本人会の会長は、三十歳のやり手営業マン──。一九六〇年代にバタテイロの町として栄えたブラガンサ・パウリスタ市(サンパウロから八十三キロ)。今年創立五十周年を迎える現地連合日本人会で、若手の会長が辣腕を振るっている。モト・ホンダの代理店で営業担当重役の要職にある、辻正美さん(三世)だ。日本語教育とスポーツを旗印に、青年の参加を促していきたいと意欲をみなぎらせる。
「日本語が話せるというのは、素晴らしいことだと思った。だって、親戚をはじめ、多くの人と交流出来るから」。七歳から約七年間、半強制的に日本語学校に通わされた辻さん。九八年に、ふるさと創生事業に参加して日本を訪れた時に初めて、両親の思いに気付いたという。
帰国後、日会入りを決意。九九年に、学務部長の助手として迎えられた。同時に、独学で日本語力も磨いた。
「日本語教育を充実させるには、やっぱり背後の組織がしっかりしていないとダメ。私が日本に行けたのも、きちんとした受け皿があったからこそなんです」
その後、学務長、副会長と昇格して地歩を固め、〇四年、二十九歳の時、会長に選出された。今年の選挙で再選され、二期目に入ったところ。副会長二人は、オオキ・ロベルトさんとウメオカ・トヨコさんで、それぞれ四十代と五十代の二世だ。
五五年に創立した連合日本人会は会館、学生寮(奨学舎)、運動場の三つの不動産を所有していた。八〇年代に入ると、インフレやデカセギで日系コロニアは、低迷。後継者不足が深刻化した。
数年前に、土地家屋税だけで一万二千レアルかかっていた。会員数は日系約二百五十世帯のうち、百三十世帯。組織を維持するだけで、精一杯だった。
「これでは、若手に会を引き渡すのは無理だと思いました」と、父の正夫さん(59、香川県出身)は振り返る。一世の役員が〇三年に、ある英断を下した。奨学舎を売却して、収入を設備投資に充当。若手へのバトンタッチを整えようと考えたのだ。
連合日本人会は、奨学舎を母体にして結成されたもの。いわば、発祥の地だったので、抵抗も少なくなかった。
辻さんがちょうど副会長を務め、次期会長だと目されていた頃。「あの人がトップに立ったら、財産を全て処分してしまう」と揶揄されたこともあった。一世の支持派が、反対派を根気強く説得したという。
会長就任後、市から十五万レアルの資金援助を得て、体育館に屋根かけ、近々、本工事に取り掛かる。「市との関係が新たに構築出来たことが、一番大きなことかな」。一期目を終えて、手ごたえ十分だ。
「聖北地区は、実力校が集まっています。その中で、ブラガンサはよく健闘している」(ブラジル日本語センター)と、日本語学校への評価も高い。
モト・ホンダの代理店の中でも、好成績を収めているという辻さんの店。営業の仕事も楽ではなく、四六時中、電話が入ってくる。「今は娯楽が多様化して、日系人がいろんなところに分散する傾向がある。スポーツと日本語を柱に、青年を引きつけたい」と張り切っている。
創立から半世紀を迎える連合日本人会。「記念行事は、先駆者に敬意を表すものにしたい」。そんな頼もしい若手に、移民一世は温かい視線を送っている。