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パラナ州でコチア青年の貢献を見る=サンパウロ組、仲間たちと交流=連載(1)=踏ん張る未亡人澄子さん=息子と1400haの農場経営

4月8日(金)

 一九五五年九月十五日、コチア青年の移民第一陣百九名が希望と不安を抱きながら、サントス港に上陸した。その後、十二年間で二千五百八名の「青年たち」がブラジルに渡って来た。当時の母国日本は、失業者が六百万人と言われた時代だった。多くが古希や還暦を迎えた今でも「青年」という不滅の勲章をもつ。
 今年の九月十七日と十八日、サンパウロ市近郊のサン・ロッケ市にある国士舘スポーツセンターで移住五十周年記念行事を行う。その行事に一人でも多くの仲間と家族に参加してもらい、半世紀の苦労と喜びを分かち合おう、とコチア青年連絡協議会(高橋一水会長、高知県)がサンパウロ市内と近郊在住の仲間に呼びかけて、記念行事参加誘致の旅を企画した。
 旅そのものは仲間との親善交流と視察が中心だ。参加費はすべて自己負担。昨年十一月のブラジリア首都圏への旅に続いて、二回目の今回は、四月一日~四日、パラナ州のカストロとクリチーバ方面を選んだ。
 協議会の高橋会長と副会長三名・山下治(福井県・五十周年記念準備委員長)、杓田美代子(三重県)、菱沼利昭(兵庫県)、元協議会会長の神取忠(北海道)、第一次一回の古参青年・山田貢(鹿児島)らが参加する意欲ある交流団構成となった。旅行の幹事役は、第一回目から坂東博之(徳島県)が担当している。
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 最初の訪問地は。小池清一郎(群馬県)や香川公宏(徳島県)らが活躍しているカストロとなった。
 この地の平均海抜は千メートルで、草原地帯なので、他の多くの地域であったような森林の伐採による農業開発ではなかった、と香川さんは断言する。コチア産業組合の主導で、一九五八年九月に日系農家八家族が入植して、翌年一月八日に採種用バタタを植えた。採種には失敗したが、食用バタタの栽培には成功した。
 香川さん本人(一次十六回)も五九年にカストロに入植して今に至っている。コチア青年もカストロ地域の農業開発に貢献してきた実例だ。
 トウモロコシと大豆が広大な平原一面を覆う風景は圧巻だ。気候が良いので大豆やモロコシの単位面積の収量が全国レベルよりも高い、と自信に満ちた香川さんの言葉だ。二〇〇二年~三年頃、コチア青年連絡協議会会長として、毎週のようにサンパウロとカストロ間四百数十キロを往復したほどの責任感の強い情熱家でもある。
 小池・香川さんが交流団を案内したのが武政伍郎(高知県、五五年十一月、一次二回、ぶらじる丸、八五年没)夫人の澄子さん(二世)が、子息のジョルジさんと経営している農場だ。バタタ、大豆、トウモロコシ、フェイジョンなどを約千四百ヘクタールに栽培している。
 同じコチア青年の福島修さん(富山県)を父に持つ修二さんが、バタタ担当としてジョルジさんを手伝っている。見渡すかぎり手入れが行き届いた畑では、バタタが紫色の花をつけていた。
 バタタは米国系食品加工会社との契約栽培だ。作物の姿が委託先より信用を得ていることを暗示していた。夫亡き後の幾多の苦難を乗り越えてきたであろう澄子さん、その面影を全く見せない好々おばあちゃんだ。つづく(文中一部敬称略)