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『リンゴの里』=開拓者の今=SC州サンジョアキンで出会った2人=連載(上)=パトロンに恵まれて=コチア青年 〃村長〃格だった細井さん

5月13日(金)

 陸路でサンパウロ市から南南西に約九百キロ、平均標高千四百メートルの高地に、今や「リンゴの里」として知られているサンジョアキンの町がある。マノエル・ジョアキン・ピントという探検家が一九七三年にこの町を創り、八七年五月七日に市制が執かれた、と市役所前にある記念碑に刻まれている。
 この地に初めて日本人が入植したのは一九七四年八月だ。当時のコチア産業組合中央会の主導によるリンゴ生産団地構想に基づくリンゴ栽培の幕開けだ。この地がリンゴの適地であることを看破して、栽培を指導したJICA(当時の国際協事業団)派遣専門家の後沢憲志博士の言葉「石は除けれる、山は崩れる、気候は変えられぬ」が第一入植地の記念碑に刻み込まれている。
 昨年七月、入植三十周年記念式典が盛大に挙行された(本紙・〇四年八月十八日特集)。苦難の幕開けから中核的役割を果たしてきた十数名の初期入植者の中から二人の証言を聞いた。
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 細井健志さん(京都府出身、第二次十六回)は、中学生の時から移住を志していた。が、父親が銀行員だったため、コチア青年としての資格を得るために自ら志望して農業高校に進んだ。卒業するとすぐにコチア青年としてブラジルに来た。十八歳だった。所期の夢を実現させたのだ。
 サンパウロ州ピエダーデでバタタ(じゃがいも)栽培をしていた川上皓さん(現在七十六歳、高知県、一九三〇年着伯)がパトロンとなり、七年間働いて独立した。清水静子さん(東京都)と出会う幸運にも恵まれた。清水家は、ドミニカ移住からの転入家族で、イビウナに住んでいた。静子さんとの結婚式も川上さんの助力で盛大に行うことができた。 良い伴侶を得て、第二の夢も叶った。「今の私があるのはパトロンに恵まれたことだ。川上さんあっての私と家族だ」と感謝してやまない細井さん。当の川上さんは「細井君は義理人情を大切にする青年だったよ。今でも親子のような交際だ。一人前の農業者を育てる幸運に恵まれたことに感謝している」と喜びを表現している。
 独立して自営作に取り組んでいた時に後沢博士の話を耳にして、サンジョアキン移転を決意した。が、土地が決まらないため、義父宅に二年間の居候を余儀なくされた。焦りが出始めた矢先の七四年八月、第一次入植者十六名の一人として念願のサンジョアキン入りを果たした。
 先駆者の一人として、コチア産組関係者らと一緒に土地探しにも奔走した。入植者の〃村長〃格でもあったようだ。リンゴ栽培経験ゼロからの出発で、苦労は続いた。土は石ころ混じりで表土が薄かった。リンゴ団地構想そのものが成否未定だったため、失敗しても親元に帰ることができる二世が優先された中で、細井さんは背水の陣で臨んだ。 初期の段階で、川上さんが無条件で資金を貸してくれた。独立した後でも面倒見の良いパトロンだ。リンゴの木は冬眠を欠かせない。サンジョアキンの冬は厳しく、後沢博士の看破通り、気候的にリンゴ栽培の最適条件を有している。
 細井さんはSANJO農協(飯田パウロ組合長)の創立会員でもある。長男(康志さん)は独立して、パラナ州のパルマスでリンゴ栽培に取り組んでいる。次男(次郎さん)と三男(悟さん)は父親と一緒にリンゴ栽培だ。二人ともいずれ独立するだろう。後継者にも恵まれて、第三の夢も実現しつつある細井さんは熱烈なトラキチ(阪神タイガース・ファン)の一人でもある。
 九月にサンパウロ市郊外で行われるコチア青年移住五十周年記念行事に参加するのを楽しみにしているようだ。(つづく)