6月16日(木)
日本人移民の足跡を残したい―。サンパウロから約二六十キロ北西に位置するマットン市で八月六日午前十時から、同市営墓地で日本移民慰霊碑の除幕式が行われる。同地で亡くなった日本人は二百六十一人。主な出身地は沖縄県だという。移住の歴史を紐解いていた同市に住む弁護士、アダイール・ペドロ氏が同市営墓地で日本人移民の無縁仏が多いことを指摘、市と相談した結果、今回の慰霊碑建立へと繋がった。アダウト・スカルドエリ同市長は「市の発展に尽くした日本人の足跡を残したい」と話している。
農業機器やオレンジジュースの工場などで有名な工業都市、マットン市。一九〇〇年代初頭、モジアナ線のカフェ農場にイタリア、ポルトガル、スペイン、日本など各国移民が入植している。
しかし、一九二九年の世界大恐慌の影響で、カフェの価格が暴落したことに加え、三十年代からイギリス人が土地を買い占めたことで、事実上小作農であった日本移民が閉め出される形となった。
「州政府がマリリアなどノロエステ線に転農を勧め、多くの日本人が同地を後にしている。私の調べた結果、強制的なものではなかったようだ」と同地の歴史に詳しい弁護士のアダイール氏は説明する。
それ以降、同地で日本人はほとんどいなかったが、六〇年代から、日系人口が増加、現在では日系団体はないものの、約百の日系家族が住んでいるという。
同地での歴史調査を長く続けているアダイール氏。市営墓地の無縁仏に日本人の名前が多いことに三年ほど前、気が付いた。
調査の結果、墓地やカルトリオに登録されている同地で死去した日本人は二百六十一人。
アダイール氏は、資料のなかで、一九二〇年頃、シズエという五歳の女の子が亡くなった記録に心を動かされた。
女児の死後、家族が移転する際、墓を掘り起こしたところ、日傘や人形など生前大事にしていた遺品に囲まれ、ミイラ化していたという。
「生後間もなく亡くなっている例が多い。その当時は栄養失調も多かったようです」というアダイール氏によれば、最初に死去した日本人(国籍はブラジル)は、一九一三年十月十九日に生後五カ月で死去した女児、キンジョ・オグスコとなっている。
沖縄系と思われるが、父親の名前と同名になっていること、名前が不完全であることから見ても、ポルトガル語のできない初期移民の当時の苦労が偲ばれる。
「完璧なリストではないが、一応この名簿を慰霊碑に刻む予定」とアダイール氏は話すが、これからも調査を続けていく考えも示している。
資料やリストなどはブラジル日本移民史料館に寄付する話も進んでおり、移民史料館運営委員長の田中洋典氏は、「史料館として価値があり、異議のあること」と話した。
今期二期目となるスカルドエリ市長は、九八年のマットン市制百周年事業でイタリア移民の慰霊碑を建設、今回の日本移民慰霊碑建設にも強い意気込みを見せており、「八月六日の除幕式にも是非出席してほしい」と日系コロニアへ呼びかけている。