6月17日(金)
【エスタード・デ・サンパウロ紙十二日】子は父親の背中を見て育ち、人生の中で父親を超える努力をする。それがかなわぬ場合は意を継いで、少しでも近づこうとする。だが、父親が偉大すぎて逆に歪んだ人生を歩む者もいる。連警が先週、サントス市で展開した麻薬組織取締作戦で逮捕されたサントスチームの元ゴールキーパーのエジーニョ容疑者も「はみだし息子」の一人だ。彼こそ、世紀の不世出サッカー名選手、「サッカーの王様」と言われたペレー元選手の息子である。王様の名声のもと、自由奔放な生活を送った同容疑者だが、事業にことごとく失敗するも父親が全て後始末をしてきた。しかし今回の逮捕は、いかに王様といえども如何ともしがたく、慚愧の念で涙にくれた。以下は収監されて将来を見失った三十八歳の「王子」の半生記である。
エジーニョは一九七〇年八月二十七日、サントス市でペレーの長男として生れた。ペレーは自分の名の一つエジソンを名付けて溺愛した。当時ペレーは世界で名選手の名を欲しいままにしていたが、家に戻ると家庭を愛する優しいパパだった。ペレーはエジーニョの子供時代を友人に話し、大笑いするのが常だった。
エジーニョは五歳から二十歳までニューヨーク市マンハッタンのマンションで、母親(ペレーの最初の妻)と妹二人で暮らした。ペレーはアメリカのコスモスでプレーをしていたが、マンションに戻った時、当時六歳だったエジーニョが扉を開けるなり「あっペレーだ! いつもテレビに出るペレーだ!」と叫んだという。父親とペレー選手が重ならなかったのだろうと、ペレーは笑う。
少年時代は父親譲りのスポーツ万能で、とくに野球に凝り、地区大会で最優秀選手になったこともある。高校に入ると不良仲間とつき合うようになり、仲間からは世界的スターの息子としてチヤホヤされ、いっぱしに隠語をやりとりするようになっていた。不良行為はエスカレートし、お定まりの麻薬に手を染めた。当時の仲間によると「常習者」になっていたという。そのため警察にも度々補導された。これを知ったペレーはエジーニョをブラジルに呼び戻し、サントス市に住まわせた。
その後エジーニョはペレーの跡を継ぎ、ゴールキーパーとしてサッカー選手となり、ペレーの出身クラブ、サントスのレギュラーに選ばれた。これはペレーの元同僚で、当時の監督ペペの温情によるものだった。ペペはペレーの結婚式の仲人となった程の親友だった。このほかペレーはサントスクラブに隠然たる影響力があったことからクラブ内でエジーニョ起用の反対を唱える者はなく、エジーニョは父親の力で社会人としてデビューした。
ブラジルのスポーツ選手とくにサッカー選手は、ペレーがそうだったようにハングリー精神がエネルギーとなっている。しかし裕福なエジーニョにそれを期待するのが無理だった。二年足らずで限界を悟り、プレーを断念した。ペペ元監督は「プレーに光るものがあるが、全体的にムラッ気が多く向上心がなかった」と振り返る。
エジーニョは二〇〇〇年にはオートバイに凝り、モトクロスの地区大会で優勝するも生来のあきっぽさからこれも中断した。その時点でペレーが経営するプロモーション会社に重役として入社。ペレーのキャラクター商品販売を企画するも失敗、一〇万ドルの穴をあけたがペレーは苦言を漏らさなかった。さらにモトクロスのイベントを企画したがこれも失敗、三〇〇万レアルの借財を負ったが、ペレーが何も言わずに肩代わりした。
エジーニョはこれまでの事業失敗で訴えられ六件の裁判を抱えている。全てが金にからむもので、うち二件は三万五〇〇〇レアルのエジーニョ振出しの不渡り小切手だ。イタウー銀行からはボルボ車購入の際の融資未払いで訴えられている。これらは全て判決があり次第、ペレーが解決することになっている。
今回の麻薬取締の逮捕劇で、連警が録音した電話の中で、エジーニョが一味の首領に「資金はお前が出せ、俺は父親の名を出す」と言っていることに象徴されるように、エジーニョにとって父親の名は人生そのものだった。