2005年7月23日(土)
サンパウロ市から北東約二百二十キロ、クーニャ市(人口二万六千)は近年「陶芸の里」として脚光を浴びる。最初の登り窯が日本人らの手によって造られて三十年。個性豊かな窯元めぐりを楽しめるまでになった標高一千メートルの山村を訪ねた。
群青の空、日ざしは冬とは思えない。そよぐ風に草木や土の匂いが交じる。一七三一年築の教会が町の中心だ。ピンク色や淡い黄色に塗られたコロニアル様式の建物が軒を連ねる。窯元はここから三キロ圏内に集中。遠いところでは二十キロ離れた山奥にもある。
「ミエコ、おめでとう」「クーニャはきみに感謝しているよ」
九月まで展覧会やワークショップが予定されている三十周年記念行事(第一回陶芸フェスティヴァル)が開幕した十六日。町を忙しく駆け回っていた実行委員長の請関美重子さん(59)の元に近寄って祝福する人が絶えなかった。
十五人前後を数える在住作家のパイオニアだ。登り窯を現地に初めて建設した一人として知られる。
「来た頃は、日本人たちが何をしているんだろうって感じでしたね。町の人は遠くからこっそり作業の様子をうかがっていたもの」
それから三十年。陶芸が大勢の観光客をひきつけ、「町おこし」にも繋がった。請関さんらの存在は市民の誇りだ。
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愛知県の看護学校で教えていた。一九七〇年、陶芸家の前夫と結婚し、焼き物の魅力に目覚めた。窯元の集まる福岡・小石原で暮らし始めた。
そこで知り合ったのが、登り窯第一号を共に造った仲間のポルトガル人アウベルト・シドラエスさん(60)だ。当時のポルトガルは独裁政権下、ブラジルに移住する意志を固めていたシドラエスさんから、「向こうで一緒に陶芸をやらないか」と誘われ、乗った。
七五年に来伯。有志グループで土地を捜し歩いた。クーニャを選んだのは、屠殺場だった廃屋を借り受けることができたからだ。ちょうど、市が観光客誘致に関心を抱き始めていた時期と重なっていた。
登り窯が完成すると、「牛や豚の部屋だったようなところを仕切って」(請関さん)、電気もない共同生活が始まった。ゼロからの出発。若いエネルギーに満ち溢れていた。
評判を聞きつけた陶芸家がしだいに集まり出した。だが、「屠殺場時代」を知るメンバーでいまも残っているのは、請関さんとシドラエスさんだけだ。離散の理由はいろいろだ。独立して別の土地に移動したり、亡くなったり。
二人も自宅兼アトリエに登り窯を建設した。電気やガスの窯が主流になりつつある中、登り窯で焼いた器が持つ独特の色と風合いにずっとこだわっている。後進の育成にも熱心だ。
「陶芸の里」の原点、共同工房のあった場所まで出かけた。往時の名残はなかった。観光客向けの民芸品販売所に変わっていた。
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カトリックの祭りと毎年恒例の冬祭りが重なった。教会でのセレモニーやコンサート、郷土料理を出す屋台。陶芸フェス初日を盛り上げるため、琉球太鼓と邦楽の公演も開かれた。多数の大型バスが並んだ。「かつてないほどの人出」と地元観光業者は喜んでいた。
歴史遺産の旧港町パラチまで約四十五キロと近距離にありながらも、以前はついでに訪れる人は少なかった。ここに来て二十年になる陶芸家の末長公子さん(57)は「事情が変わったのはここ十年」と話す。 ホテルが一軒しかなかった頃を覚えている。
先日の百回目の窯開きには八百人が集まった。節目だけに広報に力を入れたせいもあるが、宿泊施設やレストランが次々開業し始めた近年は、窯元めぐりを目的にした観光客が増えてきているのを実感している。
三十年の歩みや、在住作家の作品・経歴を紹介する記念誌がこのたび完成した。フェスのパンフレットには、窯元の住所を記した案内用地図を掲載した。名実共に「陶芸の里」の地盤は固まりつつある。
変遷を見詰めてきた請関さんに将来について聞いた。
「この時期に開かれるパラチの国際文学祭と連動するなどフェスを発展的に続けていきたい。日本とも交流もできれば」
「何年経っても、わたしは外からきた部外者。町の人にはずっとお世話になってきましたから、土を通して市民ともっとふれあえる場を作るつもり」
陶芸家として、「土」で恩返しできれば一番だと思う。