2005年8月4日(木)
一九八二年十月、伊藤春野(86)はサンパウロ市の総領事公邸から電話を受け、いつも通りに洗濯物を取りに行った。帰ってから開いてみると、「この服はちょっと違うぞ」と気付いた。
高島屋のオーダーメイドの背広上下と白いワイシャツだった。もしかして――と思って上着の内側を見ると「浩宮徳仁親王」という刺繍が入っていた。
さっと、緊張が走った。
「そういえば皇族がブラジルを訪問していると新聞で読んだ」と思い、確認するとやはり同親王が四日から十二日間の日程で訪問していた。
その時、頭をよぎったのは、十二歳の頃、釜石の小学校時代の苦い記憶だった。校舎裏にあった御真影には階段があった。何気なくそこに腰掛けていると、校長に呼び出され、半日も立たされ、さらに担当教師からも酷い折檻を受けた。
伊藤は粗相のないよう、細心の注意を払ってクリーニングした。公邸に届けに行くと、普段はいない若者が二~三人いた。「彼らが随行員だな」と推測した。
「いくらか」と訊かれたので、胸をはって「御代は頂けません。何千軒もある洗濯屋から、僕が選ばれただけでも大変な名誉です」と、むしろ感謝した。
「その代わりといってはなんですが、何か記念のものなどを頂けたら」と申し出ると、その若者は胸ポケットからタバコ「峰」を一箱出して渡した。期待していた「菊の御紋入り」ではなかった。
「しかたないから黙って下がりましたよ」と苦笑いする。「でも、現皇太子ですから、とても良い思い出です」。
華やかな表舞台の裏方として、洗濯屋はコロニア史を支えてきた。
◎ ◎
日本人洗濯屋第一号は誰なのか。
笠戸丸移民の石村清太郎が来伯十年目、一九一八年にサンパウロ市ラバペス街236番に開店したのが最初の洗濯屋ではないか――と七六年四月二十一日付け「史料館だより」に記されている。当時としては珍しい、領事館や海外興業ぐらいしか備えていなかった電話まであったという。
三〇年代前半は移住最盛期だ。日本移民全体の五人に一人が三三年、三四年の二年間に移住するという未曾有の時代だった。
三五年に山本利作がブエノ・デ・アンドラーデ街97番で始めた時は、四男の栄一(83、北海道)によればすでに十軒はあったと記憶する。ブラジル人のそれならば百軒以上あったろうという。
それを裏付けるように、サンパウロ州新報の『在伯日本移植民二十五周年記念鑑』の職業別統計には、染物業四人、洗濯業十四人とあった。
島根県で洗濯屋の経験があった石川正人が、三〇年に開業していた平井格次のところで技師として働いてこちらのやり方を覚え、利作の娘と結婚したことから、山本家は洗濯稼業を始めることになった。
開店当初、山本は近所にビラを配って歩いた。月曜朝には一軒一軒訪ねて回り、洗濯物を集めた。火水に仕上げ、木金に配達、土曜に完全に終わらせ、日曜日のみ休みだった。朝は六時から仕事を始め、夜は九時、十時まで働くこともザラだった。
店の奥行きは六十五メートルもあり、奥を作業場にした。「最初はエスコーバ(ブラシ)で洗ってたが能率が上がらない。ホフマンのワッシャ(洗濯機=英語のウオッシャーか)を使うようになった。あの、ドラムが二、三回ずつ逆方向に回って洗うやつ。絞るのは遠心分離機みたいので水を抜いた」。
三七年からは染物もするようになった。「あの頃、ガイジンのじいさん、ばあさんが死ぬと、家族中が真っ黒い着物を一年間きる習慣があった」という。黒服の新品は高いので、古着を染め直す需要が多かったからだ。
当時、染物屋はほとんどなく、こなせないぐらいの仕事が入ってきた。外交員も五人雇って、モジ、ソロカバまで集めて回った。ブラジル人の洗濯屋からも染物が回ってきた。当初、家族と使用人十人程度だったのが、「いくらでも仕事あったから、多き時で三十人ぐらいいた」。
〃無頼記者〃や〃野人〃とも言われた三浦鑿の日伯新聞と勢力を争っていた、伯剌西爾時報の石黒清作社長は常にダンディな正装で有名だったが、山本の顧客であったという。
(敬称略、深沢正雪記者)