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アレグレ郷土への旅=連載(下)=見張りをつけて日語勉強=「負け組」だった青年たち  

2005年8月5日(金)

 最盛期を迎えていたアレグレ植民地。戦争がその転機となった。日本人が集まることが禁じられ、学校は閉鎖された。「戦争中は雑誌も本も入らなかった。町にもなかなか行けませんでしたよ」、夫妻で参加した作出真(さね)さん(81)は当時を振り返る。
 その一方で、子供たちは教師の家に集まり勉強を続けた。「先生の家の裏にとうもろこし畑があってね。見張りの合図があるとみんなでその中へ逃げ込んだものですよ」、渡辺さんが懐かしそうに語る。
 そして戦後の勝ち負け抗争。殺人にまで発展した土地がある中で、アレグレは比較的静かに収束していったという。
 「登記所で書記をしていたブラジル人が親日家でね」と語るのは綱木憲明さん(80)。三三年にアレグレに入植した綱木さんは当時、東部アレグレ青年会の一員だった。戦中からニュースや伯字紙で戦況を知っていた青年たちは二世を会長にすえ、戦中もスポーツを行っていたという。
 日本の敗戦を信じない家長たちと「負け組」の青年たち。「家長にあまり反発しなかったからかな」と綱木さんは語る。
 価格の下落でコーヒーが駄目になり、米や綿にも虫がつくようになった。土地が悪くなり、入植者は新しい土地を求めて去っていく。戦後、入植者は徐々に減少していった。残った人が土地を買い、農地は牧場などへ変わっていった。
 作出さんは八五年までアレグレに暮らし、サンパウロへ移った。そのころアレグレにいた日系家族は約五、六十家族。当時はまだ、運動会や盆踊りが開かれていたという。
 八〇年代後半からの出稼ぎブームで人口はさらに減少した。かつての三百家族は二十数家族になり、四つの日本人会はアレグレ日伯協会として植民地を守り続けている。
 五年に一度の入植式典。八十周年の今日までその式典を守りつづけてきたのが、十二年にわたりアレグレ日伯協会の会長をつとめる葛篭(つづら)猛さん(76)だ。生後まもなくアレグレに来て、以来七十六年、アレグレで生きてきた。「家族数は少ないけど、みんなががんばってくれるから盛大な式典ができる」。話を聞く間にも、次々と握手を求める人が訪れる。
 かつてのアレグレ植民地はブレージョ・アレグレ市となった。葛篭さんの息子、タダオさんが今、同市の副市長を務めている。郷土会から市長に、八十周年を記念したプラッカが贈られた。
 今回のアレグレ行に、一行は三種類の木の苗を携えてきた。赤と黄色のイペー、そしてパウ・ブラジル。開拓時代に切り倒した原始林を植えて返したいとの思いからだ。
 木は、かつてなじんだチエテ川の河畔と、アレグレ日伯協会の敷地に植えられた。かつてはサウト・マクコと呼ばれた滝が流れ込んでいた故郷の川。いまはダムの建設で水面が上がり、往時の面影はない。
 入植八十周年式典の会場。宴なかばでバスに乗り込む三十五人は、最後まで知人たちとの別れを惜しんでいた。「次は八十五周年だね」と言葉を交わしながら。
 一人の婦人がバスに乗り込んできた。この日の敬老会で記念品を受けた川瀬照子さん(85)だった。「みなさん今日は本当にありがとうございました」。何度も何度も繰り返していた。おわり (松田正生記者)

■アレグレ「郷土」への旅=連載(上)=「80年前」がよみがえる=準二世、二世にとっても〃古戦場〃