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サンパウロ市議会で「平和の日」式典=戦争原爆の悲劇=「ヌンカ・マイス」

2005年8月9日(火)

 サンパウロ市議会による「平和の日」式典が五日夜、同市議会で開かれた。議会関係者をはじめ、日系団体、県人会関係者など三百五十人が出席して戦争による犠牲者を悼み、平和への誓いを新たにした。六十年目の原爆忌。広島で平和記念式典が行われていた、ちょうどその時、地球の反対側のサンパウロでも平和への祈りを捧げる人たちがいた。
 この日の式典には広島、長崎両県人会から代表者が出席したほか、戦争末期に大きな犠牲を出した沖縄戦の悲劇を偲び、沖縄県人会からも代表者が出席した。
 会場となった市議会貴賓室には約二百羽の白い折鶴が飾られ、ロビーには原爆被害の写真パネルが展示された。立ち上るきのこ雲、黒焦げの死体、板壁に焼きついた人と梯子の影。人々は足を止め、これらの写真に見入っていた。
 丸橋次郎サンパウロ首席領事、ウィリアム・ウー市議、日系団体の代表者などが来賓として訪れたほか、ジェラルド・アルキミンサンパウロ州知事、ジョゼ・セーラサンパウロ市長などからもメッセージが届いた。
 式典は午後七時四十分ごろに開始。ブラジル国歌斉唱に続き、南米大神宮逢坂和男宮司により神事が執り行なわれた。
 神事の後、八時十五分、広島に原爆が投下された六日午前八時十五分にあわせ、出席者が一分間の黙祷を捧げた。
 続いて各県人会長のあいさつ。広島県人会の大西博巳会長は「広島と長崎に投下された二つの原子爆弾により、二十五万人の人々が亡くなりました。今も苦しんでいる人がいます」と語り、「この悲劇を次世代に伝え、警告を発し続けたい」と述べた。丹生登・長崎県人会長が「ヒロシマ・ナガサキ・ヌンカ・マイス」とあいさつを締めくくると、会場からは大きな拍手が上がった。
 沖縄県人会の与儀昭雄会長は、三ヶ月にわたる地上戦で十数万人の県民が犠牲となった沖縄の歴史を説明し、平和の尊さを訴えた。
 式典のコーディネイターを務めた羽藤ジョージ市議は、広島、長崎が受けた被害を「私たち日系人としても忘れることのできない記憶」と述べた上で、今も放射能障害に苦しむ人がいる現状を語り、「どんな戦争も許されるべきではない」と訴えた。
 来賓のあいさつに続き、会場ではヴィニシウス・デ・モラエスの詩「ヒロシマのバラ」が歌われたほか、広島県人会による神楽、沖縄県人会による琉球国祭り太鼓などが披露された。カチャーシーが始まると、出席者も踊りに加わり、会場はにぎわいに包まれた。
 最後に羽藤市議があいさつ。「私たち一人一人が、恒久の平和のために役立つことができるのです」と言葉を結んだ。
 この日は、訪日中の森田隆・在ブラジル原爆被爆者協会長に代わって出席した娘の斉藤綏子さんほか、ブラジルに住む原爆被害者四人に主催者から花束が贈られた。
 岡田公生さん(82)は当時、尾道の陸軍部隊に在籍。原爆投下直後の広島に入り被爆した。「感激しました。(式典は)意義あること。これからの人に伝えることが大事だと思う」。爆心地十八キロの地点で黒い雨で被爆したという渡辺淳子さん(六二)は「この式典を機会にあらためて平和を訴えていきたい」と語った。