2005年8月12日(金)
【エスタード・デ・サンパウロ紙七日】ラテンアメリカ最大のバスターミナルであるサンパウロ市のチエテ・ターミナルでは毎日三千台のバスが発着し、六万人の乗客が乗り降りするが、その一人一人に人生のドラマが秘められている。旅行や商用の乗客もあるが、その大半はこれからの人生を託してバスに乗り込んだ人達だ。他州から新しい人生を夢見て希望に膨らんで降り立つ人と対照的に、失意のどん底で故郷に舞い戻る人々をバスターミナルは今日も包みこんでいる。
サンパウロ州では七月三十日午前一時五分に四千万人目の人口となる赤ちゃんが生れた。それが八月五日午後八時の時点で四千一万六百二十五人となった。しかし住民登録や国勢調査が実施されないことから実際の人口の統計は定かではない。サンパウロ州の人口は他州からの内国移民と呼ばれる人々で構成されているからだ。
州当局の二〇〇〇年のデータによると、他州から九百十万人がサンパウロ州に定住している。内訳はミナス・ジェライスが二〇・七%、バイーアが一九・七%、パラナが一二・九%、ペルナンブッコが一二・四%、その他が二四・三%となり、そのうち七八%が十五歳から五十九歳で、三六・四%は十五歳から二十四歳の若者で占められている。一九九五年から二〇〇〇年までは七十二万人が移民として流入、このうち四十一万人がサンパウロ市内に居ついた。このうち七三・一%は北東部出身だった。
いっぽうでこの間、サンパウロ州から帰郷などで流出したのが三十八万人との記録がある。こうした中で「夢破れて山河あり」の心境で異郷での辛い生活に堪えられず故郷に戻る人々が急増している。
七〇年代から八〇年代にかけては、折からの建設ブームと工場の進出や増設ラッシュから、土木建築現場の雇用が拡大し、休日返上や日夜労働で高収入を得る移民らが多かった。彼らは毎月家族に送金したり、故郷に錦を飾ったりした。
ところが近年は失業者の増加により、とくに学歴のない移民らへの門戸は閉ざされ、サンパウロ州奥地でのサトウキビ収穫、コーヒー豆ちぎり、炭焼きなどの日雇いに転じている。故郷の家族への仕送りは途絶え、中には失踪者もでている。ここから「生存未亡人」とか「行方不明者未亡人」なる新語が生れた。
ペルナンブッコ州グラバター市に帰郷する三十六歳の女性は、十三歳と九歳の子供とともに家財道具や所持品を詰め込んだ十個の荷物をバスに積み込んでいた。彼女は十五年前、一足先に来た夫を追って来聖、その後ありとあら得る職業を体験した。しかし生活を確立するには至らず、夫の死を区切りとして故郷に戻ることにした。
彼女は「掃除婦でも中等教育の学歴が必要となり、もはやサンパウロ市では生活できない」と絶望のどん底でバスに乗り込んだ。また同じく帰郷する別の女性は、夫の兄弟十二人が結束して八〇年代はある程度の生活基盤を築いたものの、ブラジル特有の少しでも高い収入への「転職」を繰り返したため不況に陥って最初にリストラされる破目となり、現在は市内に職がなく、奥地でサトウキビ刈りをしているとのこと。
いっぽうで希望に溢れてサンパウロ市に到着する人も多い。南部の気候二度の町から来聖した二十七歳の男性は、途中で暑さのため服を一枚ずつ脱いできたと言い、快適な生活ができると喜んでいるが、それが長続きすることを祈りたい。