2005年8月17日(水)
コチア青年移住五十周年記念祭典を九月中旬に控え、記念行事に一人でも多くの仲間の参加を呼びかけるため、コチア青年連絡協議会は北パラナのカルロポリスやロンドリーナ地域を訪問地に選び、今月初旬に親善交流の旅を実行した。
六日早朝、貸切りバスでサンパウロ市リベルダーデ広場を出発し、九日早朝に戻る、という強行日程であったが、前三回(ブラジリア首都圏、南パラナ、リオとミナス州)の交流旅行に劣らない多大な成果を挙げることができた。走行距離は千六百キロに及んだ。
第一陣百九名が一九五五年八月四日、あめりか丸で神戸港を発ち、九月十五日にサントス港に到着したのが「コチア青年」移住の始まり、といろいろな記録に記載されている。その後、六七年までの十二年間に総勢二千五百八名が移住し、広大なブラジルの各地で農業発展に多大な貢献をしてきた。
当初は、パトロンと呼ばれる、主に戦前移住者の指導を受けながら、徐々にこの国の風土や慣習に慣れ、土地勘をも養いながら、自立への道を歩んだ。その途中で挫折した者、帰国を余儀なくされた者、不運に見舞われた者、こころざし半ばにして南米大陸の土に還った者、など異国の地での人生はそれぞれ未知との遭遇の連続であったことは否めない。これはコチア青年だけの特徴ではなく、移民共通の宿命でもあった。それでも、コチア青年は相対的に先駆者(パトロン)に恵まれた、と言っても過言ではない。
そして、今年の九月十八日(日曜日)を吉日と選び、「コチア青年移住五十周年記念式典」を挙行することになった。会場はサンパウロ市から五十キロほど離れているサンロッケ市にあるブラジル日本文化協会(上原幸啓会長)所有の国士舘スポーツセンターだ。
このセンター敷地の中には「コチア青年の森」が造成されている。半世紀を経て、往年の青年のほぼ全員が還暦・古希を迎えているが、〃青年という勲章〃は変わっていない。
北パラナへの親善交流団を乗せたバスは、最初の訪問地、サンパウロ州との境にあるカルロポリスに向けて走った。参加者は、コチア青年連絡協議会会長の高橋一水(高知、一次三回)とマリア夫人、副会長で「コチア青年の森」造成委員長の黒木慧(宮崎、一/一)、山田貢(鹿児島、一/一)、長田朝生(山梨、一/九)、鈴木登茂弥(山形、一/七)、長田朝生(山梨、一/九)、元会長の神取忠(北海道、一/十一)、親善交流旅行幹事役の坂東博之(徳島、二/一)、長尾昭輝(愛媛、二/二八)、および、友人参加の高原長(熊本県)と水戸アイ子(パラナ州アサイ移住地生れ)だ。
高橋一水・山田貢・神取忠・坂東博之の四名は、第一回から連続参加だ。高橋一水は協議会会長として、〇四年十月には訪日して、日本政府や農協中央会などの関係諸機関に招待状を手渡して来ており、親善交流の旅を通して、仲間たちに五十周年記念行事への参加を呼びかける重責を全うしようとしている。
山田貢は最長老組(第一次一回)の一人として、仲間とその家族を五十周年行事に参加を呼びかける責任感にかられて連続参加している。一九八九年から九二年までの四年間、第十八代目の協議会会長として指導力を発揮した神取忠も、節目の記念行事への参加呼びかけを、同じ仲間でありながら、他人にばかり任せてはおけない、と自発的に交流団に参加している。
旅行業者でもなく、団体旅行の手配などをした経験が全くない坂東博之は、柔軟な人柄を買われ、最も苦労の多い幹事役を初回から勤めている。
このような一行を乗せたバスは、サンパウロから四百キロを走り抜け、六日の昼下がりに最初の交流地・カルロポリスで中林良(島根県、二/六)らコチア青年仲間の出迎えを受けた。つづく(文中・敬称略)