2005年8月27日(土)
マリリア日伯文化体育協会(笹崎レオナルド会長)が創立七十五周年を迎え、二十日、同市内の日系クラブで記念式典が行われた。市長、領事館関係者をはじめ約四百人が会場を訪れ、節目の年を祝った。またこの日は、式典にあわせて準備を進めてきた「マリリア日本移民記念館」の開所式も開かれた。来年は日本人入植八十周年を迎えるマリリア日系社会。この日、先人の苦闘の歴史を後世に伝えようとする関係者の思いが一つ、実を結んだ。
好天に恵まれた式典当日、会場にはマリオ・ブルガレリ市長のほか、丸橋次郎サンパウロ首席領事や石橋隆介JICAサンパウロ支所次長など日本政府機関代表、サンパウロ市、近郊の日系団体からも来賓が訪れた。
式典は午前十時半に開始。同文協の大河内ルーベンスさんが司会をつとめた。来賓紹介、日ブラジル歌斉唱に続いて、先人に一分間の黙祷を捧げた。
一九二六年に日本移民の入植がはじまったマリリア。同文協は四年後の一九三〇年八月、戦後に沖縄県人会長などをつとめた城間善吉氏を初代会長に設立された。
ノロエステ沿線からの入植者によりカフェ、綿花の栽培で発展を続け、戦前の四一年には約二千八百家族の日系人が暮らしていた。
戦争中、日ブラジル交断絶にともない、マリリアも日本語禁止の時代を迎える。そして戦後の勝ち負け抗争。同文協が公式な活動を再開するのは五二年になってからだ。八九年にクラブの土地を購入。そして九一年、文協と青年組織など三団体が合併して現在にいたる。
この日オープンした移民記念館には、開拓時代の苦労を詠んだ短歌四首を刻んだ歌碑がある。この日功労者として表彰を受けた坂本清人さんのものだ。そしてポルトガル語で刻まれた、マリリア日系社会の歴史をたどる約二十枚のプレートが飾られている。
プレートには、草分けの入植から文協の創設、敵性国民として様々な規制を受けた戦争の時代、戦後の勝ち負け抗争、そして現在にいたる歴史が刻まれている。訪れた人たちは一枚一枚足を止めて見入っていた。
来賓として訪れた上原文協会長は「七十五年前の貧しい時代に、よく未来を考えたと思う。感慨無量です」と先駆者の功績に思いをはせた。
記念館の除幕式に続いて、関係者、来賓のあいさつ。文協評議会の笹崎寿道会長は、現在にいたる文協と日系社会の歴史を振り返り、記念館設立に尽力した関係者に謝意を述べた。
ブルガレリ市長は、日本移民の同市への貢献を称え、「マリリア全体で祝福したい」と祝辞を贈った。
続いて、市の先駆功労者として、佐藤ハギノ(93、熊本県出身)、高森ミツエ(92、同)、笹崎孝作(88、北海道)、坂本清人(97、熊本県)の四人に花束を贈呈。式典終了後はクラブ内の体育館に会場を移し昼食会が催された。
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記念館の設立が決まったのは二年前。文協役員の多くが五十歳台と若返ったことがきっかけとなった。「私たちの先祖がなぜマリリアに来たのか。何をやったのか。このままでは全部消えてしまう」。発起人の一人、坂本一成さん(七一、二世)を中心に調査が始まった。
研究者の文献や公文書、また、同文協の小針一元会長の協力により戦前戦後の邦字紙などを通じて、マリリア日系社会の歴史をたどっていった。
戦争中の資料が残っていないことにも苦労したという。日本語が禁止された当時、日本語の書籍やドクメントは逮捕の対象になった。これらは警察によって焼かれ、また移民自身によって捨てられもした。「埋めて隠した写真は、戦後掘り出してみるとボロボロになっていました」と坂本さんは振り返る。
式典当日、あいさつに立った坂本さんは次のように述べた。「世代が進むにつれ、記憶は薄れていきます。いま歴史を残さなければ、二十五年後の(文協創立)百周年にはわずかに残ったとしても、二百周年の時には全てが塵となってしまうでしょう」。
調査の結果は、「マリリア日本人入植と団体創設の歴史」として小冊子にまとめられた。五百部が印刷され、関係者などに配布された。
「(調査は)つらくはなかった。大切なことだと思うから」と、坂本さんは二年間を振り返る。そして「僕のミッソンは終わりましたよ」と笑顔を見せた。