2005年9月23日(金)
ローマ法王の服を洗濯した日本人がいる。サンパウロ市でクリーニング店「SAN・TAIO」を営む追田空海雄さん(60、北海道出身)だ。教皇ヨハネス二十三世の法服のクリーニングを引受けた追田さんは研究の末、他店がさじを投げた汚れを落とし、法服を復活させた。洗濯屋で起こった「奇跡」とは―。
本紙連載「日系洗濯屋の歴史」でも紹介した「SAN・TAIO」。全国から依頼の品が届けられる、国内有数の店だ。アルマーニやクリスチャン・ディオールといった有名ブランドがブラジル国内の指定業者として追田さんの店を挙げていることからも、その技術の高さがうかがえる。
追田さんのもとにパラナ州パラナグア市のカトリック教団「INSTITUTO PALAZZOLO」から仕事の依頼があったのは七月のこと。
依頼されたのはカトリックの白い法服。木綿と絹からできており、表面には金の刺繍が一面にほどこされていた。
「持って来た時『これは駄目だ』と思いました」と追田さんは振り返る。赤の裏地から染み出した色が白い表面を染め、金の刺繍は化学反応を起こして青味がかった状態になっていた。
「死んだ人を生かすようなもの。これはなおらない」。訪れた教団関係者に告げると、その女性が口を開いた。件の法服は二百六十一代教皇・福者ヨハネス二十三世(在位一九五八―六三)の法服で、〇四年にバチカンを訪れた際に受け取ったものなのだという。
サンパウロの別のクリーニング店に出したが失敗してしまった。あちこち訪ね歩くうちに追田さんの店の噂を聞き、持ち込まれたのだった。
その法服のある場所を聞いて追田さんは驚いた。パラナ州ウニオン・ダ・ヴィトリア。天理教会に携わっていた父の春雄さんが三十五年前、神殿建築の材料を得たのも同じところだったからだ。
「言葉もよく分からない頃でしたが当時の市長が尽力してくれました。『三十五年前のことが今ここに来ている』と思いました」。追田さんは依頼を受けようと決断する。七月七日、七夕の日のことだった。
既に薬品を使った古い布。作業の途中で水に溶けてしまうか、穴が開いて使い物にならなくなる恐れがあった。繊維関係の技術者に相談しテストを繰り返したが赤色は抜けない。全員の答えが「ノー」だった。
そんなある夜、追田さんの夢枕に白い服を着た男性が現れた。男性はポルトガル語で「どうしてそんなに心配する。Voce sabe fazer.いつもやっているようにやればできる」と追田さんに語りかけたという。そして二十三日、作業は朝から始まった。
法服の上にかける「エストーラ」と呼ばれる、六十四グラムの細長い布。湯に薬品を入れ、通常なら三十分程度で終わる作業だ。しかし色は落ちない。再び薬品を足すがやはり駄目。作業を繰り返すうちに四時間が過ぎていた。
「もう少しやってみよう」。再び薬品を入れ、他のシミ抜きの作業を終え戻ってきた時だった。器のふたを開けると「朝日が上るように」エストーラから赤い色が細い糸のように出てきたという。「その時の感激といったら」と追田さんは声を高める。
「すごい声で怒鳴ったらしいです」。事務所にいた夫人と長男が何事かと飛び出してきた。汗だくの追田さん。涙が出ているのかもわからない。
染み込んだ赤色はきれいに抜けてきた。仕上げが終わった時、四時間二十三分が過ぎていた。乾いたエストーラは、白は白色に、金の刺繍は元の金色に戻っていた。翌日、追田さんは墓参に出かけたそうだ。
元に戻ったエストーラを見て教団関係者は法服本体(カズーラ)のクリーニングも依頼してきた。六十四グラムの布で四時間以上。服全体では何日かかるか想像もできない。「これから一大仕事だ」、家族四人で取り掛かった。
ところが、今度は作業をはじめるとすぐに色が抜けはじめ、一時間で仕上がってしまった。薬品も前回の半分以下しか使わなかったという。
八月二十四日、シスターと教団関係者が追田さんを訪ね、感謝状を贈った。感謝状には法服の写真とともに、教団からの感謝の言葉とヨハネス二十三世が残した十か条の教えの言葉が記されている。
追田さんは結局、クリーニング代を受け取らなかった。その代わり、来月に行われる娘さんの結婚式で、司祭がその法服を着て式を執り行なうことが決まった。「光栄ですね」、追田さんは嬉しそうに語る。
同教団では、今回の一連の出来事を「奇跡」としてバチカンに申請することにした。追田さんだけでなく、法服に関わった人たちの手紙や身の回りに起こったことの記録がバチカンに収められるという。