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移民がみた『ハルとナツ』=現実はドラマ以上!?

2005年10月12日(水)

 現実はドラマよりもっとドラマティック――。NHK開局80周年記念番組『ハルとナツ~届かなかった手紙~』が2日から6日の5日間にわたって放映された。2008年の移民百周年を目前に控えた現在、日本で初めて、ブラジル移民について大きく取り上げたドラマとして注目を集めている。取材した十数人からは、「苦労したところばかり見せている気がする」「この話そっくりだった」「あんな綺麗な小屋なんてなかった」などいろいろな声が寄せられた。現実の移民たちもドラマ以上の困難を乗り越えたすえ、現実に「今はやっぱりブラジルがいい」との心境に達したものも多い。この大地に根をはった一般移住者が観たドラマの感想とは―。自身の経験と重ね合わせて、渡伯から入植、現在のブラジル生活までを振り返った。

 ハルナツ感想
◇平井博子さん
65歳、二世、バストス出身、サンパウロ市在住
「姉さんは三、四年で帰るゆうてたのに捨てられた」
 「このドラマそのまんまでびっくりしたよ」。二世の平井博子さん(65)は両親の体験をドラマのストーリーに重ねあわせて驚く。 
 父が一九三〇年に、母はその五年後にバストスに入植した。「母は妹を残してブラジルに来た。三、四年で帰るつもりだったけど子どももできて、お金が残らなくて帰れんかった」。
 母は女学校に通っていたため、田舎の生活にもなかなか適応できず、毎日「帰りたい」と泣いていたそう。十年後、サンパウロに移り住み魚屋などをしていた。
 ドラマを見て、あらためて思った。「やっぱり母の言う通り、移民は苦労したんだね。夜逃げする人も多かったって。私は五歳でサンパウロに来たからあまり実感は無かったけど…」。
 何年か経ち、平井さんが日本にいる母の妹を訪れた時は「姉さんは三、四年で帰るゆうてたのに捨てられた、って言ってた。だから私が訪問するのもあまりいい気はしんかったみたいね」とドラマの設定と同じような当時を振り返り、「日本にいる日本人がどういう感想を持つかが気になる」と話した。
◇細樅良盛さん
ほそもみ・よしもり、83歳、1959年渡伯、鹿児島県出身、サンベルナルド・ド・カンポ市在住
「我々、苦労するために生まれてきたようなもんです」
 サン・ベルナルド・ド・カンポ市郊外の山奥にある家で熱心にドラマを鑑賞する細樅良盛さん(83)。一九五九年、あめりか丸で渡伯し、ブラガンサ・パウリスタに四人の子どもを連れて入植した。「ブラジルで一生暮らそう」という決意でバタタ(じゃがいも)の栽培をした。
 「自分の経験と重なるところがあって、どうもこれ観てたら涙が先に出る」。ハルの兄が亡くなる場面を観て「私もこっちへ来てたった三ヵ月で子どもを一人、欠水病で亡くしてしまった。このドラマと同じように医者がいないし言葉がわからないし困った」と当時を思い出す。
 「ブラジル国内で皆、最低十回は移動してるよ」。バタタ栽培は思ったより上手くいかず、現在住んでいる市で二十五年間トマト栽培をした。「これまたドラマと一緒で雹にやられたこともあった。五分間降り続いた後、これを腰が抜けたというのか、と実感するくらい呆然としたよ」と話し、「でもこんなの人並みだったさ。我々、苦労するために生まれてきたようなもんです」ときっぱり。
 また、ハルの父がしきりに「私は日本人だ、日本人の誇りを持っている」と主張する場面では、「ヨは日本人という誇りを持っている。今でも持っている」と語気を強め「今の日本は個を主張しすぎだよ。個人一人では生きていけない。個人の集合が国だ。世の中のためになるような人間にならないとだめだ」と一喝した。
 「このドラマは苦労したとこばかり見せている気がするけど、育てた作物が実った時とか、物事を成し遂げた喜びもたくさんあるんですよ。大きな木の根を掘る場面では開拓の嬉しさを思い出した。私もやったよ」と当時を振り返り、「こんな風に吉と凶の繰り返しで今の日系社会ができたんだよ」。
◇守屋保尾さん
80歳、1926年渡伯、長野県出身、サンパウロ市在住
「(母を)日本に残った兄に会わせてあげたかった」
 「母はいつも瞼に息子を描きながらブラジルで働いてた。病気でもどんな姿でも日本に残った兄に会わせてあげたかった。母さん、と言って抱きしめてあげて欲しかった」と涙ぐむ守屋保尾さん(80)は、一歳のとき、兄弟四人を日本に残し両親と姉とアリアンサ移住地に入植した。
 「母は何とかしなきゃいけないって、農業もやったことないのに苦労してた。カフェも採れるようになったと思ったら霜にやけて、採れたと思ったらカフェの値段下がって。いいことなんてなかったわよ」。働いても日本に帰れる状況ではなく、結局はサンパウロ市に出てきたという。
 戦後、日本にいる兄弟から届いた葉書に、「悪夢から覚めた日本は」という記述があったことに驚いたと言う守屋さん。敗戦の知らせを聞いた日は父と一緒に泣いた。「父は軍人だったからショックで仕事ができないほどでした。このドラマに出てくるハルの父の気持ちもよーくわかりますよ。負けてるってわかってても口に出すのが辛かった。日本人の意地で負けたと子供には言いたくなかったのでしょう」。
 その後、父は帰国し、五十年ぶりに息子たちに会えた。「兄弟はブラジルまで自分らを捨てていかんでも東京で頑張ってたら、家族が離ればなれにならんかった、って両親を恨んでた。でも、ブラジルでどんな苦労したかわからん」と当時を思い出す。
 父が息子たちと再会したときは、「母を連れてこれんで申し訳ない」と詫びていたという。「私が母を会わせてあげたかった。何とかして日本に帰してあげたかった」。
◇猪野ミツエさん
80歳、和歌山県出身、1953年渡伯、サンパウロ市在住
「日本にずっと帰りたかったけど、家族のあったかさはブラジルにある」
 「苦労もいっぱいしたけど、今が一番幸せ。孫にかこまれて、日本よりブラジルがいいって思う」。ドラマの結末はハルが「今はやっぱりブラジルがいい」という心境になり、ナツもブラジルへ来て一緒に住むというところで終わる。
 猪野ミツエさん(80)は一九五三年、十年経ったら帰国するつもりで二人の子どもを連れて来た。マット・グロッソ・ド・スール州のドウラードスに入植し、カフェ栽培をしていた。「もう子どもいたし泣いてる暇なかった。自分はどうでもいいから何としても子どもは学校へ行かせてあげたかった」と話し、「ナツも一人で強く、日本人という誇りを持って生きていったんだということをブラジルにいたからこそひしひしと伝わってきた」と言う。
 二十九年ぶりに帰国した際には「日本にいる日本人より、私らの方が日本への愛着を感じた。愛国心って言うんでしょうか」。
 また、「ハルとナツが神戸港で引き裂かれる場面、あんな手が触れられるまで近くにいけるわけないよ、ありえない」と笑い、「私らは着るものもろくになかった。言葉にも苦労した。このドラマみたいに綺麗な小屋なんてなかったよ。ドラマだから仕方ないけど」と自身の入植当時との違いを話した。
 「今は日本へ遊びに行くのはいいけど住むのは…。日本にずっと帰りたかったけど、家族のあったかさはブラジルにある。孫ができてからは報われたと思った」と考えの変化を話した。
◇玉井須美子さん
79歳、愛知県出身、1933年渡伯、サンパウロ市在住
「とうとう日本にいる兄弟に会わずに亡くなったよ」
 「このドラマはハルとナツが出会えるだけ幸せなんです。最後にはナツがブラジルに来るし。兄弟が会えずに亡くなる人も多いんですよ」。一九三三年に両親と兄、姉と渡伯した玉井須美子さん(79)は思いを話す。
 両親は、日本で絹織物を製造していたが店が破産して渡伯することを決意したという。「農業なんてやってなかったから苦労したのよ。でも両親の苦労のおかげで幸せなんですよ、今はこんなにいい生活ができるとは思わんかった。感謝しています」と笑う。
 両親を日本へ帰してあげようとしたが、「みんな大きな夢持ってきてるからね。錦を飾って帰国するという誇りを持ってたから帰らなかった。とうとう日本にいる兄弟に会わずに亡くなったよ」。
 終戦の時、玉井さんは二十歳だった。「正直、ほっとした。父はアメリカに勝てるわけないって言ってた認識派だった」。四十年ぶりに同船者が父を訪ねてきた時は、「その人は勝ち組だったから父とは話が合わずに、気まずかったよ。四十年ぶりに会ったのにねぇ」。