原告主張認めて/今さらね=在伯転住者の見方は
2005年10月19日(水)
「原告の人達を認めてあげてほしい。可哀想ですよ」。現在、イタペチニンガ市で農業を営む、坂下義弘さん(57、石川出身)は話す。
一九五八年に家族五人で国境から五キロのアグア・ネグラ移住地に入った。
原始林のなかにまで石灰石の岩山があるような土地。機械が入らないため、全て手作業でカフェや豆を作った。
当時十歳だった坂下さんは、契約内容や移住のいきさつには詳しくない。
「でも、よく考えたらあんなところで農業ができるわけがない。両親は(ドミニカに来たことを)後悔してましたよ」
最初の二年間はドミニカ政府から生活費が支給されていたが、その後「食べるにも困る」ほど、生活苦にあえいだ。六三年、日本政府からブラジル転住を聞き、ドミニカを後にした。
「全部の移住地が(ハイチとの)国境沿いにあった」。日本人が堡塁として利用されたのでは、との不信が今もある。
八巻茂さん(84)タツさん(79)夫婦は福島県出身。一九五七年に子供二人を連れ、約百五十家族が入植したダハボンに入った。
「水田地帯と聞いてきたけど、水がないからどうにもならんかった」と茂さんはいう。日本で聞いた十八町歩は夢の話。与えられた土地は一町歩にも満たなかった。
「僕の入ったところは地主がいる土地で地権はもらえかった。つまり、外務省や農林省は何も調べてないわけ」
灌漑施設もなく、わずかな土地で米作りを六年余。収入もなく、「「何とか食べるだけ」の生活が続いた。
そんな中、領事館の職員が八巻家を訪れ、転住を促した。
「日本にはもう帰りたくなかったし、ドミニカではらちがあかんかった」。来伯後、移住地を転々とし、現在はイビウーナに住む。
今回の結審について、タツさんは「残った人にも事情があるし、出た人も努力した。(裁判は)関心ない」と淡々とした口調でいう。
「今さらね…」と苦笑を漏らす茂さん。「(ドミニカを)出るときにもう諦めましたよ。日本政府は何もしてくれんかったもんね」