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アスパーゼ植民地出身者集う=「養蚕村」の夢、回顧=昨年50周年=サンパウロ州初の計画移民=桑苗35万本、育たず

2005年10月27日(木)

 かつてブラジルに「養蚕村」の建設を目指した人たちがいた。サンパウロ州モコカ市に開かれたアスパーゼ植民地。戦後のサンパウロ州で初の計画移民として海を渡った養蚕移民の入植先として、最盛期には六十六家族の日本人が暮らした。昨年入植五十周年をむかえたこの土地には、今も三家族が残っている。九月のある日、近郊のイトビ市に暮らす植民地出身者の呼びかけで、かつての仲間たちが集った。
 「こんなに小さかったかしら?」。五十年ぶりにかつての我が家を訪れた谷脇カツさん(61、ミナス州ツルボランジア在住)はそう言って、目の前の家を見つめた。五五年の入植以前からあったという平屋建ての家。七十年以上は経っていると聞いたが、外からではそんなに古いようには見えなかった。
 九月のある日曜日、アスパーゼ植民地を訪ねた。サンパウロから北へ二百六十キロ、ミナス州境のほど近くにあるこの植民地は昨年、入植五十年を迎えた。半世紀を経て、入植者は各地に散らばっていた。地元の新聞は五十年を伝えていたが、植民地では特別な行事は行わなかったという。
 パウリスタ養蚕協会(Associacao Sao Paulo Sericultural)の頭文字から名づけられたアスパーゼ(ASPASE)。かつて、この地に「養蚕村」を建設しようと夢見た人たちがいた。
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 コチア青年に一年先立って始まった養蚕移民。サンパウロ州への日本からの計画移住が認められていなかった戦後の時代に、初めての職能計画移民として導入され、戦後移住への道を切り開いた。
 第二次大戦後、ブラジル国内の製糸産業は戦争中の増産体制の反動から大きな打撃を受けていた。そうした状況の中、五二年にパウリスタ養蚕協会が設立された。同協会の九〇%を占めていた日系の養蚕農家は、日本から新たに移民を導入して養蚕技術の向上をはかることを要請。連邦移植民審議会の認可を経て、五三年三月、日本人養蚕移民二百家族の導入枠が許可され、サンパウロ州への移住再開の道が開けた。
 その後、五九年までに約千二百六十人が養蚕移民として海を渡った。協会はさらに五百家族の認可を得たが、日本の経済復興と海外移住熱の低下により、六三年までに六十一家族が渡伯するにとどまった。
 移住者はバストスやバウルー、アリアンサなど州内各地に入植。アスパーゼには四十二家族が入植した。
 養蚕協会はモコカ市近郊に五百四十アルケールの土地を購入。五四年一月、植民地の定礎式が開かれた。養蚕振興に加え、製糸工場の建設まで視野に入れた植民地だった。そして五四年九月、第一陣三家族が到着する。
 この前年の五三年、サンパウロ産業組合中央会により、パウリスタ線ガリアの小川高明氏宅でモコカ産業組合が設立されている。組合員三十人。理事長にリンス在の養蚕家、牧野守一氏、常務理事に小川氏、そして当時ブラジル有数の養蚕家だったガリアの山本繁夫氏が専務理事を務めた。
 小川氏は測量のため翌年二月から現地入り。さらに受け入れ準備のため州内から十四家族が入植した。瓜生三郎さん(三三年渡伯、85、福岡県出身)もその一人だ。蚕を卵から返し育てる稚蚕(ちさん)を担当した。「最初に来た人の中には養蚕を見たことがない人もいましたよ」。
 当時の日本は、敗戦による経済の混乱と失業、そして外地からの引揚げの時代。「戦争中アジューダできなかった代わりに、焼け石に水だけどお役に立てればと、そんな協会の気持ちから始まったんですよ」、と瓜生さんは語る。
 開設にあたり、州の蚕糸局は桑の苗十万本を植民地に寄贈。これに組合員の用意した苗を加え三十五万本の桑苗が植えられた。ところが、桑が育たなかった。
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 五十年ぶりに自分の家を訪れた谷脇さん。かつての我が家には今、地元のブラジル人が暮らしていた。
 十歳で入植して、二年間を過ごしたアスパーゼ。「あちこち移ったけど、最初に来たところだから。第二の故郷と思って」、前夜の同窓会で、谷脇さんはそんな風に話していた。
 「こんなに小さかったかしら」。小雨の降る九月の日曜日、谷脇さんは兄の和夫さんと、家の前で写真を撮った。    つづく                                         (松田正生記者)