2005年10月29日(土)
戦後の勝ち負け抗争を描いたノンフィクション『狂信』(高木俊朗著、一九七〇年)。その中で移民史映画の制作会社社長、宮村季光さん(故人、熊本県出身、すえみつ)がいかがわしい土地売りだと描かれた。同氏は日伯両国で起こした裁判の結果、名誉をほぼ回復している。息子の秀光さん(61、企業家、二世)がこのほど、父親の日記や随筆などを元に、まずは日本語で季光さんの半生をつづろうと、準備にとりかかった。
父、季光さんは一九三二年、十九歳の時に家族の呼び寄せで移住した。コロノ生活などを経て歯科技工士になり、地方の無医村地帯を回った。
戦後間もなく「できるだけ安い値段で日系人に土地を譲りたい」と思い立ち、一九五〇年前後にパラナ州で宮村植民土地会社を立ち上げた。州政府に掛け合い、ウムアラマに六万アルケールの払い下げを受けることに成功した。
コロニアに名が売れていく中で、移民四十周年を記念した映画制作に出資してくれという依頼が入ったという。その結果、「半額の五、六千コントスを父、残りの額をコロニアが集めるという契約を結んだ」(秀光さん)。
制作会社トーキブラスの社長に、季光さんが就任。監督・脚本・俳優などを一九五二年三月に日本から呼んだ。その中の一人が高木氏だった。脚本取材のために約七カ月滞在し、帰国後、朝日新聞社から七〇年に『狂信』を出版した。
当時、宮村さんの会社に激震が走っていた。州知事選で、与野党が逆転。新州政府が土地の払い下げ契約を打ち切ったのだ。同社が道路整備などを進め、既に三百家族ほどが入植していた。
秀光さんは「多くは年賦で、土地を購入しました。支払った分だけの土地を譲るということになったそうなんです。みんなかんかんに怒りましてね」と唇を噛んだ。契約を一方的に破棄するのは違法だと、季光さんは後に州政府を相手取って訴訟を起こし、勝訴することになる。
『狂信』では新聞記事や人の証言を引用して、季光さんが詐欺を行っているように描かれた。「父が日本で裁判所に訴えたのが一九八五年。書籍が発刊されて、十五年後のことでした。世間から冷たい目でみられ、もう我慢できなくなったのでしょう」。
出資した金額も「払い込まれていない」とつづられている。秀光さんは「出来上がってきた脚本は戦勝派に偏っていたので、敗戦派の意図に合わないものだった。そのため、コロニアでスポンサーが集まらなかった」と主張する。
ブラジルでの訴訟で勝ったことで、日本の裁判にも有利に働き、長年の汚名をほぼ晴らすことができた。しかし裁判の詳細について、あいまいな点も少なくない。そこで秀光さんが書籍に残そうと決意した。
季光さんは先の戦争前後に詳しい日記を残しているなど、文章を結構書き残しており、それらを元に歴史を検証する考えで、来年に日毎叢書企画出版から刊行する見込み。まずは日本語で出版、将来的にはポ語でもと考えている。
秀光さんは「日伯両語で出すつもり。父の名誉をきちんと残すために日本語で書いて、当時のことを知るコロニアの人々に呼んでもらいたい」と意欲を燃やしている。