2005年11月8日(火)
イタケーラ植民地入植八十周年記念式典が六日、イタケーラ区の同日系クラブ会館で開かれた。サンパウロ市近郊農業の先駆けとして同市の発展とともに歩んできた植民地。戦後は桃の栽培で知られ、いまも百二十五人の日系家族が暮らす。当日は植民地内外から約七百人が、かつての「桃の里」に集い、旧交を温めた。
サンパウロへの食糧供給地として、戦前からトマトやイチゴを栽培。入植当初はカンタレーラ市場で作物を販売し、食糧や日用品を買う日々が続いた。
戦後は桃栽培、養鶏が盛んに。中でも桃栽培は有名で、四九年から開催された「桃祭り」は、国内の農産展の先駆けで、「桃の里」(Terra de Pessego)として全国に知られた。
最盛期には三百三十家族が暮らしたが、都市化の流れの中で人口が流出。現在は花卉栽培などが中心となっている。
式典に先立って午前九時半から、ブラジル仏教連合会により先没者の慰霊法要が営まれた。
読経が流れる中、出席者の焼香。続いてイタケーラ老人会「寿会」の小坂誠会長が追悼の言葉を読み上げた。
小坂会長は、痩せ地で試行錯誤を繰り返しながらトマトやイチゴ、桃などの特産物を生み出す一方で、子弟の教育に力をそそいだ先人の努力を称えた。
三六年に設立された日本人会は戦中、共済会と名を変え、八一年からは日系クラブとして現在にいたっている。小坂会長は「会員の中から立派な人材が選出され運営していますのでご安心ください」と祭壇に語りかけ、先人の御霊に謝意を表わした。
式典には、西林万寿夫在聖総領事はじめ日本政府関係者、サンパウロ市議や日系団体代表者、またサンパウロ州農業連盟(FAESP)の代表など農業関係者も来賓として列席した。
冒頭あいさつに立った井上イザキ・日系クラブ理事長は、連邦政府の畜産技師として植民地開設に携わった故・石橋恒四郎氏をはじめ、イタケーラの日系人のため奮闘した今は亡き先人たちの功績を称えるとともに、同地の今後の発展を誓った。
続いて祝辞を述べた西林総領事は、日本人集団としては初めて自力でブラジル学校を開設した先駆者の教育への情熱に敬意を表し、これからも若い世代がブラジル社会、日伯の緊密化へ貢献してほしいと期待を寄せた。
日本移民百周年にも触れ「百周年を大きな契機に、人と人との結びつきに日系人がより大きな役割を果たすことを期待しています」と言葉を贈った。
この日の式典では日本人会、共済会、日系クラブの歴代会長三十七人に、記念のプラッカが贈られた。戦前、戦中、戦後の各グループに分かれて壇上に上がり、本人と、故人の場合はその親族に来賓から手渡された。さらに、一九二五年にイタケーラに入った草分け入植者四人に対しても、クラブから記念のプラッカが贈られた。
また、八十年の節目にあたり、教育や医療、農業など植民地の発展に貢献した功労者八人にサンパウロ市議会から記念のメダルが贈られることになり、市議会での授与式を前に会場で一人一人に記念品を贈呈した。
入植三十周年を迎えた一九五五年に共済会会長を務めた故・森田久司さんに代わってプラッカを受けた、けさ子夫人は現在九十七歳。この日は車椅子を使いながらも元気な姿で会場を訪れた。「身に余る光栄です」。授与式を終え、壇上から降りたけさ子さんは喜びの表情を浮かべていた。
歴代会長を代表して勝野寿男さん、功労者を代表して同地で診療所を営む中村エリオさん、初期入植者を代表して菅谷さんがそれぞれ謝辞を述べた。
式典終了後は、婦人部の女性を中心に記念のケーキをカット。来賓による鏡割りに続いて祝賀昼食会に移った。午後からは記念のアトラクション。琴や太鼓の演奏、日本舞踊など、夕方まで各種の出し物が披露された。