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円売り問題=私のスタンス=作家=醍醐麻沙夫=連載(1)=知られざる水本像

2005年11月15日(火)

 私の四年ほどまえの旧稿にたいして高橋さんの文章を拝見しました。
 あの旧稿は「コロニア史検証・1」という副題がしめすように、過去のいろいろな問題について反対意見なども頂きながら議論を深められたら、という意図ではじめたのですが、発表したらいきなり「醍醐は誰それから金をもらって書いたのではないか」などと書かれ、すっかり嫌気がさし、ブラジルの日本語社会でこういう問題を論じることに、まったく興味を失いました。
 その同じグループから再燃した話だと高橋さんも書いているし、したがって、せっかくですが高橋さんの論にたいしても私の反論はありません。
 ただし、これだけのコメントでは失礼ですから、水本さんのことや、コロニア史全体のなかで円売り問題をどの程度の比重でとらえているかなどを、この機会に述べたいと思います。この問題をあらためて議論をするつもりはないので、論点の一つ一つにたいする直接の答えにはならないかと思います。
 最初に、今までほとんど語られたことのない水本像について触れさせていただきたいと思います。
 水本さんは若いときはけっこう悪坊主だったらしい。それが年齢とともに人間的に成長した人です。だから若いときの氏しか知らない人は悪く言うし、成長したあとの水本さんと付き合いがあった人はその人物を認めています。
 これだけなら別にどうと言うことはないが、アンチ水本派にとっては水本さん寄りの発言をするのは彼から金銭的な恩恵をうけた人物だときめつける傾向があり、これが困ったことです。
 私はブラジルにいながら日本の作家の末席につらなったという経歴がめずらしかったせいか、当時のコロニアの中枢におられた多くの方とお付き合いをいただきました。水本さんもその一人です。
 水本さんと私は新聞社主と物書きの関係でしたが、金銭的関係は一切なく、気持ちのよい付き合いをさせていただきました。私の代表作となった「森の夢」をサ紙に連載したときでさえ、原稿料なしだった。これはいくらか極端で、このことでは水本さんに貸しがあると思っています。(まあ、貸しというのは言葉の綾です。本当のことをいうと、平野植民地のことを調べているうちに、マラリアなどで亡くなった人たちが「自分たちのことを書き残してくれ」という声が頭のなかに聞こえはじめ、誰に読まそうとか自分の生計のこととか一切考えずに書きました)
 サ紙の競争相手の邦字紙が経営困難になったとき、水本さんは回転資金を援助したようですが、その噂を聞いた私が「あの新聞は水本さんの悪口ばかり書いているのだから、水本さんにしたら無くなっても構わないでしょう」と軽口めいて言ったら、彼はキッとして私をたしなめた。
「醍醐さん、世の中は目明き千人、盲千人といいますが(当時の言い回しなので、そのまま使います)、自分に都合のいい事ばかり言われている世の中がいい訳ではない。見る人はチャンと見ているのです。あの新聞が自分の悪口を書くかどうかは関係ありません。コロニアには新聞が三つあったほうがいいと思っているので援助するのです」といった。
 そのような人だったから、若輩の私にとって教えられることもあり、ずっと付き合わせていただいた。
 円売りというとなにかコソコソした売買の印象をうけますが、戦前の新聞には「円、売ります。買います」という広告は珍しくなく、水本事務所としての広告もたくさんある。つまり、今とおなじように両替を扱うところは幾つもあり、戦争中も商売は続けていた。ところが、そういう人たちは無名で終わり、水本さんだけが著名人になったので、後になって、なにかというと水本さんだけが攻撃された、という側面があります。
 だから両替をしていた多くの人の名や具体例を挙げて「そのなかで水本は云々」というのなら分かるけど、徹頭徹尾、水本さんの名しか挙げないというのでは、たんなる個人攻撃で、歴史の議論としては成立しないと思っています。水本さんが亡くなってもう十数年たつので、いまさら水本派、アンチ水本派でもないと思うけど、残党というのはいつの時代にもあって、そういう口論には加わりたくないのが私の本音です。