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「移民歓送の歌」で行くふるさと巡り=連載(下)=同航者と再会できる喜び=グァタパラ=墓地で先没者慰霊法要

2005年11月26日(土)

 一九一八年に渡伯した山下雪雄さん(89)は、リベイロン・プレット市から約二十キロ離れたクラウビーニョスに入植した。祖父の病気のため、一時帰国したが、一九三〇年に再度ブラジルに渡り米作に従事した。その後、ドゥモンに三百アルケールの土地を買い、落花生なども栽培した。カフェ栽培を経て砂糖きびに切り替えた時期もあった。また、ゴイアスなど全部で四つのファゼンダを買った。政府に五千俵のとうもろこしの種子を売ったこともあった。
 「移民発祥の地」市条例制定一周年記念式典の締めくくりには「ふるさと」を合唱し会場をあとにした。
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 前日の夜から降り続いた雨も上がり、二十日、一行はグアタパラ移住地へ。一面に広がる砂糖きび畑には晴れ間から光が降り注ぐ。グアタパラ農事文化体育協会に到着したとたん、一行は去年創設された小泉首相の揮毫碑を取り囲み、小泉首相が同地に降り立った話で持ちきりになった。
 「グアタパラ移住地は第一回笠戸丸移民配耕の地にして、ブラジルにおける日系コロニア発祥の地なり―」。川上淳会長は、入植十五周年を記念して一九七七年に創設した拓魂碑の由来を読み上げた。現在、墓地には約八十体が埋葬されている。一行はそれら先没者の慰霊法要を行い、静かに焼香の列についた。
 「今日はとっても感動しました。兄も喜んでいるでしょう」と涙ぐむのは藤井三重子さん(74、二世)。母親が同地に入植。生まれたばかりで亡くなった兄が旧墓地に埋葬されていたが、時が経つにつれ手入れもされなくなり、どこに埋まっているかわからなくなった。
 しかし、戦後初めての犠牲者を旧墓地へ埋葬しに行った際、川上会長らが「なむあみだ佛」と書かれた墓石のかけらを見つけた。それがきっかけでそこを掘り起こし、何体かの頭蓋骨を現在の拓魂碑に埋葬した。三重子さんの夫、馬場バティスタさん(77、二世)も「そんなこと知らなかった。そこに妻の兄も埋まってたんでしょう。本当にありがたい」と感謝の念を表した。馬場さんの父は東京植民地の建設者。州政府が格安で土地を売り出した一九一五年にそれを買った。
 現在、同文協では百周年に向けて一九〇八年以前にブラジルを視察し「ブラジル移住は日本人の幸せだけではなく全人類の幸せだ」と説いた根元正顕彰碑の建立を希望している。日本ではすでにそれに向けて積極的に動いているそう。また、新田築副会長の説明によると、年代は不明だが、戦前に建設されたシネマ館と一八九四年に建設されたコーヒー精製所周辺を自然公園にするよう、州政府に提案しているそう。
 「会えたらいいけどねぇ」と心配していた東きみこさん(83)は、グアタパラに移住した同船者に会うため、ふるさと巡りに参加した。一九六〇年に着伯して以来別れたきりだ。「会えてよかった。元気そうで」。鳴海吉雄さん(77)も三人の同船者との再会を果たした。「四十三年ぶり。同船者ってだけで近く感じるのに皆同じ年齢でなおさら。嬉しいね」と懐かしんだ。
 最後は「移民歓送の歌」「ふるさと」を熱唱。「歌いながら胸が熱くなった」という多川富貴子さん(69)は、ふるさと巡りの参加が十五回目となる。「移住者の足跡を辿って現地の人と交流する。いつも美しい元気をもらえます」。
 一行は「もっと話したい」名残惜しそうにバスに乗り込んだ。途中、サンタ・リッタ・デ・パッサ・クワトロ市ヴァスヌンガ州立公園を訪問。樹齢三千年のジュキチーバ・ローザというブラジルにしかないといわれる木を見学し、帰路についた。(おわり、南部サヤカ記者)

■「移民歓送の歌」で行くふるさと巡り=連載(上)=カフェ園は変わった=リ・プレット=移民発祥の地の感慨