六十四年前の八日、真珠湾攻撃により、太平洋戦争がはじまった。ブラジル時間では一九四一年十二月七日夜、サンパウロ市ピニェイロス区にあった暁星学園と勤労部は学芸会を楽しんでいた最中だった。同年八月には邦字紙が軒並み停刊、廃刊したばかりだった。暗い時世の一服の清涼剤ともいうべき催しで、近隣日本人住民までこぞって見にきた。十一月二十六日に行われた合同同窓会の機会に、当時の様子を聞いてみた。(深沢正雪記者)
山本五十六連合艦隊司令長官は日本時間十二月八日午前一時半、真珠湾に向け攻撃隊を発進させた。一時間五十分後、淵田大佐機から暗号電文「トラ・トラ・トラ」(我奇襲ニ成功セリ)が打電された。
ブラジル時間の七日夜、サンパウロ市ピニェイロス区にあった暁星学園では、年に一度の学芸会がにぎやかに行われていた。
月の砂漠をはるばると旅のラクダが行きました――。その日、六年生の出し物は「月の砂漠」の踊りだった。当時十二歳だった大原房子さん(77、鹿児島出身)は思い出す。
「学芸会のあと岸本先生は突然みんなを集めて、深刻な顔をして言いました。『ちょっとみなさん、静かにしてください。ただいま日米戦争が始まりました』。みんな『大変だーっ』と大騒ぎになりました」。
あのとき一緒に踊ったメンバーは今回二人だけだった。「学芸会は評判だったので、仮設テントまでいっぱいでした。何もない時代でしたから、学芸会でもとても楽しみにしてたんですよ」。でも、開戦を境に状況が一変した。「子どもながらに心配しました。ブラジルは敵国になってしまったと」。
サンパウロ市内の静岡県人会で行われた暁星学園・勤労部合同同窓会には約百二十人が集まり、思い出話に花を咲かせた。当時を思い出し、全員で「月の砂漠」を合唱した。
岸本昂一さん(新潟出身、一八九八―一九七七)がリンス近くのウニオン植民地の小学校教師をしていた当時、サンパウロ市で教育を受けさせたいが、つてがないし、資金もないという要望をたくさん聞いた。ピニェイロス区に暁星学園を創立したのが三二年。実際は三三年から学費を払う寄宿生を受け入れ、そこで日本語などを教える形で一期生の教育がはじまった。
さらに三七年頃、資金的な余裕のない苦学生のために昼間賃仕事をしながら、夜学に通う勤労部を作った。主に男性を対象にした洗濯部、女性中心の裁縫部だ。五五年から七三年まで裁縫部教師をしていた大橋恵子さん(68、二世)は「(裁縫部だけで)多いときで四十人ぐらいいました。午前中は裁縫技術を教える授業、午後は実地の仕事、縫い賃をもらい、夜学へ通う生活です」と説明する。
勤労部では毎朝、五時半起き。土日関係なく、トイレを含む掃除、食事は全て当番制だった。月曜朝は特別に五時起床で、岸本先生の短い講話を全員で聞いた。規則では「どんなことがあっても二年間やり抜くこと」とある。この厳しい共同生活に耐え、多くの著名人が誕生した。
現役では杉尾憲一郎(元USP地質環境学教授)、加藤太郎(CRIS METAL社)、坂本・久場・綾子(コレジオ・ブラジリア校長)らをはじめ、過去には故人の京野四郎(州議)、内山良文(州議)、水本毅(リベルダーデ商工会会長)、谷垣恭巳(パウリスタ新聞社長)らを輩出したことで知られる。
父の方針で自らも勤労部に入った、長男の岸本ルイスさん(81)は同窓会で、「一緒に苦労して勉強したからこそ、こうやって集まると楽しいんだよ」と微笑んだ。 (つづく)
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