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『ハルとナツ』第4回に感動=岩手県人会に届いた=苫米地静子さんの手紙=連載(上)=姉妹の父親の言動に=新たな心のうずき=亡き夫も勝ち組だった

2005年12月15日(木)

 パラナ州パライゾ・ド・ノルテに住む苫米地静子さん(90、岩手県花巻市出身)が、さきごろ鑑賞したNHKドラマ「ハルとナツ~届かなかった手紙」について感想文を書き、岩手県人会に送付してきた。その中で苫米地さんは、亡き夫が「勝ち組」であったことを記し、日本人として熱く生きた当時のことを思い起こしている。ドラマをみる前、岩手県人会の畑勝喜さんら「県人パイオニアを訪ねる旅」取材班は苫米地さんに話を聴いているが、そのときにはふれなかった。ドラマをみたことによって、戦中、戦後の激動時代が次々と蘇(よみがえ)ったものと思われる。文の最後に「私も日本人だ、と強く思う」と書かれている。以下感想文の全文を紹介する。
     ◇
 先日、ご恵贈いただいた「ハルとナツ~届かなかった手紙」のビデオテープを観てすっかり感動し、まるで虜になったように、立て続けに繰り返し鑑賞いたしております。毎日が観る方に忙しく、その感想を書くことを忘れておりましたが、これではならじと気づき思いつくまま書いてみようと思います。
 さすが、NHKが放送八十周年記念作と銘打っただけあってドラマの筋といい、規模の大きさといい素晴らしいもので、戦前のブラジル移民を主流とする異色の大作として日本人たちの紅涙を絞ったことは確かに頷けます。
 だが、それはあくまでも当時の移民を知らない人たちが観てのことで、我々生き残りの移民一世から言わせれば、移民生活に関する限り至って物足りない作品です。「我々の味わった苦労はあんなものではなかった」「こんなことであの頃の移民の辛さを代弁されてたまるか」の感も湧いてきました。
 主人公のハルと私は、年齢こそ一回りも違いますが、渡伯の年もやや同じ、月も桜咲く春の四月、配耕先も同じくモジアナ線の旧耕地。黒人の監督が、ピストルを腰に新移民を虐める所も全く同じせいか身につまされることばかりで、泣きもっぱらで観ました。
 二度と思い出したくもないあの頃だったのに、時が経てばその苦さも甘い思い出に変わるものか、不思議となつかしさで胸が熱くなりました。
 画面の上で随分、矛盾錯誤も感じられましたが、それは「移民」の体験のない作者が後世の話をつなぎあわせて作ったのだから当然のことでしょう。
 何と言っても、私の一番感動したのは第四話の「日本よ、運命の愛と哀しみ」の一巻でした。ハルの父親、高倉忠次が「日本人の心」を遺憾なく発揮したあの熱演でした。終戦後、この地に起きた勝ち組・負け組みの混乱葛藤の時期に「我国日本は負けるはずがない」「俺は日本人だ」と声高く頑ななまでに貫き通した彼の姿に、その当時を生きた私たち一世には、思い新たな心の疼きに熱いものを抑え切れませんでした。
 亡き夫豊もその勝ち組の方でした。昼はパトロンの庇護の下に何事もなく畑仕事に精を出し、夜にかけて山道三十キロを馬に乗って町に行き、戦勝の情報を聞きこんで勇んで帰ってきたものでした。臣道連盟とかにも入っていましたが、時経ってさまざまの矛盾を感じ、ついに脱退しました。
 それというのは―ブラジル国内の日本人農家は皆ここを引き上げ、日の丸のもとアジアで営農することになる。我々を迎えの船が今、続々とサントスに向かっている。既に○○宮殿下が我々を引率のため着伯されている。当地方にも間もなく来られるから歓迎の旗とできるだけの寄進をするように―というものでした。(つづく)