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カザロン・ド・シャ保存運動――中谷哲昇さん特別寄稿――=連載(1)

2005年12月17日(土)

 ブラジル、大サン・パウロ圏の東方に位置するモジ・ダス・クルーゼス市の郊外、コクエラ地区に日系移民大工が建てた製茶工場があり、地元の人達からカザロン・ド・シャ(お茶の館)と呼ばれている。独特の有機的な造形美を備えた、この国では珍しい木造建築で、鬼瓦に刻まれた年号から一九四二年に建てられたことが分っている。
 一九八〇年代の初め、地元建築家を中心としてこの建物の保存の必要性が訴えられ、州政府文化局の調査するところとなり小冊「Casarao do Cha(カザロン・ド・シャ)」が刊行された。そして一九八二年州政府文化財保護機関より、更に一九八六年連邦政府文化財保護機関によって、州及び連邦政府の文化財に指定された。
 この建物の歴史を見ると、もと長野県にあった片倉製糸の当時のオーナーが私費によって、北海道大学農学部出身の農学士揮旗深志をブラジルに派遣、一九二六年片倉合名会社の名前で百七十アルケールの農園(コクエラ農場)を購入した。揮旗深志は農業雑誌「農業のブラジル」の編集長なども務め、多くの記事を書き、農業技術の発展に貢献した。コクエラ農場では茶の他に種々の農産物が栽培されていたが、第二次世界大戦の折、茶の世界的生産地であったインドからヨーロッパへの航路が遮断され茶の値段が高騰、ブラジルの製茶業が好況に見舞われ、新工場として一九四二年に建てられたのがカザロン・ド・シャである。
 この建物は棟梁・花岡一男に依頼して約1年がかりで建てられた桁行三五・五〇メートル、梁間一五・四〇メートルの製茶工場であり、第二次世界大戦終結後もしばらく盛んにお茶を製造していた。時代を経て工場の所有者が替わり、製茶は一九六八年頃まで続いたが、その後は農作業用倉庫として長く利用されていた。
 私達がカザロン・ド・シャ保存運動を始めるに当たり、民間非営利団体として協会を設立、現在で九年を経過している。協会の設立に至るまでに、地元コクエラにある日本人会、モジ地域日本人会の連合体であるモジ文化協会、またサン・パウロ文化協会などに保存の協力を呼びかけた。しかし反応は鈍く、結局のところ協力は得られず独自の協会設立に踏み切った。協会設立当初、保存活動に対する地元日本人会の扱いは、半ば白眼視といったところであった。
 二〇〇三年連邦政府文化省に申請していた三期に分けての復元工事プロジクトが昨年認可、今年七月第一期工事分が文化基金より交付され本格的復元工事が始った。また州政府より援助金が出て状況は好転しているものの、保存活動に参加する人が少なすぎることを痛感する。そして、この状況は何に由来するのか考え込まざるを得ない。協会責任者の組織力・指導力の不足と言うこともあろうが、どうもそれだけでは無さそうである。(つづく)