2005年12月17日(土)
醍醐氏は、水本サ紙社長は以前両替店を経営していたが、そう大量の円を持っていたとは考えられない。
自分は円を売ったことはない、社員のだれかが持ち出して売ったとしても自分の責任ではない、と水本社長は言ったと書いている、 だが、サ紙社に円売人がかなりひんぱんに出入りしていた評判もあった。
だから手持ちの円は小額であったにしても、外から運んでくるとすれば売れるだけに、入ってくるよう、組織は出来ているはずだ。
新聞経営よりも円売りのほうが利益があったかもしれない。
のちの編集主幹になった内山勝男氏など円売り場の主任だったという話もある。
なお水本社長は、社員が勝手に小額の円を持ち出し売ったとしても自分には関係ないといったそうだが、水本社長はサ紙を創業する前は弁護士事務所を経営していた。
弁護士たる者が社員たちが無断で持ち出せるようなところに円をしまっておくものだろうか。
実は小生は円を売り買いする人を知っている人と話す機会があった。小野某といい、一九三五~四〇年頃、ブラジルのルッタリーブレの選手たちと柔道をもって勝負して人気を集めた小野の長兄といえば、戦前を知る人はすぐ見当がつくだろう。
この小野何某は小生のソグロの家へときどき花札あそびにやってきていた。いつも話の合う友人たちが三人、四人と集まってあそんでいたので小生と顔見知りになった。
小生は花札あそびはしないのでそばで新聞を読むか本を読んでいたのだが、ある日、小野何某と世間話をしているとき(一九五二年頃)ちょうど新聞の話題になっていた円売り事件に話題が移った。
小野さんはふと円売りの元締めを知っている、自分の友人もその下締めの円を売りさばいている、と口にした。
以前から興味を持っている話題なので小生はひざを乗り出してその下締めの人名を問うたが、「安良田さん、その人の名や組織についてはよく知り、私も円売りを誘われたりもしたが、危険を感じて参加しなかった。そういうわけで詳しく知ってはいるが、もし私が口外したことが判ったらその日のうちに私は殺されているだろう。このことは絶対に口にすることは出来ない」と固く口を閉じた。
その後も機会あるごとにそれとなく引き出そうと試みたものの、とうとう聞き出すことが出来なかった。
醍醐氏は円売りそのものは存在しなかったのではないか、と存在を否定する方向に筆を進めている。が右の話からも存在したことが判然としている。
結局今となっては当時者はほとんどが死亡している。もし、徳尾渓舟のように日記をたんねんにつづる当事者がいて、その日記が発見されない限り、永遠に迷宮入りとなるだろう。
(おわり)
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「勝ち負け問題 私の視点」を今後、不定期で連載していきます。