ホーム | 日系社会ニュース | 交流協会研修生事業の継続を=過去25年で748人派遣=受入れ側に期待の声盛ん

交流協会研修生事業の継続を=過去25年で748人派遣=受入れ側に期待の声盛ん

1月1日(日)

 両国百年の計には「人を植え」日伯の架け橋的人材を育てる―とのスローガンをかかげ、一九八一年から日本ブラジル青少年交流協会として日本の若者をブラジルの大地に植え続けて四半世紀。派遣した研修生は七百四十八人にものぼる。現在OBは架け橋になるべく、ブラジル、日本だけではなく世界で活躍している。今年六月には「派遣事業中止」の報が流れ波紋を広げていたが二〇〇七年からは「新しい交流協会」として派遣事業を開始。青年交流を重要視するコロニアからは期待の声があがっている。今、交流協会は二十五年という歴史の重みを認識、OBが結束して継続・発展に向け動き出したところだ。同協会設立以前から「人植え事業」に力を注いできた人々の貢献を振り返り、次の世代へたすきをつなぐべく、今までの「ニッパク」の動きを総括した。

 今年六月、同制度中止の知らせが流れコロニアでも「是非存続させるべきだ」などの声があがるなど波紋が広がっていた。青年交流を重視する実に多くの人が派遣事業開始当時から現在まで協力、支援をしてきた。二〇〇七年から「新しい交流協会」として事業を始めるにあたって、コロニアから期待の声があがっている。
 同協会の実質的な創始者は故・斉藤広志初代事務局長。その妻、志津さん(82)は、「日系社会も三、四世になるにつれて、一世が減ってきている。日本からもっと若い血を入れなければ。主人がよく青年交流の大切さを話していた」。
 ポンペイア西村農工学校の西村俊治校長は第一期生から現在まで十六人の研修生を引き受けてきた。「当校の厳しさは有名らしく、来てくれる研修生は実に良くがんばった。今でも、私が訪日するたびに連絡を取り合って歓迎会を開いてくれる。五年後、十年後に会った彼らが何らかの形でブラジルとの架け橋になっている」と話し「これからは、日伯で働くOB同士がお互いに協力して、事業の発展と継続に努力していただきたい」との激励の言葉を述べた。
 「二十五年という歴史があるんだからOBがもっと表に出て運営する時期にきている」と言うのは高野書店の高野泰久店主。「交流協会生ということに誇りを持ち続けて欲しい。基金をつくって運用していくことも必要だと思う」。
 谷広海日本語センター理事長は「何か自分たちの技術を提供するような制度も必要。あと、事前合宿でもっとブラジルのことも研究しないと」。JICAの石橋も「せっかく九十万も時間とお金使って来ているわけだからもっとプラスになるものを考えないと。渡伯前にもっと明確な研修計画を研修生が知るべき。何をするのか知らないまま来ているケースが多い」と問題を指摘する。
 「若い人の交流は地球上の大事な交流」と断言する文協の上原幸啓会長は「とにかく若い人が違う国の人と心と心の交流をして平和な社会を作って欲しい。また、ブラジルに来て終わりではなく、関係を続けていくことも大事」。関根隆範文協副会長は「日本をもっと外に伝えていかなければならない。伝えることで帰ってくる。それを担うのは若い人。二十五年間で蓄積されたいろんな人の知恵を絞って継続することが大切だ」と語った。
 在サンパウロ日本国総領事館の丸橋次郎首席領事は「たくさんのOBが日伯関係で活躍しているので、ずっと続けることが大切。大学生などだけではなく、感受性が豊かな高校生、中学生の交流もできればいい」。西林万寿夫総領事も「長期的に考えても極めて重要な交流。もっとこれから盛んに交流を進めるべき」と期待を寄せている。
 ブラジル日本交流協会の山内淳会長は「今の交流協会では本当の意味での交流はできていない。OBもたくさん活躍しているが来て帰るだけでは意味が無い。今後は研修をしながらブラジル社会にも漬かれる夜学にも通える制度をつくれたらいいと思う」と考えを示した。

■「人植え」の研修生たち=日伯の懸け橋として活躍


 一九八一年、第一期生がブラジルに飛び立ってから二十五年。現在OBらは、ボランティア活動や自営業、また駐在員としてブラジルで働く者も多い。中南米をフィールドに新聞記者をする者、外交官として世界をまたに架けて活躍する者もいる。日本でブラジルに関係する活動をする者も多く「日伯の架け橋」になるべく活躍している。青年交流の構想を温めていた故・斉藤初代事務局長は、この事業に余生をかけた。当時、日本側の事務局長を務めていた玉井義臣現会長も「石にかじりついてでも学生二百五十人をブラジルに送る」との理念をかかげ協会の発展に尽力してきた。設立以前から、日伯の未来のため心血を注いだ交流協会の歴史を振り返る。
▽日伯青年交流の幕開け
 一九七五年、経済ミッションで来伯していた故・永野重雄交通遺児育英会会長(当時、日本商工会議所会頭)は、「日本の若者を育て活躍させる会」を発足させた。発足当初は、交通遺児を対象としたものだったが、翌年、訪日していたガイゼル大統領と会談した永野会長が「日本ブラジル青少年交流協会」の構想を提案。全ての若者を対象に門戸が開けられた。
▽第一期生、ブラジルへ
 しかし、当時は事務局もまだなく、肝心の派伯留学研修制度の構想は進まなかった。そのような時、以前から交通遺児救済運動を手伝っていた藤村修氏が七九年に協会事務局次長に就任。翌年、全伯を視察し各地で留学研修制度の相談をした。そして八一年、第一期生十三人がサンパウロに飛び立ち、「人植え」事業が始まった。三期生からは外務省とJICAの後援も得られるようになった。
▽相次ぐ大黒柱の死
 斉藤事務局長が八三年に、翌年には永野会長が他界したが、その後、故・武田豊新日本製鉄社長が会長に就任。斉藤事務局長に代わっては故・相場真一前日伯文化協会会長が務めることになった。以後、八期生には三十六人と人数も増えた。八七年には「ブラジル青年代表訪日研修団」を招聘、ブラジル各地の大学生が日本で短期留学した。
▽社団法人へ
 社団法人となったのは八九年。設立総会を開催し、外務省に設立の申請をした。それと同時に藤村次長は専務理事に。ブラジル事務局長には斉藤事務局長の娘婿、篠原ベルナルドさんが就任した。九十年にはブラジルの大統領官邸で玉井理事長、藤村専務理事が相場ブラジル代表、篠原事務局長らと野村丈吾連邦議員の案内でコーロル大統領と面会。ブラジル支部認可の陳情を行い、快諾を受けた。そして二〇〇〇年。ブラジル支部は日本に本部を置く任意団体として役割を担ってきたが「ブラジル日本交流協会」を設立し、ブラジル政府認可の公益法人として独立した。


■明年から事業開始か=ブラジル側協会が主導

 「次世代ニッパク」誕生へ向けて―。日本の若者にブラジルで「働きながら学ぶ」機会を提供するなど派遣事業を行ってきた日本ブラジル交流協会。二〇〇七年からは軸足をブラジルに移し「ブラジル日本交流協会」が派遣事業を行うことになった。OB・OGら新たな世代が事業の運営をし、成長させていく役割を担う。現在は、新しい交流協会像を模索している段階だ。
 同制度は、今年六月に「派遣事業一時凍結」の知らせが流れるなど存続の危機に陥っていた。OBらも四半世紀続いた制度を「存続させたい」と結束。協議した結果、来年四月から次期二十六期生をブラジル本部が日本から受け入れることが決まった。そのため、今年四月にはOBらの有志で「日本支部」を開設する考えもある。
 同協会事務所は設立前から人文科学研究所内にあった。そのため、直接関わりはなかったものの第一期生からの研修生を見てきた宮尾進顧問は「ブラジルでの経験があるOBらがやっていくのは、大変だろうが非常にいいこと。もっと実質的な交流を目指せるはず」と期待をよせている。また、「一年は短いよ。帰る間際にやりたいことを見つける子が多いみたいだから場合によっちゃ二年くらい滞在できる制度もつくれたら」と希望を述べた。
 最近では研修生が四十人規模になり、協会のモットー「ひとりひとりに目をかけ、手をかけ、心をかける」の姿勢を明確にできなくなってきていた。故・斉藤初代事務局長の娘、文子さんも「人数が多かったら大変よ。目が行き届かないし、治安も悪いし心配で寝られない時もあった」と話す。そのため、研修生の人数を減らすことも考えている。
 「これまでやってきたことを否定するのではなく、良い部分は残し、現状に合わない部分は検討していく」と説明するブラジル日本交流協会の藤本明司事務局長。今後は、同制度の「人育て」という基本姿勢を崩さず新しい交流協会を設立していきたい考えを示した。