2006年1月7日(土)
一つの出来事が「歴史」として成立するとき、そこに捻必ず正しい記録と多くの証言がある。現代では報道機関の発達に伴い、地球上に起こる大きな出来事はすべて〃正しく〃報道されて、それが事実の記録として後世に残される。
ところが、歴史はすべて事実にもとづいているはずのものでありながらしばしば事実が歪められ、別の事実が作り上げられることもある。
あるいは後世の歴史家の視点、観点の相違によって表現に差異が生ずることもあって、なかなか認識の定まらない歴史もある。
去る十一月四日、ノンフィクション作家高橋幸春氏の寄稿『円売り伝説の虚実は本当か』によって端を発した戦後コロニアで繰り広げられた『円売り問題』は、まさに認識の定まっていない事件として最近のニッケイ新聞紙面を賑わしている。
当事者の生存が皆無な状態となっている今となっては、事実の確認は不可能であり、関係者の言を総合して導き出された推定をもとに整理されたものが、円売り問題の歴史認識としてほぽ定着しているのが現状のようである。
高橋氏が、四年前に刊行した『天皇の船』に対して否定的な見解を示したという醍醐麻沙夫氏がサンパウロ新聞記念特集号に寄稿した『円売り伝説の虚実』の中で、円売り事件の中心人物として疑惑を持たれていたサ紙前杜長水本光任氏を擁護する内客に疑問点が持たれたとして、遅ればせながらそれに対する考察を述べたのがこの論争(という性格のものではなく、相互の意見の開陳と書うべきか)の発端である。
それに対して醍醐氏は水本氏の人となりに触れ、人間的に尊敬するに値する人物と評価した上で、円売りに関わったことは事実であるが、両替商もやっていた関係で職業としての範囲を出ることもなく、従って犯罪(戦後無価値に等しくなった円を意図的に売った詐欺行為)に絡むような大した取引もない――という見解を発表している。
ただし、この見解の根拠は半田知雄著『移民の生活の歴史』に記述された内容から来ており、個人的に行った調査の結果とも一致しているので、以後「円売り問題に対するスタンスは半田知雄さんのそれを踏襲しています」と言明している。
お二人の見解は完全に齟齬を来たしており、互いにご自分の既成認識の上で自己主張を繰り広げられている。このことはとりもなおさず、同問題がいかに不鮮明な要素に満ちた事件であり、かつその全様が見えているようで全く見えていない、つまり闇の中の出来事であったかを物語っている。
通説では、円売りの中心人物の一人がサ紙前社長とその取り巻きと言われ、かつて私が渡伯して間もない頃(一九六〇年代)周囲から聞かされた情報であった。 もちろん私は〃事実〃を知らないし、水本氏も個人的には全く面識のない人であったから、その噂(風説)を〃本当のもの〃として聞いた。
また、その頃あった「週刊時報」社の星野主幹が、同問題に関して誌面で執揃に水本氏を攻撃していたこともあって、〃水本首魁説〃は揺るぎのないものとして、私をはじめ多くの人に印象されたのではないかと思う。
いずれにしても、これらの情報は全て表面的、局部的なことであって、仮に水本氏が円売りに深く関わっていたことが事実(これは醍醐氏が水本さんは否定しなかったけど『大した額ではなかった』とも付け加えたと、十一月十七日の寄稿文の中で実に重要な証言をしておられる)であったとしても、おそらくは大きな組織の中心にいた人物ではなく、その組織の末端(コロニア社会の一部)を動かしていた人物と見るべきであろう。
なぜなら、大量の円が出回ったといわれるその大量の円が、ブラジル国内にあったものではなく、一説ではユダヤ人が持ち込んだものということだが、個人としてのユダヤ人とは思えず、ユダヤ系の、あるいはアメリカ系の銀行を通してブラジルにあった日本系銀行などに持ち込まれたものとの見方も出来そうだ。
大量の円のルートが仮定できれば、あとは私のような素人の考えでも、それがどのような経路を通って水本氏あるいは売買業者の手に渡ったかはおおよその見当がつこうというものである。
同事件の追跡調査をしたというパウリスタ新聞記者の言(安良国済氏の寄稿文)ではないが、それを追い詰めて行くと当時の「東山銀行」の某氏に辿り着くことも容易であろうし、さらに同氏の背後にはもっと大きな銀行が控えていることも想像に難くないのである。 抱え込んでいる大量の円が一夜にして無価値に等しい。言わば紙屑同然になったとき、銀行家は何を考えるか。出来ればそれをもっと価値ある他の貨幣と速やかに交換することを考えるだろう。
幸運にも、ブラジルの田本人社会の戦勝派が円を欲しがっていることを知り、アメリカやブラジル国内にあった円を〃大量〃に目本移民杜会に持ち込んだ。日系金融業者や情報を流し易い邦字新聞に渡りをつけて、麻薬販売ルートにも似た組織を形成し、末端消費者(勝ち組)の手に流れる方法が講じられたのではなかったか。
安良田氏の寄稿文(十二月十七日)の中に、もし〃元締め〃の名前を口外すればその日の内に自分は殺されているだろうという氏の知人の談話が載っている。組織の内情は絶対に外に漏れないように用意周到な網が引かれていたことは確かであったろう。
だから醍醐氏の言う。
〃点〃ばかりが見えて〃線〃は見えなかったのである。〃線〃が簡単に見えてしまうようでは組織としては不完全である。
おそらく、邦宇新聞記者が追跡したくらいでは崩れそつもない強固な〃城壁〃が築かれていたであろうことは用意に想像できる。
昔観た『日本列島』という日活映画を私はふと思い出した。
巨貨幣偽造事件を追った記者が、ほとんど核心まで追い詰めたところで、ついに突き破ることの出来ない大きな厚い壁にぶつかった挙句に何者かに殺害されてしまったという内容であった。映画でははっきり語らなかったが、暗にそこには巨大な国家組織が関わっていて、事件の解明を完全に阻んでいると観客に思わせるような結宋であった。
コロニアの円売り問題も、突き詰めて行くとその辺りに辿り着くのではないだろうか。証拠は何も残さないように仕組まれた一つの完壁な組織の網がいち早く敷かれていたのである。その完壁さに守られて、〃彼ら〃は悠然と移民杜会の中で自己の名声を混存し続け、後年には日本政府の叙勲や民間組織の表彰を受けたりしたのである。
六十年過ぎた今、コロニア随一のプロ作家醍醐氏をして、「不毛な議論」と言わしめた完璧さというべきだろう。
しかしながら、いつかその完璧さの一角が崩れる火のあることを私は信じているし、そのために高橋幸春氏のような体制を怖れぬ気鋭ライターの出現と、弛まぬ追究の手が継続されて行くことを念じているのである。