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ブラジル雑語ノート――「和泉雅之・編」の〃順不同〃事典――=連載(1)=セレナッタ=彼女のハートを射止める即興歌

2006年1月12日(木)

 和泉雅之さんが「ブラジル雑語ノート」を書いている。わたしたちが日常日本語のなかに、ごく普通のように交え、その意味についてなんら疑わないポ語単語がたくさんある。ところが、それが案外正しくない。和泉さんのノートを読めば、楽しくそのことばの来歴、意味、周辺を知ることができる。以下、ノートのなかのいくつかを紹介する。
 ポルトガル語のセレナッタ (Serenata) は、イタリア語のセレナッタ (Serenata) に由来する。イタリア語で、セラ (Sera) は「夕方、夜」という意味。類似語のセラタ (Serata) は、日没から就寝までの時間をいう。この時間帯(よく晴れた月夜)に、若い男が、いとしい娘の家へいく。彼女の寝室とおぼしき部屋の窓をあおぎ、ギターを奏でながら恋歌を歌う。その歌をセレナッタといい、十七世紀のヴェニスでは、ゴンドラの専属歌手がよく歌ったので、曲がパターン化した。日本では、小夜曲(夜の初めころに歌う歌)と訳されているが、セレナードというフランス語もよく使われる。
 二十一世紀の今日、窓下で恋歌を歌う若者は、イタリアにもフランスにもいない。ブラジルの場合、一九七〇年代前半までは、地方の小さな町で、ときおり聞くことがあった。歌うにあたり、ギターも重要な小道具とされる。ギターは、十四世紀から十五世紀にかけて、アラビア系弦楽器とラテン系の竪琴を元に、スペインで改良された二弦または四弦の楽器。スペインギターと呼ばれる。
 若い男がギターを奏でつつ、その場で作詞作曲した即興歌を歌う。歌詞がいかに熱烈で、曲がいかに感動的で、声がいかにすばらしいか。聞き手はこれらの点を審査する。聴衆は、めざす娘だけではない。就寝前の時間帯であるから、家族全員が聞いている。もちろん、隣近所の家でも聞き耳をたてる。歌声が聞こえてくると、だれが歌っているのか、娘にはすぐにわかる。そこで、家族との団らんから抜け出し、自室(たいがい街路に面した二階の一室)へこもる。居間で聞いている両親は、その若者がだれであるのかわからない。しかし、家の窓下で歌うからには、娘に恋をしていることだけは理解できる。歌い手の身元がわかっていれば、交際を許すかどうか即決する。許さないなら、父親が外へでて、若者を追い払う。相手がだれなのか、すぐにわからなければ、そのまま歌をきく。
 歌がうまければ、父親は母親に、「おい、あの若者にお茶(ブラジルではコーヒー)をふるまってやれ」と命じる。母親は戸を開け、若者を招じ入れる。家に入るというのは、「交際許可の可能性」があることを意味する。その夜、父親は若者とうち解けて話す。ただし、肝心の娘は、部屋にこもったきり居間にはおりてこない。対話をつうじて、父親が「この若者はしっかりしている」と判断したなら、交際は許可される。話が下手だったり、話の内容が低劣なら、「出ていけ」とばかりに追い出される。したがって、セレナッタの成否を決める第一関門は、声がよく歌がうまいこと。第二関門は、家のなかへ入れてもらえるかどうか。第三関門は、父親が気にいってくれるかどうか。娘の意思とは関係なく、三つの試験に合格したなら、めざす娘と交際できる。ただし、交際がはじまるのは、翌日の昼間。あらためて若者が訪問したとき、両親が立ち会い、娘との顔合わせがおこなわれる。
 これら、一連の手続き(行為と儀式)をセレナッタといい、十八世紀から十九世紀のヨーロッパで流行した。ブラジルでも二十世紀半ばまでは、この習慣があり、貴族制度の廃止による社会規範の変化とともにすたれた。他方では、男女の出会いと交際について、ジャルジン (Jardim) と呼ばれる新たな方式が導入され、封建社会の厳しい戒律がゆるんだことも、大きな理由とされる。とくに、第二次世界大戦後、アメリカの思想と風潮がブラジルへ持ちこまれ、サン・パウロやリオデジャネイロのような大都市では、わずか十年くらいの間にアメリカナイズされた。恋愛の自由が謳歌されるようになると、セレナッタの意義が失われ、今では完全に忘れられてしまった。【文=和泉雅之】