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ブラジル雑語ノート――「和泉雅之・編」の〃順不同〃事典――=連載(2)=ジャネラ=若いふたりをとりもつ窓

2006年1月13日(金)

 ジャネラ (Janela) は「窓」にちがいないが、別の意味は、「未知のふたりが知り合う場所」、または「窓を仲介する若い男女の出会い」。二十世紀初めころまでのブラジルで、年ごろの女性(とくに十六歳から十八歳)が、すてきな結婚相手を選ぼうとするときに、しばしば利用した手段。封建思想が支配していた時代、若い男女の恋愛はタブーだった。そういう社会規範のなかで、主として、庶民階級の間にひろまった習慣である。
 恋人を求めようとする娘が、街路に面した窓際にイスを置く。それに腰掛け本を読む。文字を知らない女性(庶民の娘はほとんどが文盲)なら、刺繍または縫い物をする。外をとおる若い男が、それを見てひと目ぼれする。男のひと目ぼれは勝手だが、女性のほうは、相手を選ぶ立場にある。この場合、女はたったひとり。男は、外の街路をとおるすべての若者。少ないほうが選択権を持つのは、とうぜんのこと。この選択権をうまく行使するのが、ジャネラの成否を決める重要ポイントとなる。
 年ごろの娘が窓際にいて、容姿をさらすのは、「すてきな男性を求めています」という、アピールにほかならない。一方、ひと目ぼれした若い男が、同じ街路をひんぱんに歩くのは、「なんとかあなたとお話したい」という、恋心の表示である。だから、毎日、同じ時間帯に、娘は窓辺で刺繍に熱中し、男は窓のすぐそばを散歩する。最初は「さりげない態度」をとり、顔をたしかめようとはしない。街路で若い男女が、異性の顔を見つめたり、笑いかけたり、話しかけることは、社会規範に反する行為とされた。その厳格なしつけが、庶民階級にまで浸透していたので、窓辺にすわる女性は、外の人に顔を向けることはなく、男性もまた、女性の顔をしげしげとながめることはしない。遠くから、相手にわからないよう、チラリと目をくばるだけ。近距離になると、双方が顔をそむけ、「まったく関心がない」といった態度をとる。
 そっけない態度をとりながらも、顔見せをくりかえすうちに、ふたりとも「気がある」とわかってくる。その間に、娘の親は、相手の若者について情報を集める。身元がわかり、親がなっとくした場合、交際相手として許可する。親の許可をとりつけた娘は、男が窓の外をとおるときに、ニッコリと笑顔を見せる。翌日の出会いでは、「おはよう」とか「こんにちは」とあいさつする。翌々日は、お互いに名を教える。こうして、窓をはんさんだ短い会話がはじまる。数日後に、母親が顔を出し、若者を招き入れる。居間には父親が待っており、若者と話す。その時点で、ふたりをとりもった、「窓」の役割は終わる。
 ここに紹介したのは、ひとつのパターンではあるが、絶対的なものではない。ケースバイケースで、いろいろな変化をする。要するに、若い男女の恋愛が、いちじるしく制約されていた時代における、社会的に認められた「出会いの方法」である。娘の親が、どの時点で若者を認めるかが問題。親が認めないなら、いくら娘が熱をあげても、その恋はみのらない。日本では、一九五五年ころまでの時代がそうであり、ブラジルも同じだった。恋愛の自由が社会的に認められたのは、第二次世界大戦後のこと。急速にアメリカナイズされたことにより、ようやく古い制度が撤廃された。
 それまでは日本と同じく、封建的思想が支配し、自由恋愛はもってのほか。親が選ぶ相手と見合いし、両家の当主が了解したなら結婚が成立。そういう時代(とくに十九世紀)には、ジャネラがしばしば利用され、庶民の娘が玉の輿に乗ることも、けっして夢ではなかった。しかし、ジャネラがすたれたのは、戦前のこと。貴族社会の規範がゆるんだのと、ジャルジン (Jardim) と呼ばれる、まったく別の方式(出会いの場)がひろまったからである。【文=和泉雅之】

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