2006年1月31日(火)
【フォーリャ・デ・サンパウロ紙三十日】米海軍の射撃隊に配属され〇五年十月からイラクへ派遣されたブラジル人フェリッペ・C・バルボーザ伍長(二一)が二十八日、勤務中に殉職した。同伍長が便乗していた軍用トラックが、バグダッドの西方五十キロ地点にあるファルージャ近郊で転倒し、ブラジル関連初の犠牲者となった。同伍長はリオデジャネイロ州ベント・リベイロ出身、九歳のとき米国へ移住。遺体は母親や兄弟が居住するノース・カロライナ州に埋葬すると親族が報告した。米国防省は、まだ死亡未確認としている。
米国防省は、遺族に報告した二十四時間後に死亡確認を行う慣例となっている。ブラジル外務省は、在イラク・ブラジル大使館が不在のため、ヨルダンのアマンから詳細報告を受け、公式発表を行う。これまでの報告は口頭であり、文書によるものはない。
トラック転倒は、テロの襲撃によるのか経緯や状況説明はない。同伍長は米海軍の第六師団に属し、射撃隊の伝令担当士官であった。同伍長は確認されたイラク派遣の犠牲者第一号であるが、他に〇五年一月十九日消息を絶った生死不明者ジョアン・J・ヴァスコンセロス氏がいる。
同伍長のイラク派遣は、二回延期された。一回目は、米国のイラク武力介入の初期であった。降下訓練で目まいがしたため、選考から外された。二回目は、ヘリコプターからの飛び降り訓練で樹上に落ちたため骨折で外された。
同伍長の一家は一九九四年、両親と弟の四人で米国ボストンへ移住した。両親は二〇〇四年、離婚。同伍長は、母や弟と共に米国に永住した。父は帰国、そしてゴイアス市で再婚した。父は息子の訃報を聞いて、旅費融資を申請した。父は帰国後、一度も会ってない息子に最後の告別をしたいと願っている。
一家は両親の離婚後、ノース・カロライナ州ハイ・ポイントへ移った。同市で同伍長は、海軍士官学校へ入学。二〇〇四年、米人女性と結婚。一家を連れてブラジルへ帰国することが夢だった。両親の離婚以来、同伍長は一家の大黒柱として生活を支えた。
米国では、軍人志願の外国人子弟に数々の恩典を与える。ブラジル人在留社会の若者にも、魅力ある恩典である。軍隊に志願すれば立派な米国軍人として大手を振って歩き、貧困と密入国者狩りの恐怖から解放され、人間らしい生活が保障されるのだ。
米国防省の軍人を最高の栄誉とする宣伝文句は、限界状況の底辺で暮らす青少年を誘惑するに心憎いばかりである。テレビでは四六時中、志願兵の格好よさが映し出される。両親への志願説得法や新兵訓練後の自信に満ちた我が子の変貌振りを誇示する。
高嶺の花であった陸大への進学を、息子が貧しい両親へ報告する。軍人ボーナスや奨学資金、退役後の生活保障、裁判での特権保障、豪邸購入への長期低利融資。しかし、前線では兵士不足のため、休暇遅れや代理勤務中の事故が続発している。国防省は、卒業証書大安売りの学徒出陣も検討している。