2006年2月2日(木)
あの感動はどこへ――。一九六七年五月二十二日から一週間にわたった皇太子ご夫妻(現両陛下)の訪伯は、笠戸丸から五十九年目にしてようやく実現したコロニアの悲願だった。その時、セアザ(当時は州食料配給センター=現在は連邦管轄)内に造成された日本庭園は現在、なかば打ち捨てられたようになり、皇太子自らが除幕された記念碑すら、顧みる人が誰もいない状態になってしまっている。この四月に市場代表者による世界会議が開催される機会に、セアザのカルモ・ロビロッタ・ゼイトゥーラ所長は、日系コロニアの農業への貢献を顕彰したいとの希望を語った。同時に「それまでに、コロニアの力で美しい庭園をぜひ整備してほしい」と依頼した。
現両陛下の初訪伯は、六七年当時、伯字紙各紙もトップ扱いで大々的に報じた。宿泊されたオットン・パラセ横のアニャンガバウーの谷は十万人以上の歓迎するサンパウロ市民で埋まった。同二十五日午前はパカエンブー競技場で歓迎式典が挙行され、熱狂する八万日系人が集まった。
同日午後三時からはセアザ入り口で、ご夫妻の臨席のもと、来伯記念碑の序幕が行われた。場内では「在伯邦人産業展」として、各地方の特色をうちだした十三の農産品コーナー、三十六社の日系企業デモンストレーションがあった。中央には日本庭園、隣には熱帯の鳥類や淡水魚、蘭などを展示した。
一時間の視察予定が、半時間もオーバーするほど関心を見せられ、矢継ぎ早に質問をされた。州立動物園から借りてきたパパガイオやツッカーノが、美智子さまの着物を突っつき笑いがもれたとか、植物学に造詣の深い皇太子さまが熱心にサボテンについて質問する様子が、当時の邦字紙には詳細に報じられている。
その日本庭園が後に記念碑横に移設され、現在では草ボウボウの状態になっている。囲んでいる金網は破れ、入り口の鍵のありかも定かではない。中の池は、わずかに雨水が溜まるのみで完全に放置状態。所長補佐のツツミ・クリスチーナさんは「八〇年代末まで鯉が泳いでいた」のを憶えている。コチア産組なき後、誰も世話をする人がいなくなったようだ。
時計塔の裏、駐車場脇に位置し、今ではセアザで働く人ですらその存在を知らない人が多い。全体は、三角形の土地で一部芝生が植えられている。
一月三十日午後、ブラジル日本文化協会の小川彰夫副会長、同所長、ツツミ補佐、加藤恵久氏(元コチア産組蔬菜果実部長)、SINCAESP組合の井上久弘執行部補佐らが第一回会合をセアザで行い、意見を交換した。
同所長は「ブラジルに野菜が豊富にあるのは日本人のおかげ。セアザの基礎はコチアと南伯が作った。深い関係がある」と強調する。さらに「四月の世界会議の時に、農業に対する日系コロニアの貢献を顕彰したい」との意向を語った。その時までに日本庭園を整備し、「イビラプエラ公園の日本館のような、日本文化を感じさせる場所になるようコロニアの協力がほしい」と要請した。
同世界会議には、日本を含めて世界三十カ国からの代表団の参加が見込まれている。四月二十五~二十八日にサンパウロ市内ホテルが開催されるが、最終日に一行がセアザ視察をする際、日系コロニアを顕彰する式典をする予定だ。同会議には二十七日にはルーラ大統領が、翌日にはロドリゲス農務大臣が臨席する。
小川副会長は「大事な記念碑や日本庭園がこのままではいけないと思う。日系人が果たした大きな役割を残すことは、百年祭に向けて大変意義深い。何とか協力できないか、各方面にお願いしてみるつもりだ」と前向きに検討する考えを示した。