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高橋麟太郎博物館=アラサツーバの新名所=インディオ装飾具など展示=「歴史に残る人です」

2006年2月11日(土)

 インディオの土器や珍しい岩石を集めた高橋麟太郎博物館が昨年十一月、故人にゆかりの深いサンパウロ州アラサツーバ市に開館し、県連の移民のふるさと巡り一行百二十三人が五日に訪れた。アラサツーバ日伯文化協会会長も務め、現会館を建設した立役者。後にノロエステ連合日伯文化協会の会長も歴任し、一九六八年にサンパウロ市で自動車事故のため亡くなった。アラサツーバ文協現会長である子息、高橋邦雄さん(78)が自宅を改装して一般に公開した。ノロエステ連合前会長、五十嵐二郎さんも「アラサツーバの歴史に残る人です」と位置付け、日系社会だけでなく考古学への貢献など、幅広い功績を顕彰した。
 高橋会長は開館動機を「以前は家の中に飾っていたんですが、毎年インディオの日になると、学校から生徒に見せたいのでバスで訪ねてもいいか、という問い合わせが多く、それだったらと博物館にしようと思いました」と語った。
 市内中心部にある自宅二階の一フロアー全体を改装して博物館にし、インディオの仮面や装飾具、土器、工芸品を中心に、珍しい岩石、化石、昔の写真など約三千点におよぶコレクションの一部を展示している。
 高橋麟太郎さんは一八九七年(明治三十年)に宮城県玉造郡に生まれ、東北学院中学部卒業。一九一三年、十六歳で家族と共に「若狭丸」で渡伯した。一七年にアラサツーバ近郊のアグア・リンパ地区に土地を買って入植し、農業をするかたわら日曜夜などに日本語学校教師をしていた。
 二二年には、南マット・グロッソ州カンポ・グランデ市で日本語教師、三五年からアラサツーバで書店を開き、その後、印刷所も経営した。
 故人と親交の深かった五十嵐前会長によれば、麟太郎さんがカンポ・グランデにいた時に、インディオに興味を持つようになり、趣味が高じて研究まではじめるようになった。次第に奥地に分け入って、未開の部族から珍しい説話を取材したり、土器や工芸品をもらったりするようになった。
 もともと学究肌だった麟太郎さんは、インディオ研究により考古学への造詣を深めた。ブラジル地理学協会会員になり、六二年にはブリガデイロ・コート・マガリャンエス文化勲章を受け、翌六三年には『ブラジルのインディオ(その生活と民族史)』(一九六三年、東京・帝国書院)を出版した。『アラサツーバ五十年史』の著作もある。
 アラサツーバ文協会長をつとめ、現在の立派な会館を建設した。六八年に日本政府より勲五等瑞宝章を受勲。同年、「会館建設のため、日本からの援助を受け取りにサンパウロの総領事館へ行った時、御茶の水橋にへんでオニブスにぶつかって亡くなったんです」(五十嵐談)とその急逝を悼む。ノロエステ連合の現会長、白石一資さんも「会館のイナグラソンまであと何カ月という時でした」と残念そうに振り返る。
 同地会館の横のルアは、それを顕彰して「リンタロウ・タカハシ街」と命名されたという。▼Museu Rintaro Takahashi=Rua Luiz Pereira Barreto, 707 ARACATUBA SP 土曜日の午前九時から正午まで開館。問い合わせ電話(18・3623・1246)